子ろばに乗るイエス 2021年10月10日(日曜 朝の礼拝)

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子ろばに乗るイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 11章1節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。マルコによる福音書 11章1節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(先週)、私たちは、エリコの町を出て行こうとされたイエス様が、盲人バルティマイの目を見えるようにされたお話しを学びました。目の見えない人が見えるようになる。このことは、『イザヤ書』の第35章に預言されていた、神様の到来によって起こる栄光の回復でありました。イエス様は、盲人の目を見えるようにされたことにより、御自分が約束のメシア、救い主であることを示されたのです。今朝の御言葉はその続きであります。

 イエス様は、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、二人の弟子を使いに出そうとして、こう言われます。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」。二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどきました。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言いました。二人が、イエス様の言われたとおりと話すと許してくれたと言うのです。ここに記されていることは、イエス様が千里眼を持つ預言者であるということです(千里眼とは「遠隔地の出来事や将来の事柄、隠された物事などを見通すことのできる能力」の意味)。水曜日の祈祷会で、旧約聖書の『サムエル記上』を少しずつ学んでいます。その第9章と第10章に、サムエルがサウルの頭に油を注いで、イスラエルの王とするお話しが記されています。その発端は、サウルがいなくなったろばを探すために、サムエルのもとを訪ねたことでありました。そのところを開いて読んでみたいと思います。旧約の440ページです。第9章4節から6節までをお読みします。

 彼(サウル)はエフライムの山地を越え、シャリシャの地を過ぎて行ったが、ろばを見つけ出せず、シャアリムの地を越えてもそこにはおらず、ベニヤミンの地を越えても見つけ出せなかった。ツフの地に来たとき、サウルは供の若者に言った。「さあ、もう帰ろう。父が、ろばはともかくとして、わたしたちを気遣うといけない。」若者は答えた。「ちょうどこの町に神の人がおられます。尊敬されている人で、その方のおっしゃることは、何でもそのとおりになります。その方を訪ねてみましょう。恐らくわたしたちの進むべき道について、何か告げてくださるでしょう」。

 この神の人が預言者サムエルであるのです。サムエルは、20節で、ろばについては次のように述べています。「三日前に姿を消したろばのことは、一切、心にかける必要はありません。もう見つかっています」。そして、サムエルは、サウルの心にかかっている、さらに大きなこと、イスラエルの救いについて語るのです。「全イスラエルの期待はだれにかかっているとお思いですか。あなたにです。そして、あなたの父の全家にです」。第10章1節で、サムエルは、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです」と言います。そして、その証拠として、サムエルはこれから起こる三つの出来事を告げるのです(①二人の男がろばは見つかったと告げること。②三人の男の一人が二個のパンをくれること。③預言者の一団に出会い、サウルが預言する状態になること)。そして、この三つのしるしは、すべてその日のうちに起こったのです。今朝の御言葉である『マルコによる福音書』に記されていることも、同じことですね。イエス様が言われたとおりに、子ろばがつないであり、イエス様が言われたとおりに話すと、人々は子ろばを連れて行くのを許してくれたのです。イエス様は、千里眼を持つ預言者であるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の83ページです。

 イエス様は、二人の弟子を使いに出すにあたって、「村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる」と言われました。ただの子ろばではなくて、「まだだれも乗ったことのない子ろば」であります。イエス様がお乗りになる子ろばは、まだだれも乗ったことのない子ろばがふさわしいのです。このことを理解するにも、『サムエル記上』の御言葉が助けとなります。第5章に、神の箱がペリシテ人に奪われるというお話しが記されています。ペリシテ軍はイスラエル軍に勝利をして、神の箱を奪い去るのですが、神の箱は、ペリシテ人に災いをもたらします。それで、ペリシテ人は神の箱をイスラエルに送り返すことにするのです。そのとき、神の箱は、軛をつけたことのない雌牛に引かれる新しい車に乗せられるのです。神様のために用いられるものは、新しいものがふさわしいのです。それゆえ、主であるイエス様は、まだだれも乗ったことのない子ろばを必要とされたのです。

 二人が子ろばを連れてイエス様のところに戻ってくると、彼らは自分の服をかけて、鞍の代わりにしました。そして、イエス様は、その子ろばにお乗りになったのです。イエス様はこれまで歩いて旅を続けてきました(巡礼は歩くもの)。しかし、イエス様は、子ろばに乗って、エルサレムに入られるのです。なぜでしょうか?それは、旧約聖書の『ゼカリヤ書』の第9章に記されている預言を成就するためであります。そのところを開いてお読みします。旧約の1489ページです。9節と10節をお読みします。

 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。

 イエス様は、子ろばに乗って、エルサレムに入られることによって、御自分が、『ゼカリヤ書』の第9章に預言されている王(メシア)であることを示されたのです。この『ゼカリヤ書』の御言葉を背景にして、今朝の御言葉を読むとき、いろいろなことを教えられます。一つは、イエス様が、「神に従い、勝利を与えられた者」であるということです。イエス様は、神様に従うことによって、勝利を与えられる王であるのです。また、イエス様が「ろばに乗って来る」ことは、イエス様が高ぶることのない、へりくだった王であることを表しています。しかも、そのろばは、人から借りたろばであるのです。『サムエル記上』の第8章によれば、王はろばを徴用する(取る)権能を与えられていました(サムエル上8:15参照)。しかし、イエス様は、人々から子ろばを借りて、すぐにお返しになるのです。それほどまでに、イエス様はへりくだった王であるのです。また、イエス様が「ろばに乗って来る」ことは、イエス様が平和の王であることを示しています。10節に、「エルサレムから軍馬を絶つ」とありますが、馬は戦争において用いられます。他方、ろばは、荷物を運ぶなどの日常生活に用いられます。ですから、イエス様が馬ではなくて、ろばに乗ってエルサレムに入られたことは、イエス様が、戦いのためではなくて、平和を告げるために、エルサレムに入られたことを示しているのです。そして、その平和とは、諸国の民に告げ知らされ、地の果てにまで及ぶ平和であるのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の84ページです。

 イエス様が、子ろばに乗って進まれると、多くの人が自分の服を道に敷き、またほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きました。このことは、多くの人が、イエス様を王として認めたことを示しています(列王下9:13参照)。人々は、自分の服を道に敷くことにより、また葉の付いた枝を道に敷くことによって、王が通る道としたのです(いわゆるレッドカーペット)。そして、前を行く者も後に従う者もこう叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。「ホサナ」とは、「ああ、救ってください」という意味です。ここで注意したいことは、このように叫んだのが、イエス様の前を行く者であり、またイエス様の後に従う者たちであったということです。エルサレムで、多くの人々がイエス様を待っていて、このように叫んで、イエス様を出迎えたのではないのです。イエス様と一緒に、エリコからエルサレムへと上ってきた人たちが、このように叫んだのです。彼らは、イエス様が盲人の目を見えるようにされたことを見ておりました。それゆえ、彼らは、イエス様を、主の名によって来られた方、ダビデの国をもたらす救い主であると、ほめたたえるのです(10:47「ダビデの子イエスよ」参照)。この人々の叫びは、『詩編』第118編の替え歌であります。その25節と26節にこう記されています。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。

 この御言葉は、エルサレムの神殿にいる祭司たちが、巡礼者たちを祝福する言葉です。その祝福の言葉を、イエス様と一緒に歩んでいる者たちが叫んだのでした。そして、この叫びには、彼らの願いも言い表されています。それは、イスラエルがダビデの時代のような祝福にあずかることです。イスラエルが異邦人の王に支配されるのではなくて、神様に従うダビデのような王によって支配され、神様の祝福にあずかることです。そのような王として、人々はイエス様をほめたたえたのです。

 この人々の叫びを、イエス様はどのようなお気持ちで聞かれたでしょうか。私は、複雑な気持ちで聞かれたのではないかと思います。と言いますのも、イエス様は、御自分が人々の手に引き渡されて殺されることをご存じであるからです(9:31参照)。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫んだ人々が、後に、「十字架につけろ」と叫ぶことを知っているからです(15:13参照)。そして、イエス様は、その十字架においてこそ、神の勝利が与えられ、神の平和が実現することを知っておられるのです(イザヤ53章参照)。子ろばに乗ってエルサレムに入られたイエス様は、十字架の死に至るまで神様に従うことによって、罪と死に勝利されます。そのようにして、イエス様は、『ゼカリヤ書』の預言を実現してくださるのです。

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