信仰によって義とされる 2021年10月31日(日曜 朝の礼拝)
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信仰によって義とされる
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- 村田寿和 牧師
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ガラテヤの信徒への手紙 2章11節~16節
聖書の言葉
2:11 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
2:12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
2:13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
2:14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。ガラテヤの信徒への手紙 2章11節~16節
メッセージ
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今日は10月31日、宗教改革記念日であります。1517年10月31日に、ドイツの修道士マルティン・ルターは、ヴィッテンベルクの城教会の扉に、『95個条の提題』(『贖宥の効力を明らかにするための討論』)という文書を貼りだしました。これによって、宗教改革が始まったと言われています。私たち改革派教会も宗教改革の流れを汲むプロテスタントの教会であります。それで、今朝は、マルティン・ルターによって再発見された信仰義認の教えを、『ガラテヤの信徒への手紙』から御一緒に学びたいと思います。
『ガラテヤの信徒への手紙』は、イエス・キリストの使徒パウロが、ガラテヤ地方にある諸教会に宛てて記した手紙であります。この手紙は、非常に論争的な手紙であります。ガラテヤの教会は、パウロの福音宣教によって生まれた教会でありました。そのガラテヤの教会が、エルサレムから来た偽教師たちによって、惑わされていたのです。偽教師たちは、イエス・キリストを信じるだけで不十分であり、割礼を受けなくては救われないと教えていました(ユダヤ主義キリスト者)。そのことを知って、パウロは、この手紙を書き送ったわけです。今朝の御言葉も、偽教師たちとの論争が背景にあります。先程は、第2章11節から16節までをお読みしましたが、今朝は、15節と16節を中心にして、お話ししたいと思います。
15節と16節をお読みします。
わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
パウロが、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって」と記すとき、その「わたしたち」は文脈からすれば、パウロとケファ(ペトロ)のことであります。ペトロは、12使徒の筆頭であり、エルサレム教会の指導者の一人でありました(2:9参照)。そのペトロをパウロが公然と非難したことが、11節から14節までに記されています。アンティオキアの教会で、ペトロは異邦人たちと一緒に食事をしていました。しかし、エルサレムのヤコブのもとからある人々が来ると、ペトロは割礼を受けている者たちを恐れて、異邦人との食卓から身を引こうとしたのです。ここでの「割礼を受けている者たち」とは、「ユダヤ人キリスト者は律法を守って生活すべきである」と考える者たちのことです。ペトロは、ユダヤ人キリスト者は律法を守って生活すべきであると考える者たちを恐れて、異邦人の食卓から身を引こうとしたのです。また、他のユダヤ人たちも、パウロの同労者であるバルナバさえも、ペトロと一緒になって、異邦人との交わりから身を引こうとしたのです。しかし、パウロは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないと判断して、皆の前でペトロに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。パウロは、ペトロの振る舞いに、「ユダヤ人のように生活しなければ、私たちは、あなたたち異邦人とは交わりを持たない」という無言のメッセージを聞き取ったのです。このアンティオキアでの衝突を足がかりとして、パウロは「福音の真理」について記すのです。
パウロが、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と記すとき、パウロは、イエス・キリストを信じる前の考え方に遡って記しています。ユダヤ人は神の選びの民であります。他方、異邦人はまことの神様を知らない罪人であるのです。罪人ではないユダヤ人である私たちが、なぜ、キリスト・イエスを信じたのか。キリスト・イエスとは、「キリストであるイエス」という意味です。キリストとは、メシア、油を注がれた者という意味であります。罪人ではないユダヤ人である私たちが、キリストであるイエスを信じたのはなぜか。それは、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知ったからではないか、とパウロは言うのです。
「義とされる」(ディカイオー)とは神様の御前に正しい者と宣言されることです(法廷概念)。また、神様の御前に正しい者として受け入れられることです(関係概念)。多くのユダヤ人は、人は律法を行うことによって正しい者と宣言され、正しい者として受け入れられると考えていました。ですから、律法を持っていない異邦人は罪人であったのです。律法を持っていなければ、律法を行うことができませんから、異邦人は罪人であるのです。しかし、ユダヤ人であるパウロとペトロはそうではない。彼らは神の律法を持っているのです。しかし、その彼らがキリスト・イエスを信じたのは、すべての人が律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知ったからです(異邦人だけではなくユダヤ人も)。イエス・キリストは、十字架の死を死んでくださり、三日目に栄光の体で復活されました。そして、ペトロを始めとする弟子たちに現れてくださったのです。さらには、弟子たちの目の前で、天へと上げられ、それから10日後に、約束の聖霊を与えてくださったのです。『使徒言行録』の第2章に、ペンテコステの日、ペトロが聖霊に満たされて説教したことが記されています。その説教の結論で、ペトロは、こう言っています。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなさったのです」。さらに、ペトロは、こう言います。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。神様に罪を赦していただける。それは神様から正しいとされることです(正しい者とされることと罪を赦されることはコインの表と裏の関係)。ペトロは、ユダヤ人に、イエス・キリストへの信仰によって、神様に罪を赦されて、正しい者とされると宣べ伝えたのです。
また、『使徒言行録』の第9章には、教会を迫害するパウロ(サウロ)のことが記されています。パウロは、律法の熱心のゆえに、キリストの弟子たちを迫害していました。しかし、そのようなパウロに、栄光の主イエス・キリストは現れてくださいました。天からの光に照らされたパウロは、地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞きます。パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」という答えがあったのです。このようにして、パウロは、十字架につけられたイエスが復活して今も活きておられること。そして、イエスが主であることを知ったのです。また、パウロはこの時、「人は律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」ということを知ったのです。かつてパウロは、自分は律法を守っていると考えていました(フィリピ3:6参照)。しかし、栄光の主イエス・キリストに出会って、約束のメシアが十字架の死から復活されたことを知って、パウロは、人はだれも律法の実行によっては義とされないことを知ったのです。人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって救われることをパウロは知り、神の福音として宣べ伝えたのです。『使徒言行録』の第13章に、ピシディア州のアンティオキアの会堂でパウロが説教したことが記されています。その説教の結論として、パウロはこう語っています。「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、先祖の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(使徒13:38、39)。このように、パウロも、ユダヤ人に、イエス・キリストへの信仰によって、神様に罪を赦されて、正しい者とされると宣べ伝えたのです。
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」。この信仰義認の教えこそ、マルティン・ルターによって再発見された「福音の真理」であります(ただ信仰のみ)。神様は、私たち人間をどのような基準で正しい者として受け入れてくださるのか。それは、私たちが律法を行ったかどうかではなくて、イエス・キリストを信じたかどうかによるのです。しかし、ここで私たちが見落としてはならないことは、イエス・キリストは、律法を実行することによって、義とされた唯一の御方であるということです(ローマ2:6、7参照)。神様の掟の世界は、昔から、掟を守れば生きる。掟に背けば死ぬというものでした(創世2:16,17、レビ18:5参照)。掟を守れば祝福を受ける。掟に背けば呪いを受ける。それが人間の置かれていた掟の世界です(申命28章参照)。その掟の世界に、神の御子が人となることによって来てくださいました(4:4参照)。そして、神の掟を完全に守られたのです。さらには、神の掟を破った者が受ける呪いの死を、十字架の上で死んでくださったのです。そのイエス・キリストを神様は、死者の中から復活させて、御自分の右の座に上げられたのです。そのようにして、神様は、イエス・キリストを義とされたのです(イエス・キリストの復活は義認の宣言!)。また、神様は、イエス・キリストを信じる者を正しい者とするために、イエス・キリストを復活させられたのです(ローマ4:25参照)。
なぜ、神の御子が、女から、しかも律法の下にお生まれになったのか。そして、神の掟を完全に守られ、律法の呪いの死を死んでくださったのか。それは、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。すべての人(すべての肉)は、神様の御前に律法を完全に守ることはできないのです。なぜなら、最初の人アダムの子孫である人間には生まれながらの罪(原罪)があるからですね。人間の心は母の胎内に宿ったときから腐敗しているのです。それゆえ、律法を行うことによっては、だれ一人として義とされないのです。このことは、旧約聖書の『詩編』143編で、ダビデが記していることでもあります。旧約の983ページです。
1節と2節をお読みします。
主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください。あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。
パウロは、2節の「御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません」というダビデの言葉を引用して、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」と記しました。しかし、そのダビデが、1節で、「あなたのまこと(エムナー)、恵みの御業(ツェダカー)によって/わたしに答えてください」と祈っていることに、私たちは心を向けたいと思います。このところを、聖書協会共同訳は次のように翻訳しています。「あなたの真実、あなたの義によって/私に答えてください」。ダビデは、「神様の御前に正しいと認められる者は、だれもいない」と告白するのに先立って、神様の真実と義を祈り求めるのです。そして、このダビデの祈りに、神様は、イエス・キリストの真実と義をもって答えてくださったのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の344ページです。
16節に、「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」と記されていました。この「イエス・キリストへの信仰によって(エク・ピステオース・クリストゥ)」(対格的属格)は、「イエス・キリストの信仰によって」(主格的属格)とも訳すことができます。聖書協会共同訳では、「イエス・キリストの真実によって」と翻訳しています。信仰と訳される言葉(ピスティス)は、「真実」とも訳せるのです。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって」と聞くと、ある人は、「イエス・キリストを信じることも、私たちの行いではないか。それは結局、救いの根拠を自分の内に置いていることになるのではないか」と考えるかも知れません。しかし、ここでパウロが、私たちの業とイエス・キリストへの信仰とを区別していることは明かです。イエス・キリストへの信仰は、私たちの内で働かれる聖霊の御業であるのです(一コリント12:3参照)。さらに言えば、イエス・キリストへの信仰は、私たちが救われるための手段でありまして、根拠ではありません。イエス・キリストへの信仰は、私たちをイエス・キリストへと結びつける絆であるのです。では、私たちが救われる根拠は何か。それは、イエス・キリストの信仰、イエス・キリストの真実であるのです。イエス・キリストは、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、父なる神の御心に従われました(フィリピ2:8参照)。そのイエス・キリストの信仰、イエス・キリストの真実のゆえに、私たちは神様の御前に、すべての罪を赦されて、正しい者とされているのです。