神にはできる 2021年8月29日(日曜 朝の礼拝)

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神にはできる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章23節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」マルコによる福音書 10章23節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と、イエス様に尋ねた人のお話を学びました。この人は、若い時から神様の掟を守って来ました。しかし、それにも関わらず、この人は、永遠の命を受け継ぐことができるとの確信を持てなかったのです。イエス様は、この人を見つめて、慈しんで、こう言われます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。イエス様は、この人が永遠の命を受け継ぐことを願いながらも、この地上の富に依り頼んでいることをご存知でした。それで、貧しい人々に施すことによって、天に富を積み、御自分に従うように求められたのです。『マルコによる福音書』は、これまで、イエス様の御言葉に権威(従わせる権利と力)があることを記してきました。イエス様が、「わたしに従いなさい」と言われると、人々はイエス様に従いました。しかし、この人は、イエス様の言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ったのです。彼は、イエス様に従うことよりも、たくさんの財産を選んだのです。ここまでは、前回お話したことの振り返りであります。今朝は、23節以下をご一緒に学びたいと思います。

 イエス様の御言葉を聞いて気を落とし、悲しみながら立ち去った人の姿を、イエス様はどのようなお気持ちでご覧になったでしょうか。おそらく、イエス様も悲しみながらご覧になったと思います。自分に従うことよりも、地上の富を選び取る人間の姿を悲しまれたと思います。また、富が持つ力に、イエス様は改めて驚かれたと思います。神様よりも、富(お金)の方が頼りになる。そのように、私たちもしばしば考えてしまうのです。そのような私たちを見回して、イエス様はこう言われます。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。弟子たちは、このイエス様の御言葉を聞いて、驚きました。それは、弟子たちが財産のある者ほど、神の国の祝福にあずかっていると考えたからです。弟子たちは、地上の財産を神様からの祝福であると考えていました(申命28:1~14参照)。ですから、財産のある者ほど、神の国の祝福にあずかっていると彼らは考えたのです。イエス様は更に、言葉を続けられます。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。当時のユダヤにおいて、らくだは、最も大きな動物でした。また、針の穴は最も小さい穴でした。最も大きい動物であるラクダがもっと小さい穴である針の穴を通る方が、金持ちが神の国に入るよりも易しいと、イエス様は言われるのです。弟子たちはますます驚いて、互いにこう言いました。「それでは、だれが救われるのだろうか」。神様の祝福を人一倍受けている金持ちが神の国に入ることが、ラクダが針の穴を通るよりも、難しいならば、だれが救われるのか。だれも救われないではないか、こう弟子たちは言うのです。その弟子たちを、イエス様は見つめてこう言われます。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。永遠の命を受け継ぐこと。神の国に入ること。救われること。これらはどれも同じ祝福を指しています。永遠の命を受け継ぐには、地上の財産よりも、イエス様に従うことを選ばねばならない。それは人間にはできないこと。ただ神様だけにできることであるのです。

 「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。このイエス様の御言葉を聞いて、ペトロはこう言います。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」。確かに、ペトロは、イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、すぐに網を捨てて従いました。しかし、ここで、ペトロが自分のことを誇っているならば、それはイエス様の御言葉を聞き過ごしてしまっているのです。イエス様が「人間にはできない」と言われたのに、ペトロは「私たちは何もかも捨ててあなたに従って来た」と言いました。このことは、ペトロの無理解を表しています。イエス様の教え、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」という教えを踏まえるならば、神様が、ペトロたちに、何もかも捨ててイエス様に従えるようにしてくださったのです。そして、それは、ペトロたちだけではなくて、イエス様に従うすべての者に神様がしてくださったことであるのです。私たちは、神様によって、この世の財産に依り頼む者から、神様に依り頼む者としていただいたのです。そして、神様が遣わしてくださったイエス・キリストに従う者としていただいたのです。

 ここで少し、神様と富の関係についてお話ししたいと思います。私たちキリスト者は、この地上の富をどのように理解したらよいのか。そのことを教えている御言葉は、『テモテへの手紙一』の第5章17節から19節であります。実際に開いて、読んでみましょう。新約の390ページです。

 この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。

 ここで、パウロは、富そのものではなくて、富を与えてくださる神様に望みを置くようにと記します。もし、私たちが富そのものに希望を置くならば、富を神とする偶像崇拝の罪を犯すことになります。しかし、富を神様から与えられた物として、神様の御心に従って用いるならば、富は神様の憐れみを表すものとなるのです。私たちは、礼拝において、献金をささげています。そのことは、富が神様から与えられた物であり、管理を委ねられているに過ぎないことを表しているのです(申命14:22、23参照)。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約の82ページです。

 「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」。このように言うペトロたちを、イエス様は、やはり慈しまれたと思います。そして、こう言われるのです。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。誤解のないように申しますが、ここでイエス様が弟子である私たちに求めておられることは、「わたしのためまた福音のために」家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てることです。イエス様に従うことを妨げるならば、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てて、イエス様に従っていくことが弟子である私たちに求められているのです。言い換えれば、イエス様に従うことを第一とする覚悟が弟子である私たちに求められているのです。イエス様は、家族との関係や財産を捨ててでも、御自分に従う者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受けると言われます。これは、教会の主にある兄弟姉妹のことですね(マルコ3:34「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」参照)。イエス様のために、また福音のために、家や、兄弟や、姉妹を捨てる。そのとき、私たちは、一人ぼっちになるのではありません。神様を父とする神の家族の一員として、教会の交わりに受け入れられるのです。「百倍受ける」とあるように、多くの兄弟姉妹を持つようになるのです。確かに、私たちは、今この世で、迫害も受けます。イエス様のために、また福音のために、苦しみを受けます。しかし、その苦しみは、一人で受けるのではないのです。神様を父とする神の家族として、主にある兄弟姉妹と共に受けるのです。ですから、私たちは、イエス様のための苦しみを、耐えることができるのです。そして、私たちは、後の世において、永遠の命を受けることになるのです。

 永遠の命を受ける。このことは、金持ちの男がイエス様に尋ねたことです。彼は、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。その答えが、ここにはっきりと記されています。家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てでも、イエス様に従う者は、後の世では永遠の命を受けるのです。『ヨハネによる福音書』の第17章3節に、永遠の命について教える有名な御言葉があります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。神様とイエス・キリストを知ること。神様とイエス・キリストとの交わりの中に生きること。それが永遠の命であるのです。今朝の御言葉の30節に、「父」という言葉が抜けています。「父も百倍受ける」とは記されていないのです。それは、唯一のまことの神様が父となってくださるからです。神の独り子であるイエス・キリストを信じる人は、神の子とされて、神様を父とする永遠の愛の交わりに生きる者とされるのです。つまり、私たちは、今この世で、永遠の命を持っているのです。それゆえ、私たちは、後の世において、必ず、永遠の命を受け継ぐことができるのです。

 最後、31節を学んで終わります。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。これは、弟子たちへの警告の言葉でありますね。ペトロは、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いました。そのペトロの自分たちを誇る思いを戒めて、イエス様は、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われるのです。自分の力で何もかも捨ててイエス様に従って来たと思う人は、神様の恵みを見出すのが後になる。しかし、何もかも捨ててイエス様に従うことができたのは自分の力ではないと認める人は、神様の恵みを見出すのが先になるのです。「人間にはできないが、神にはできる」。この御言葉の意味をペトロが悟ることができたのは、実際、後のことです。イエス様が捕らえられた夜、ペトロは我が身可愛さに、イエス様との関係を三度否定してしまいます。ペトロはイエス様に従うことのできない自分に涙を流すのです。そのようにして、ペトロは、「人間にはできない」ことを悟るのです。しかし、そのペトロに、復活のイエス様は出会ってくださり、聖霊を与えてくださったのです。そして、三度、「わたしを愛しているか」と問い、イエス・キリストに従う者としてくださったのです。そのようにして、ペトロは「神にはできる」ことを悟るのです。

 「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもできるからだ」。この御言葉は、かつて、主が老夫婦であるアブラハムとサラに語られた御言葉であります(創世18:14参照)。また、天使ガブリエルがおとめマリアに語った御言葉であります(ルカ1:37参照)。その御言葉が弟子である私たちにも語られているのです。それは、励ましと約束の御言葉として語られているということです。すべてを捨てて、イエス・キリストに従っていくこと。それは、何でもできる神様が、私たちにしてくださることであるのです。その神様にすべてを委ねて、信仰の旅路を歩んでいきたいと願います(一ペトロ5:7参照)。

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