永遠の命を受け継ぐには 2021年8月22日(日曜 朝の礼拝)

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永遠の命を受け継ぐには

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章17節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」マルコによる福音書 10章17節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『マルコによる福音書』の第10章17節から23節より、御一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 17節に、「イエスが旅に出ようとされると」とあります。ここでの「旅」は、ユダヤのエルサレムを目指す旅です。イエス様は、エルサレムで、御自分にどのようなことが起こるのかをご存知でありました。イエス様は、エルサレムにおいて、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていることをご存知であったのです(8:31参照)。私たちは、イエス様がそのエルサレムへの旅の途上にあることを心に留めたいと思います。

 イエス様がエルサレムを目指す旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずき、こう尋ねます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この人は、イエス様の前にひざまずいて、「善い先生」と呼びかけていますから、イエス様をとても尊敬していることが分かります。また、走り寄って来たことから、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という問いが、この人にとって、切実な問いであったことが分かります。

 「永遠の命を受け継ぐ」とは、永遠の命を持っておられる神様との交わりに入ることを意味します。「永遠の命を受け継ぐ」。これと似た表現が、旧約聖書の『ダニエル書』の第12章に出てきます。実際に開いて読んでみましょう。旧約の1401ページです。

 『ダニエル書』の第12章1節から4節までをお読みします。

 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」

 飛んで、8節から13節までをお読みします。

 こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」彼は答えた。「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」

 この『ダニエル書』の御言葉は、イエス様の復活の予告を理解する上で大切な御言葉です。また、「ある人」の質問を理解する上でも大切な御言葉であります。『ダニエル書』の後半、第7章から第12章までは、いわゆる黙示文学で、中間時代の迫害の時期に記されたと考えられています。旧約聖書と新約聖書の間の時代、いわゆる中間時代(紀元前3世紀~紀元前1世紀)のことを記した旧約聖書続編の一つに、『マカバイ記』という書物があります。その『マカバイ記』を読みますと、セレウコス朝シリアの王アンティオコス・エピファネスによって、大迫害が起こったことが記されています(一マカバイ1:44~49参照)。そのような大迫害を背景にして、ダニエル書の第12章は記されているのです。1節に、「その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が」とありますが、この御言葉は、実際に苦難の中にいる人々に対して語られているのです。2節に、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」とあります。ヘブライ語の表現において、「多くの者」はしばしば「すべての者」を意味します。ですから、ここでは、すべての死者が生き返ること。そして、ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となることが記されているのです。すべての者が生き返り、神様の裁きを受けて、永遠の命に入る者と永遠の滅びに入る者とに振り分けられるのです。今朝の御言葉に出てくる人が、「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたとき、この人の念頭にあったのは、この『ダニエル書』の御言葉であるのです。

 飛んで、13節に、「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」とあります。「お前は立ち上がるであろう」とは、「お前は復活するであろう」とも訳せます。イエス様が御自分の苦難の死と復活について予告されたとき、この『ダニエル書』の御言葉が念頭にあったことは、明らかであります。イエス様は、この御言葉を、御自分に対する約束として受け入れ、御自分に定められた苦難の僕としての道を歩まれるのです(イザヤ53章参照)。そして、この御言葉は、イエス様を信じる、私たちに対する約束でもあるのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の81ページです。

 「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この問いに対して、イエス様はこう言われます。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。この人は、預言者と噂されるイエス様ならば、何か特別な答えを持っているのではないかと期待しました。ですから、この人は、イエス様を「善い先生」と呼んだのです。しかし、イエス様は、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と答えることによって、この人の関心を、自分ではなく、神様へと向けさせるのです。そして、神様から与えられている掟をお語りになるのです。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。ここで、イエス様は、十戒の後半の戒めを語っておられます。イエス様は、「あなたは神様の掟を知っているでしょう。そこに永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいかが記されている」と答えられるのです。このイエス様の答えを聞いて、この人はがっかりしたと思います。ここでイエス様が教えられたことは、当時の一般的な教えであり、この人も知っていたことでした(レビ18:5「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」参照)。それで、彼はこう答えます。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。ここで「子供」と訳されている言葉(ネオテートス)は、13節から16節で「子供」と訳されていた言葉(パイディオン)とは違う言葉です。ですから、『聖書協会共同訳』では、「少年の頃から」と翻訳しています。ユダヤでは、13歳で成人式を迎え、律法を行う義務を負いました。この人が言っているのは、その律法の義務を追った「少年の頃から」律法を守って来たということです。この人は、少年の頃から神様の掟を守って来たにもかかわらず、永遠の命を受け継ぐ確信が持てませんでした。ですから、この人は、イエス様に、何か特別な答えを求めたわけです。そのような彼を、イエス様は見つめ、慈しんで、こう言われます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。このイエス様の御言葉は、この人が、地上に富を積むことに心を惹かれていたことを教えています。実際、22節の後半を読むと、「たくさんの財産を持っていた」と記されています。イエス様は、この人が永遠の命を受け継ぎたいと願いながらも、この世の富に依り頼んでいることを見抜いておられるのです。それゆえ、イエス様は、地上の富を貧しい人々に施して、「わたしに従いなさい」と言われるのです。イエス様は、意地悪で、このように言われたのではありません。イエス様は、この人を慈しんで(愛して)、このように言われたのです(アガパオー)。それは、この人がイエス様に従うため必要なことであったからです。イエス様は、この人がこの世の富に依り頼んでいることを見抜かれて、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている者を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われたのです。

 さて、この人はどうしたでしょうか。イエス様の御言葉どおり、持っている物を売り払って、貧しい人々に施し、イエス様に従ったでしょうか。そうはなりませんでした。22節にこう記されています。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。この人は、イエス様に従うよりも、この世の財産を選んだのです。ここで、注意していただきたいことは、『マルコによる福音書』がイエス様の言葉の持つ権威(従わせる権利と力)を強調して記してきたことです。第1章16節以下に、「四人の漁師を弟子にする」というお話が記されていました。イエス様が、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われると、ペトロとアンデレはすぐに網を捨てて従いました。また、イエス様がヤコブとヨハネをお呼びになると、二人も父ゼベダイと舟を残して、イエス様に従いました。第2章13節以下には、「レビを弟子にする」というお話が記されていました。イエス様が「わたしに従いなさい」と言われると、収税所に座っていたレビは立ち上がってイエス様に従いました。このように、イエス様の御言葉には、人を従わせる権威(権利と力)があるのです。ですから、これまでの流れからすれば、この人も、イエス様に言われたとおり、貧しい人々に施して、イエス様に従ってもよさそうなのです。22節は、「その人は行って、持っている物を売り払い、貧しい人々に施した。そしてイエスに従った」と記されてもよかったのです。しかし、そうはなりませんでした。なぜなら、彼は「たくさんの財産を持っていたからである」とマルコは記すのです。彼の持っているたくさんの財産が、イエス様に従うことを阻むのです。イエス様に従うこと。これこそ、彼が求めていた、永遠の命を受け継ぐためにすべきことでありました。イエス様は、この人の問いにちゃんと答えられたのです。しかし、この人は、イエス様に従うことよりも、たくさんの財産を選んだのです。この人は、永遠の命を受け継ぐことを願いながら、永遠の命であるイエス様のもとを立ち去ってしまうのです(一ヨハネ5:20参照)。富、財産というものは、それほどの力があるのです。ですから、イエス様は、弟子たちを見回して、こう言われるのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。この地上の富は、私たちがイエス様に従うことを妨げる物(偶像)になるのです。

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