主はわたしの盾 2021年11月21日(日曜 朝の礼拝)

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主はわたしの盾

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 18章1節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:1 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】
18:2 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
18:3 主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。
18:4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。
18:5 死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ
18:6 陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。
18:7 苦難の中から主を呼び求め/わたしの神に向かって叫ぶと/その声は神殿に響き/叫びは御前に至り、御耳に届く。
18:8 主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。
18:9 御怒りに煙は噴き上がり/御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。
18:10 主は天を傾けて降り/密雲を足もとに従え
18:11 ケルブを駆って飛び/風の翼に乗って行かれる。
18:12 周りに闇を置いて隠れがとし/暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。
18:13 御前にひらめく光に雲は従い/雹と火の雨が続く。
18:14 主は天から雷鳴をとどろかせ/いと高き神は御声をあげられ/雹と火の雨が続く。
18:15 主の矢は飛び交い/稲妻は散乱する。
18:16 主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し/あなたの怒りの息に世界はその基を示す。
18:17 主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。
18:18 敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。
18:19 彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり
18:20 わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。
18:21 主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。
18:22 わたしは主の道を守り/わたしの神に背かない。
18:23 わたしは主の裁きをすべて前に置き/主の掟を遠ざけない。
18:24 わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。
18:25 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。
18:26 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に
18:27 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。
18:28 あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。
18:29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし/神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。
18:31 神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。詩編 18章1節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 『詩編』第18編は長い詩編ですので、今朝と来週の2回に分けて学びたいと思います。今朝は、1節から31節までを御一緒に学びたいと思います。

 1節に、こう記されています。「指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた」。第18編は、主の僕であるダビデの詩であります。ダビデはイスラエルの王でありますが、主の僕であるのです。イスラエルのまことの王は主であり、その主の僕がイスラエルの王であるダビデであるのです。ダビデは、主によってすべての敵の手から、またサウルの手から救い出されたときにこの詩編を歌いました(サムエル下22章参照)。そのことを念頭に置きながら、読み進めていきたいと思います。

 2節から4節までをお読みします。

 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。

 「主」とは、その昔、神様がモーセに示された御名前であります。「主」と訳されている言葉は、ヤハウェと発音されたと考えられています。その意味は、「わたしはある」という意味であります。ヤハウェという御名前に、「わたしはあなたと共にいる」という約束が含まれているのです。その主の御名をダビデは呼ぶのです。「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う」。「わたしはあなたを慕う」とは、熱烈な愛情表現であります。ある翻訳聖書では、「あなたをわたしは愛します」と翻訳しています(岩波書店『旧約聖書』)。敵の手から救い出されたダビデは、「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを愛します」と言うのです。そして、主こそ自分を敵の手から守ってくれる岩であり、砦であり、逃れ場であると告白するのです。水曜日の祈祷会で、『サムエル記上』を少しずつ学んでいます。ダビデは、サウルの手を逃れて、荒れ野をさまよっています。ダビデは、岩の要害にとどまり、サウルから身を隠すのです。その岩こそ、主であるとダビデは告白するのです。ダビデは、自分がサウルの手から救われたのは、主がわたしの岩となってくださったからだと言うのです。ダビデは、主の御名を呼び求めることによって、あらゆる敵の手から救われてきたのです。

 5節から7節までをお読みします。

 死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ/陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。苦難の中から主を呼び求め/わたしの神に向かって叫ぶと/その声は神殿に響き/叫びは御前に至り、御耳に届く。

 ここで、ダビデは敵によって受けた苦しみを、象徴的な言葉によって言い表しています。ダビデが敵から受けた苦しみ、それは、死の縄がからみつき、奈落の激流がおののかせ、陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている。そのような苦難であるのです。ダビデは、サウルから命を狙われ、何度も死の危険を味わってきたのです。その苦難の中から、ダビデは、自分の頭に油を注がれた主を呼び求めます。そのダビデの叫びは、天におられる主の御耳に届く。ここには、「主は、わたしの祈りを必ず聞いてくださる」というダビデの信仰が言い表されています。

 8節から16節までをお読みします。

 主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙りは噴き上がり/御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。主は天を傾けて降り/密雲を足もとに従え/ケルブを駆って飛び/風の翼に乗って行かれる。周りに闇を置いて隠れがとし/暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。御前にひらめく光に雲は従い/雹と火の雨が続く。主は天から雷鳴をとどろかせ/いと高き神は御声をあげられ/雹と火の雨が続く。主の矢は飛び交い/稲妻は散乱する。主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し/あなたの怒りの息に世界はその基を示す。

 ここで、ダビデは、主の怒りについて記します。ところで、主は、誰に対して、怒っておられるのでしょうか。それは、御自分の僕であるダビデを苦しめる敵たちに対してであります。なぜなら、主の僕であるダビデの命を狙うことは、主に対する反逆行為であるからです。ある研究者は、第18編は、第2編の続きであると述べています。第2編は、王の即位の詩編であります。そこに記されているように、主によって油を注がれた王に反逆することは、主の憤りを招くことになるのです(2:12「子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる」参照)。ここでダビデは、主の御怒りを、地震や火山の噴火によって、描いています(出エジプト19章参照)。空が雨雲に覆われており、風が激しく吹いている。雷が光り、大粒の雹が降る。そのような空を見るならば、私たちも神様が怒っているように感じると思います。そのような私たちの感覚に訴えて、ダビデは、主の御怒りを描いているのです。

 17節から20節までをお読みします。

 主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり/わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。

 天において、ダビデの祈りを聞かれた主は、御怒りを示し、高い天から御手を遣わしてくださいます。そして、ダビデをとらえ、大水の中から引き上げてくださるのです。「敵は力があり」とありますが、ダビデを殺そうとしていたサウルはイスラエルの軍隊を率いる力ある王でありました。しかし、ダビデは、そのサウルの手からことごとく逃れることができたのです。それは、主がダビデをサウルの手に渡されなかったからです。敵どもがダビデを憎み、殺そうとしても、主はダビデを支え、ダビデを広い所へと導き出し、喜び迎えてくださるのです。「ダビデ」とは「愛されている者」という意味ですが、主はダビデを愛して、助けてくださるのです。

 21節から25節までをお読みします。

 主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。わたしは主の道を守り/わたしの神に背かない。わたしは主の裁きをすべて前に置き/主の掟を遠ざけない。わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。

 ダビデは、主の御言葉に従う者として、「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる」と歌います。主は、最初、サウルを、イスラエルの王とされました。しかし、サウルは、主の御言葉に聞き従いませんでした。主はサムエルを通して、サウルに、アマレク人を滅ぼし尽くすようにと命じられました。しかし、サウルは、イスラエルの民を恐れて、最上の羊と牛を残しておいたのです。主に献げるという名目によって、私腹を肥やそうとしたのです。そのようなサウルに、主はサムエルを通して、こう言われます。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆はうらないの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは王位から退けられる」(サムエル上15:22、23)。また、サムエルはサウルに次のようにも言いました。「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる」(サムエル上15:28)。このサウルより優れた隣人がダビデであったわけですね。サウルは、主によって王位から退けられたのに、王であり続けました。主の霊がサウルから離れていたにもかかわらず、サウルは王であり続けたのです。サウルは、竪琴の名手であり、ゴリアトに勝利したダビデを喜んで召し抱えました。ダビデはサウルからも愛される者であったのです。しかし、次第にサウルはダビデを妬むようになります。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という女たちの歌を聴いて、ダビデを妬み、殺そうとするのです。サウルは心を病み、ダビデが自分の命を狙っているという妄想にとらわれてしまいます。そして、サウルに対して何の罪も犯していないダビデを殺そうとするのです。荒れ野に逃れたダビデを、サウルは執拗に追いかけ回すのです。

 サウルは主の御言葉を退けたことにより、王位から退けられました。しかし、ダビデは違います。ダビデは、主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけないのです。ダビデは、主に対して無垢であろうとし、罪から身を守ります。心を見られる主が選ばれたダビデは、そのような信仰の持ち主であったのです。そして、そのダビデの信仰がもっともよく示されたのが、ダビデがサウルを殺さなかったことであります(サムエル上24章参照)。ダビデと兵が洞窟に隠れていると、そこにサウルが用を足すために、入ってきました。ダビデの兵は、サウルを殺そうとするのですが、ダビデはそれを許しません。なぜなら、サウルは、主が油を注がれた方であるからです。ダビデは、サウルの上着の端を切っただけでも、心を痛めたのです。ダビデはサウルを殺すことなく、サウルの悪意に対して善意をもって応えました。それは、ダビデが、主を重んじる者であったからです。ダビデは主に対して無垢であろうとして、主に油を注がれたサウルを殺さなかったのです。

 26節から31節までをお読みします。

 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に/清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。主よ、あなたはわたしの灯を輝かし/神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。

 「あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し」とあります。ここで「慈しみ」と訳されている言葉は、「契約に対する誠実な愛」を表す「ヘセド」であります。神様は契約に誠実な者に対しては、誠実にふるまってくださいます。私たちが神様に対して取るのと同じ態度で、神様は、私たちに応じられるのです。神様は曲がった者には曲がった態度をとられるのです(聖書協会共同訳参照)。神様は本来、まっすぐな御方であります。それこそ、契約に誠実な愛の御方です。しかし、誰に対してもそのような態度で応じられるのではありません。心の曲がった者には、神様も心の曲がった態度で応じられるのです。それは、私たちと神様との関係が人格的な関係であるからですね。神様は、御自分の御言葉を退けたサウルを王位から退けられました。その証拠に、主の霊はサウルから離れていったのです。そればかりか、主は悪霊を遣わしてサウルを苦しめたのです。サウルは、主に託宣を求めますが、主はサウルにお答えにはなりませんでした。それは主が心のねじ曲がったサウルに対して、ねじ曲がった者として応じられたからです。新共同訳の翻訳によれば、「背を向けられた」のです。

 28節に、「あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる」とあります。「貧しい民」とは「自分の貧しさを嘆いて主に依り頼む人」のことです。そのような貧しい民を主は救い上げてくださいます。しかし、主は、高ぶる者、自分を神であるかのように振る舞う者を引き下ろされるのです。ダビデとサウルに対する主の振る舞いは、まさにそのようのものであったのです。主はダビデをサウルの手に渡すことなく、また、ペリシテ人をはじめとする異邦人たちの手に渡すこともしませんでした。むしろ、ダビデは、主の力によって、敵軍を追い散らし、敵の城壁を越え、勝利を収めたのです。

 31節の後半に、「すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる」とあります。これは、ダビデの証しの言葉であり、また、私たちに対する招きの言葉です。主は、ダビデだけではなく、御もとに身を寄せるすべての人の盾となってくださる。主は、御もとに身を寄せるすべての人を敵から守ってくださるのです。この主とは、神の御子であり、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、私たちをあらゆる敵から、罪と死と悪魔という敵から守ってくださるのです。主イエス・キリストが十字架の死を死んでくださり、三日目に栄光の体で復活されたことはそのことを示しているのです。イエス様は、十字架の死によって罪と死と悪魔に勝利してくださいました(ヘブライ2:14参照)。ですから、イエス様は栄光の体で復活されたのです(イエス・キリストの復活は勝利宣言!)。神様は、復活されたイエス・キリストを天へと上げられ、御自分の右の座に着かせられました。ダビデに約束されたとおり、ダビデの子孫であるイエス様を永遠のメシア、王とされたのです(サムエル下7章参照)。天に上げられた主イエス・キリストは、御自分の弟子である私たちにも油(聖霊)を注いでくださいました(使徒2章、一ヨハネ2:20参照)。そのようにして、私たちの曲がった心をまっすぐにしてくださり、私たちを神様の契約に誠実に生きる者としてくださったのです(エレミヤ31章参照)。

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