神の右におられるキリスト 2021年10月24日(日曜 朝の礼拝)

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神の右におられるキリスト

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙一 3章17節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
3:19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
3:20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
3:21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
3:22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。ペトロの手紙一 3章17節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(先週)、私たちは、心の中でキリストを崇めながら、善い生活に励むべきこと。また、私たちが抱いている希望について、説明を要求する人には、いつでも弁明できる備えをしておくべきことを御一緒に学びました。今朝の御言葉はその続きであります。

 17節に、こう記されています。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」。善を行う。それは、16節の御言葉でいえば、「キリストに結ばれた善き生活」を送ることです。私たちが善を行うとき、期待することは、何でしょうか。それは、周りの人々から褒められること、感謝されることではないでしょうか。善を行って、周りの人々から苦しめられることは、本来おかしなことです。悪いことを行って、その刑罰として苦しみを受けるなら、よく分かります。しかし、善を行って苦しみを受けることは、おかしなことです。しかし、そのおかしなことが、神様の御心によって、イエス・キリストを信じるあなたがたのうえに起こっているとペトロは言うのです。イエス・キリストを信じて善き生活に励む私たちが苦しむならば、それは神様の御心による苦しみであるのです。そして、ペトロは、神様の御心によって、善を行って苦しまれた主イエス・キリストのことを記すのです。

 18節をお読みします。

 キリストも罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

 ペトロが、「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました」と記すとき、その罪とは、キリスト御自身の罪ではありません。「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれた」とあるように、御自分の民である私たちの罪のためにただ一度苦しまれたのです。「ただ一度」とあるように、ここでは、十字架の死の苦しみのことが言われています。キリストは、鞭打たれ、裸同然にされて、手に釘を打たれて十字架に磔にされるという苦しみをお受けになりました。また、キリストは神様から見捨てられるという苦しみをお受けになりました。キリストは、悪を行ったことが一度もなく、いつも善を行われたにもかかわらず、私たちの罪のために十字架の死の苦しみを味わわれたのです。その十字架の死の苦しみによって、私たちを神のもとへ導くという神様の御心を成し遂げてくださったのです。私たちが善を行って苦しむとき、思い起こすべきは、このような主イエス・キリストのお姿でありますね。私たちは、世の常識として、善を行って苦しむのはおかしいと思う。しかし、神様の御心として、善を行って苦しむことがあるのです。そのことを、イエス様は、十字架の死の苦しみによって、私たちに教えてくださっているのです。

 18節の後半にこう記されています。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きるものとされたのです」。この御言葉は、十字架の死を死なれたキリストが、聖霊の力によって朽ちることのない栄光の体で復活されたことを意味しています。キリストは、私たちを神様のもとへと導くために、私たちの罪のために十字架の死の苦しみを受けてくださいました。そのようにして、『イザヤ書』第53章に記されている神様の御心を実現されたのです。そして、神様は、そのイエス・キリストを聖霊の力によって、栄光の体で復活させ、永遠に生きる者とされたのです。そして、ここに、ペトロが、「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむことはよいことだ」と語ることができる根拠があるのです。たとえ、周りの人がキリストに結ばれた善い生活を送るあなたがたをののしったとしても、神様は見ておられ、恵みをもって報いてくださるのです。

 19節と20節をお読みします。

 そして、霊においてキリストは捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われたのです。

 このところは解釈の難しいところです。ここから、ある人々は、死んだ後にも福音を聞く機会が与えられる、いわゆるセカンドチャンスがあると主張しています。しかし、そのような教えは、聖書全体の教えに反していますし、このところを丁寧に読むならば、間違いであると思います。死んだ後も、福音を聞いて悔い改める機会が与えられると信じる人たちは、19節を、「十字架の死を死んだキリストの霊が死者の領域である陰府にくだり、福音を宣べ伝えた」と解釈します。しかし、「霊においてキリストは」とペトロが記すとき、そのキリストは、「肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされた」キリストのことです。つまり、復活されたキリストのことが言われているのです。また、「宣教されました」とありますが、これは元の言葉では、「告げ知らせた」という言葉(ケルッソー)です。「福音を宣べ伝える」(ユーアンゲリゾー)という言葉ではありません。ですから、必ずしも福音を宣べ伝えたとは言えないのです。実際、ペトロは、この捕らわれた霊たちが救われたとは書いていないのです。このようなことを考えるとき、私は19節を次のように解釈したいと思います。「復活されたキリストが、捕らわれていた霊たちのところへ行って、勝利を宣言された」。復活されたキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行き、御自分の勝利を宣言されたのです。

 20節に、この「捕らわれた霊たち」が、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」であると記されています。ノアの洪水の物語は、『創世記』の第6章から第9章に渡って記されています。神様は、地上に人の悪が増し、人が常に悪いことばかりを考えているので、洪水によって滅ぼすことにされました。しかし、ノアは神様から好意を得て、箱舟を作るように命じられるのです。この箱舟は、三階建ての大きなものですから、作るのに時間がかかったと思います。その箱舟が作られている間、神様は、人が自分の悪事を悔い改めるのを待っておられたと言うのです。『創世記』の記述を読みますと、そのようなことは記されていないのですが、ペトロは、そのように解釈するのです。ペトロがそのように解釈するのは、ノアの洪水の物語を、キリストを信じる私たちと結びつけて解釈するからですね。箱舟に乗り込んだのは、ノアの家族たち、八人だけでした。洪水は、箱舟に乗り込まなかった人々にとっては滅びですが、箱舟に乗り込んだ者にとっては、安全な場所へと自分たちを運ぶ救いの手段であるのです。ペトロは、この水こそ、洗礼を前もって表すものであったと言うのです。箱舟に入って救われたのは八人だけでした。小アジアでイエス・キリストを信じて洗礼を受けた人も少なかったと思います。社会全体から見れば、少数派、マイノリティーです。多くの人は、先祖伝来のむなしい生活を送っているわけです。神でないものを神とする偶像礼拝などにふけっていたのです。そのような社会の中で、ある人々がイエス・キリストを信じて、洗礼を受けた。そのことは、ノアの洪水に匹敵する出来事である。イエス・キリストを信じて洗礼を受けたあなたがたこそ、箱舟に入って、水の中を通って救われた者たちであるとペトロは言うのです。21節の前半。「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」。洗礼は、私たちをイエス・キリストに結びつける礼典であります(ローマ6:3参照)。私たちは、復活され、今も活きておられるイエス・キリストに結ばれることにより救われたのです。

 ペトロは、洗礼について次のように記しています。21節の後半。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなく、神に正しい良心を願い求めることです」。このところを聖書協会共同訳では、次のように翻訳しています。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなく、正しい良心が神に対して行う誓約です」。洗礼を受ける前に、神様に対して誓約を行う。このことは、私たちも同じですね。成人洗礼を受けるとき、あるいは幼児洗礼を受けた契約の子供が信仰告白をするとき、神と教会の前に、六つのことを誓約します。私たちは、次の六つのことを誓約して、洗礼を受け、あるいは信仰告白をしたのです。

1、わたしは、天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じます。

2、わたしは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを、認めます。

3、わたしは、主イエス・キリストを神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みます。

4、わたしは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを、決心し約束します。

5、わたしは、最善を尽くして、教会の礼拝を守り・その活動に奉仕し・教会を維持することを、約束します。

6、わたしは、日本キリスト改革派教会の政治と戒規とに服し、その純潔と平和とのために努めることを、約束します。

 このような誓約のしるしとして、私たちは洗礼を受けたのです。ですから、私たちが、何を誓約したのかを忘れてしまうならば、洗礼を受けたこと自体が無意味になってしまうのです。私は今、聖書協会共同訳の翻訳に基づいてお話したのですが、新共同訳の翻訳も私たちに大切なことを教えていると思います。なぜなら、私たちは、神と教会の前に誓約するとき、その誓約を守らせてくださるようにと、神様に正しい良心を願い求めるからです。私たちは、神様の御前に誓約をするとき、そのようにさせてくださいと祈り求めるのです。

 小アジアのキリスト者たちが、洗礼を受ける前に、どのような誓約をしたかは分かりません。おそらく、「イエス・キリストは神の子であると信じます」といった短いものであったでしょう(使徒8:37参照)。それが、だんだんと詳しくなって、使徒信条のようなものになったのです(古ローマ信条)。ペトロは、ここで、小アジアのキリスト者たちが洗礼を受けたときにした、神様に対する誓約を思い起こさせようとしています。そのように、ペトロは、小アジアのキリスト者たちを信仰の原点へと連れ戻そうとするのです。そして、最後に、私たちのために苦しまれたキリストが、神様によって栄光の座へとあげられたことを記すのです。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」。神の御心によって、善を行って苦しまれたイエス・キリストは、聖霊の力によって復活させられ、天に上り、神の右におられます。私たちは、そのイエス・キリストに対して、誓約をしたのです。私たちは、私たちの罪のために苦しまれ、復活され、神の右におられるキリストを信じる正しい良心を祈り求めつつ、歩んでいきたいと願います。

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