何をしてほしいのか 2021年10月03日(日曜 朝の礼拝)

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何をしてほしいのか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章46節~52節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。マルコによる福音書 10章46節~52節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様一行は、エリコに着きました。エリコは、なつめやしの町であり、エルサレムに上る前の宿場町であります(申命34:3参照)。エルサレムへ上る者は、エリコで一泊してから、朝早くエルサレムへ出発したと言われます。イエス様が弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていました。ここでの「大勢の群衆」は、過越の祭りを祝うために、エルサレムへ向かう巡礼者たちのことです(申命16章参照)。時は、過越の祭りの季節であり、多くの人々が、エルサレムへ旅していたのです。ここには、道端に座って物乞いをしていた盲人の名前が記されています。バルティマイという名前ですが、その意味は、ティマイの子という意味であります。バルはアラム語で息子を意味します。どうして、マルコは、この盲人の名前を記したのでしょうか。それは、この福音書の最初の読者たちが、バルティマイのことを知っていたからだと思います。

 バルティマイは、道端に座って物乞いをしていました。彼は盲人ですから目は見えません。しかし、耳は聞こえます。このとき、ひときわにぎやかな団体が通り過ぎようとしていました。そのにぎやかな人々の口から、「ナザレのイエス」という名前を聞くのです。バルティマイはナザレのイエスだと聞くと、こう叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。ここで私たちが注意したいことは、バルティマイが「ナザレのイエスよ」と呼びかけていないということです。バルティマイは「ナザレのイエスだ」と聞いたのですが、「ダビデの子イエスよ」と呼びかけます。バルティマイは、イエス様の噂を聞いていたのですね(8:28参照)。バルティマイは、イエス様が人々から悪霊を追い出し、あらゆる病人を癒しておられたことを聞いていたのです。それで、バルティマイは、「ナザレのイエスだ」と聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。「ダビデの子」とは、約束のメシアを表す称号であります。神様は、その昔、ダビデに、あなたの子孫の王国の王座を堅く据えると約束されました。そのところを実際に開いて確認しましょう。『サムエル記下』の第7章です。旧約の490ページです。

 『サムエル記下』の第7章には、いわゆるダビデ契約が記されています。神様の家(神殿)を立てようとするダビデに、神様は、預言者ナタンを通して、次のように言われました。11節の後半から14節の前半までお読みします。

 主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座を堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

 このように、神様は、ダビデの子孫の王権をとこしえに堅く据えると約束されたのです。そして、この神様の約束に基づいて、約束のメシア、王、救い主は、ダビデの子孫からお生まれになると信じられていたのです。例えば、預言者イザヤは、『イザヤ書』の第9章5節と6節でこう記しています。このところも開いてお読みします。旧約の1074ページです。

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 このように、預言者たちは、ダビデの子孫から救い主がお生まれになり、神様の正義と平和を実現してくださると預言していたのです(イザヤ11:1〜10、エレミヤ23:5〜6、エゼキエル34:23〜24も参照)。バルティマイは、約束のメシアがダビデの子孫からお生まれになることを信じていました。それゆえ、彼は「ナザレのイエスよ」とは言わないで「ダビデの子イエスよ」と言ったのです。「ダビデの子イエスよ」という言葉は、「イエスは約束のメシア、王、救い主である」という信仰の告白であるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の83ページです。

 バルティマイが「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めると、多くの人々が叱りつけて黙らせようとしました。なぜ、人々は、バルティマイを叱り、黙らせようとしたのでしょうか?それは人々が、預言者と噂されるイエス様と、盲人の物乞いに何の関わりもないと考えたからだと思います。弟子たちが子供を連れて来た人々を叱ったように、人々は盲人の物乞いを叱ったのです(10:13参照)。そして、彼を黙らせようとしたのです。しかし、バルティマイは、ますます大きな声で、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。それは、バルティマイにとって、これがイエス様に出会う最初で最後のチャンスであるからです。目が見えるならば、イエス様の顔を覚えておいて、後でイエス様のもとを訪れることができるかも知れません。しかし、目の見えない彼にとって、今、このときを逃すならば、イエス様にお会いする機会はないのです。ですから、彼は人々から叱られようが、ますます大きな声で、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。ここでは、「イエス」という御名前が抜けています。しかし、イエス様はダビデの子であるゆえに、立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われるのです。人々は盲人を呼んでこう言います。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。この言葉を聞いて、バルティマイは上着(マント)を脱ぎ捨て、踊り上がってイエス様のところに来ました。イエス様は、ご自分の前に立つ、一人の盲人に、「何をしてほしいのか」と言われます。そして、バルティマイは、イエス様にこう願うのです。「先生、目が見えるようになりたいのです」。ここで、「先生」と訳されている言葉は、「ラボニ」という言葉で、直訳すると「わたしの先生」「わたしの偉大な方」となります(ヨハネ20:16参照)。バルティマイは、約束のメシアであるイエス様を、「わたしの先生」「わたしの偉大な方」と呼ぶのです。そして、「目が見えるようになりたいのです」と願うのです。ここで「目が見えるようになる」と訳されている言葉は、より丁寧に翻訳すると「目が再び見えるようになる」となります。バルディマイは、生まれたときは目が見えました。しかし、あるとき、目が見えなくなった。それで、彼は働くこともできず、物乞いをして命をつないでいたのです。そのバルティマイがイエス様に願うこと。それは、目が再び見えるようになることであったのです。このことがバルティマイの願ったイエス様の憐れみであったのです。「わたしを憐れんでください」。この言葉は、物乞いが施しを求めるときの決まり文句でありました。しかし、バルティマイがイエス様に求めたことは、金銭ではなく、目が再び見えることであったのです。

 そこで、イエス様はこう言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。イエス様は、「目が見えるようになりたいのです」という願いに、バルティマイの信仰を見ておられます。なぜなら、バルティマイの「目が見えるようになりたのです」という願いには、イエス様が自分の目を見えるようにすることができるという信仰があるからです。このことも、預言者イザヤが預言していたことでありました。『イザヤ書』の第35章には、神様が来られて栄光が回復されるとき、「見えない人の目が開く」と記されています(イザヤ35:5「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」参照)。バルティマイは、イエス様が、ダビデの子、約束のメシアであると信じるゆえに、「目が見えるようになりたいのです」と願うのです。そして、そのようなバルティマイに、イエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言われるのです。あなたを救ったのは、わたしに対する信頼であると言われるのです。

 すると、盲人はすぐ見えるようになりました。目が見えるようになったバルティマイはどうしたでしょうか。家族のもとへと行ったのでしょうか。そうではありません。バルティマイは、なお道を進まれるイエス様に従ったのです。ここでの「道」は、エルサレムへの道、十字架への道であります。そのような道を歩まれるイエス様に、バルティマイは従う者となったのです。ここに記されていることは、「人間にはできなないが、神にはできる」と言われた救いの出来事です(10:27参照)。バルティマイは、彼の全財産とも言える上着を脱ぎ捨てて、十字架の道を歩まれるイエス様に従う者とされました。それは、イエス様によって、目が開かれたことによるのです。ここで開かれたのは、肉の目だけではありません。イエス様から肉の目を見えるようにしていただいたことにより、彼の霊の目も開かれたのです。バルティマイは、イエス様がダビデの子、約束のメシアであることを、身を持って知ったのです。ですから、バルティマイは、十字架の道を歩まれるイエス様に従う者となったのです。そして、この福音書が記された頃も、バルティマイはキリストに従う者であり続けたのです。

 今朝の説教題を、「何をしてほしいのか」とつけました。私たちは、今朝、イエス様にお会いするために、この場に集まっています。その私たちが、イエス様から、「何をしてほしいのか」と問われるならば、何と答えるでしょうか。いろいろな願いがあると思います。しかし、その願いの中に、「目が見えるようになりたいのです」という願いはないのではないかと思います。それは、私たちが見えていると思っているからです(ヨハネ9:41参照)。しかし、霊的な視力はどうでしょうか。イエス様から心の目を開いていただいて、イエス様を神の御子、救い主と信じる者としていただいたのに、その目は曇ってしまっているのではないでしょうか。そうであれば、私たちは、「目が見えるようになりたいのです」と願わなくてはならないのです。私たちは、今朝、心の目が開かれて、イエス・キリストにおいて示された神様の憐れみをはっきりと見ることができますように、祈り求めたいと願います。

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