インマヌエル預言 2007年12月16日(日曜 朝の礼拝)

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インマヌエル預言

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
イザヤ書 7章1節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。
7:2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
7:3 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、
7:4 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。
7:5 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、
7:6 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、
7:7 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。
7:8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)
7:9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
7:10 主は更にアハズに向かって言われた。
7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
7:12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
7:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
7:15 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。
7:16 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。
7:17 主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」イザヤ書 7章1節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 来週は、いよいよ主イエス・キリストの御降誕をお祝いするクリスマス礼拝でありますが、今日は、その心備えをするために、旧約聖書のいわゆるメシア預言から御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。今日の御言葉のどこにメシア預言が記されていたのか、もうお気づきだと思います。それは14節です。「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」。福音書記者マタイは、聖霊によっておとめマリアが、イエスさまを身ごもったのは、この預言が実現するためであったと記しています。ですから、私たちは、この「おとめ」がマリアであり、インマヌエルと呼ばれる「男の子」はイエスさまのことであるとすぐに考えるのです。もちろん、この預言は、最終的には、マタイが記すように、マリアとイエスさまのうえに実現いたしました。けれども、この預言は、そもそもどのような文脈において、いつ誰に対して語られたものなのでしょうか。そのことを今日は、ご一緒に学びたいと思います。

 まず、この預言がいつ、どのような状況で語られたのかを見ていきたいと思います。1節に、「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである」と記されています。アハズは、紀元前735年に、弱冠20歳で南王国ユダの王となったと言われています。そして、その翌年の紀元前734年に、いわゆるシリア・エフライム戦争が起こるのです。シリア・エフライム戦争とは、1節、2節にありますように、アラムとイスラエルが同盟を結んで、ユダに攻撃をしかけてきたことを言います。しかし、もともと、このアラムとイスラエルの同盟は、アッシリアに対するものでありました。当時は、アッシリアが世界帝国として猛威をふるっており、そのアッシリアの勢力に対抗するために、アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカは同盟を結んだのです。そして、彼らはユダの王アハズにも、この反アッシリア同盟に加わるようにと求めたのであります。けれども、アハズは、この同盟に加わることを拒みましたので、力ずくで言うことを聞かせようと、彼らはエルサレムに攻め上って来たのでありました。反アッシリア同盟であったアラムとイスラエルの矛先が、ユダのエルサレムヘと向けられたことは、王の心にも、民の心にも大きな不安を与えたのであります。聖書は、「森の木々が風に揺れ動くように動揺した」とその様子を伝えています。

 そのような時、主はイザヤにこう言われるのです。

 「あなたの息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない」。

 イザヤの息子、シェアル・ヤシュブは、「残りの者が帰って来る」という意味でありますが、イザヤは、その息子をつれてアハズのもとへと向かいました。主がアハズに会えると指定された場所、それは上貯水池からの水路の外れでありました。おそらく、アハズは、アラムとイスラエルとの攻撃に備えて、どれだけ水の蓄えがあるかを確かめに来ていたのでしょう。このとき、森の木々が風に揺れ動くように動揺していたアハズが、さまざまなことを考え、せわしく行動していたことが分かります。そのアハズに、主は、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と言うのです。あわてふためき、恐れで心を一杯にしているアハズに対して、生は「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と言われるのであります。なぜなら、アラムの王レツィンとイスラエルの王ぺカが怒りに燃えても、この二つは燃え残ってくすぶっている切り株に過ぎないからであると言うのです。あなたは燃え盛る炎のように、レツインとぺカを恐れているが、それは燃え残って、くすぶっている切り株にすぎないと主は言われるのです。夏にキャンプに行きますと、キャンプファイヤーをよくいたします。 キャンプファイヤーの始まりは、勢いよく炎が燃えている。しかし、その終盤となりますと、火は小さくなっている。そこでは、燃え残ってくすぶっている薪を見ることになるのです。それと同じことであります。アハブの目には、まだキャンプファイヤーが始まったばかりの勢いのよい炎が見える。しかし、神の目には、それはキャンプファイヤーが終わって、燃え残ってくすぶっている薪にしか見えないのです。あるいは、「切り株」という言葉に着目するならば、この二つはすでに切り倒されているのであります。

 また、主がアハズに「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と言われるのは、彼らがアハズに対して災いを謀っても、つまり、自分たちのいうことを聞く、別の王を即位させようと企てても、それは実現せず、成就しないからであります。8節に、「アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン」とあります。アラムは、国の名前、ダマスコは首都の名前、レツィンは王の名前です。アラムが攻めてくると恐れても、その頭はダマスコであり、さらにその頭はレツィンという王ではないか。そのように主は、状況を冷静に語るのです。よく、アメリカはこうだとか、日本はこうだとか、国名を一つの人格として語ることがあります。アラムとイスラエルが手を組んで、ユダに攻め込んでくると聞けば、それはアラムという国、イスラエルという国を一つの人格として捉えているわけです。当時、アラムがどのくらいの人口で、どのくらいの軍隊を抱えていたかは分かりませんけども、アラムという国と言っても、治めているのはダマスコであり、さらにはレツィンという王でしかない。アラムが攻めてくると恐れているけども、それはダマスコであり、レツィンでしかないではないか。そう主なる神は言われるのです。エフライムについても同じことであります。エフライムが攻めてくると恐れているけども、それはサマリアであり、レマルヤの子でしかない。そして、このアラムとエフライムヘの言及に続いて、私たちが当然予期するのは、ユダについての言及であります。ユダについて、ここには記されておりませんけども、当然、ここで予期されているのは、次のような言葉であります。「ユダの頭はエルサレム、エルサレムの頭はダビデの子」。この言葉が加えられて、初めてこの主なる神の言葉の意味は明かとなります。アラム、エフライム、ユダ、その頭を比べてみれば、あなたたちが落ち着いて静かにしていられる理由がよく分かる。恐れることはない理由がよく分かるのです。ユダの頭、それは主なる神が、その名を置くと言われたエルサレムであります。そして、そのエルサレムの頭は、主なる神が、その王座をとこしえに堅くすると言われたダビデの子なのです。そのことを思い起こすとき、アラムとイスラエルが恐れるに足りないことが分かるのです。そして、何より、そのダビデの子の頭は、主なる神御自身なのであります。7節のはじめに「主なる神はこう言われる」と改めて記されておりますが、これはもとの言葉から直訳すると「君主であるヤハウェ」となります。主が、アハズに「信じなければ確かにされない」と言うとき、それは何より、自分を王として立ててくださったお方、自分の頭である主を信じなければ、確かにされないということです。ここで、「信じる」と訳されている言葉と「確かにされない」と訳されている言葉は実は同じ言葉なのです。ヘブライ語で言うとアーマンという言葉なのです。なぜ、わざわざヘブライ語を言ったのかと申しますと、このアーマンという言葉は、私たちがお祈りの最後に言う、アーメンのもととなった言葉だからです。アーメンとは「それは本当です」とか、「それは確かです」という意味ですが、神さまをアーメンとする者だけが、神さまにアーメンとしていただけるのです。神さまを確かなお方として信頼する者だけが、神さまから確かなものとしていただけるのであります。そして、そのことは主なる神によって、王とされたアハズにとって、忘れてはならない大原則であったのです。サムエル記下の7章には、いわゆるダビデ契約が記されておりますけども、そこで主は預言者ナタンを通して、ダビデにこう告げておりました。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅<据えられる」。

 この「あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」の「堅く据えられる」と訳されている言葉が、先程のアーマンという言葉です。つまり、主なる神は、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」という言葉を通して、ダビデ契約を思い起こさせようとしているわけです。あなたは、レツインや、レマルヤの子が攻めてきたことに動揺している。ユダ王国に続いてきたダビデ王朝が絶えてしまうのではないかと恐れを抱いている。けれども、それを確かにされるのは誰か。それは主なる神ではないか。全世界に主として君臨するヤハウェではないか。そのわたしに信頼しないならば、あなたも王として信頼されない、確かにされない、こう主は告げられるのです。そして、ここにこそ、アハズが直面している危機があるのであります。アラムとイスラエルの同盟という危機に直面して、アハズは誰を頼りとし、どのようにふるまうのか。ここに、アハズの王としての真価が問われることになるのです。

 このイザヤの言葉を聞いても、アハズは決断をしぶります。それゆえ、主は更にアハズに向かってこう言われるのです。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」。しかし、アハズは「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と断ります。このアハズの言葉は、一見、敬虔な言葉のようにも思えます。けれども、これは明らかに不信仰からの言葉でありました。なぜなら、主にしるしを求めるようにと言われたのは、主なる神御自身であられたからです。主は、態度を決めかねているアハズに対して、しるしを与え、自分に信頼することができるように導こうとされたのです。ちょうど、召し出された土師が、御使いにしるしを求め、そのしるしによって、神さまに信頼し、従って行ったように、主なる神は、アハズにしるしを求めさせ、彼の歩む道を確かなものにしようとなされたのです。けれども、アハズは、主にしるしを求めることさえ拒むのであります。そして、アハズは、主に信頼して、静かにしていることができず、アッシリアの王に助けを乞うのです。列王記下の16章は、ユダの王アハズの治世について記しておりますけども、その7節から9節にはこう記されています。

 アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を遣わして言わせた。「わたしはあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、わたしを救い出してください。」アハズはまた主の神殿と王宮の宝物庫にある銀と金を取り出し、アッシリアの王に贈り物として送った。アッシリアの王はその願いを聞き入れた。アッシリアの王はダマスコに攻め上ってこれを占領し、その住民を捕虜としてキルに移し、レツィンを殺した。

 この列王記の記述から、アハズが主ではなくて、アッシリアの王に助けを求めたことが分かります。アハズは、アッシリアの王に「わたしはあなたの僕、あなたの子です」とまで言いました。この言葉は、王が即位する時に歌われた詩編第2編の言葉を思い起こさせます。アハズは、主なる神からの「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。」という言葉をもって、王に即位したのです。けれども、そのアハズがここでは、異教の神に仕えるアッシリアの王に対して、「わたしはあなたの子です」と言っているのです。さらには、神殿の宝物庫から銀や金を取り出し、アッシリアの王への贈り物としたのです。しかし、イザヤは、そのアッシリアの王が今度は、あなたとあなたの民の脅威となると告げるのであります。17節にこうあります。「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ」。アハズは、主に信頼せず、アッシリアの王を信頼しました。けれども、そのアッシリアの王が、今度はあなたたちに対しての脅威となる。事実この後、ユダは、アッシリア帝国に多額の貢ぎ物を要求されるようになり、エルサレム神殿には異教の祭壇が築かれるなど、いよいよアッシリアに隷属するようになるのです。

 けれどもイザヤは、そのようなアハズに、さらにはダビデの家に、主なる神御自身がしるしを与えられるというのであります。それが、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」というしるしでありました。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられるというのです。「災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に」とは、善悪の区別を知る、分別年齢に達する前ということですから、すぐにでも起こるしるしとして、この預言は語られています。この預言を語ったイザヤは、「わたしの神にももどかしい思いをさせるのか」と言い、「わたしの主が御自ら」と言いました。明らかに、主に信頼しないアハズたちと、自分たちとに一線を引いております。そして、イザヤはここで、新しい王の誕生を預言しているわけです。それは、インマヌエル、「神が我らと共におられる」と呼ばれるほどに、主に従い、主と共に歩む王なのであります。そして、イザヤは、その王が分別年齢に達するころには、アハズの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられると預言するのです。この説教のはじめでも申しましたように、私たちは、この預言をイエスさまのお誕生の預言として理解いたします。しかし、それでは、この預言がそれまで、まったく実現しなかったかと言えばそうではないのです。いつかも申しましたけども、神さまの預言は、歴史の中で満たされていくものであります。ちょうど、コップに水が満たされていくように、徐々に預言は満ちていくのです。私たちは、福音書記者マタイが記すように、このイザヤの預言は、おとめマリアによるイエス・キリストのお誕生によって、完全に満ちたと信じますけども、それはこの預言がそれまで一度も満たされたことがなかったと信じているのではないのです。それでは、この預言は、一体誰によってまず満たされたのか。それは、アハズの次に王となったヒゼキヤによってでありました。イザヤ書の36章から39章に、ヒゼキヤの治世の出来事が記されています。そこでは、アッシリアの王がラブ・シャケを大軍と共に遣わし、エルサレムを包囲するというお話しが記されています。そのとき、ヒゼキヤが、ラブ・シャケの言葉を聞いたのも、やはり、アハズがイザヤと会った、上貯水池の水路の傍らであったのです。けれども、そこで、ヒゼキヤは、主に堅く信頼するという決断をいたしました。ヒゼキヤは、ラブ・シャケの言葉を聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行き、預言者イザヤに折ってほしいと願うのです。そして、主なる神は、そのヒゼキヤの折りに応え、御使いを遣わし、エルサレムを取り囲むアッシリアの陣営18万5千人を撃ったのでありました。ここに、私たちはインマヌエル預言の、一つの成就を見ることができるのです。ヒゼキヤの治世に起こった主の救いの御業を通して、私たちは主に信頼するものが、確かにされるとはどのようなことかを学ぶことができるのであります。

 私たちも、この地上の生涯を歩むとき、様々な危機に遭遇いたします。それは健康上の危機であるかも知れません。あるいは、経済的な危機であるかも知れません。あるいは、人間関係の危機であるかも知れません。けれども、その危機に直面したとき、誰を頼りとし、どのようにふるまうのかが、私たち信仰者の本当の危機であるということを今日は覚えたいと思います。危機は、英語でクライシスといいますが、これはもともと分岐点という意味です。将来を左右する決断に立つこと、それがクライシス、危機なのであります。この世の危機に遭遇したとき、誰を頼りとし、どのようにふるまうのか、そこに私たちの決断が求められる。その決断こそ、危機、クライシスなのであります。そのとき、私たちは誰に頼るべきか。それは言うまでもなく、主なる神にであります。けれども、私たちは、どれほどこの地上の知恵や力に頼ることが多いことかと思うのです。私たちは、正直なところヒゼキヤよりも、むしろアハズに自分自身を見るのではないでしょうか。しかし、私たちが忘れてはならないことは、主なる神は、そのアハズにもしるしをお与えになるということであります。しるしを拒んだアハズにも、主なる神御自身がしるしをお与えになるのです。私たちが、神さまを忘れて、動揺していても、神さまの方から、「わたしはあなたがたと共にいる」と言ってくださる。そのようにして、わたしたちを確かにしてくださるのであります。インマヌエルであるイエスさまのお誕生は、そのことを私たちに教えているのです。

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