神が結び合わされたもの 2021年8月01日(日曜 朝の礼拝)

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神が結び合わされたもの

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」マルコによる福音書 10章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝も羽生栄光教会の皆さんと御一緒に神様を礼拝できますことを感謝します。

 今朝は、『マルコによる福音書』の第10章1節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 イエス様は、ガリラヤ地方のカファルナウムを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれました。地理的な順序としては、ヨルダン川の向こう側のペレア地方に行って、それからユダヤ地方に入るのですが、福音書記者マルコは、イエス様がユダヤ地方に行かれたことを強調しているようです(マタイ19:1参照)。ユダヤ地方においても、群衆が集まってきましたので、イエス様はいつものように、教えられました。イエス様は、御自分において到来した神の国の福音を告げ知らせたのです。そのとき、ファリサイ派の人々が近寄って、こう尋ねます。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。ファリサイ派の人々は、律法を熱心に守っていた真面目な人たちでした。『マルコによる福音書』では、イエス様の論争相手として、これまで登場してきました。そのファリサイ派の人々が、イエス様を試そうとして、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねたのです。「律法に適っている」とは、言い換えれば「神様の御心に適っている」ということです。律法は神様の御心の現れですから、律法に適っているとは、神様の御心に適っているということです。イエス様は、「適っている」とも「適っていない」とも答えることなく、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。それに対して、彼らはこう答えます。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(申命24:1参照)。すると、イエス様はこう言われます。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。ファリサイ派の人々は、モーセが離縁状を書いて離縁することを許しているのだから、夫が妻を離縁することは律法に適っていると考えました。しかし、イエス様は、そのようにはお考えになりませんでした。モーセが離縁状を書いて離縁することを許したのは、あなたたちの心が頑固だからだというのです。頑固とは心が頑なになっていることで、神様の御意志に従わない状態のことです。モーセが離縁状を書いて離縁するように書いたのは、離縁することが神様の御心なのではなくて、あなたたちの心が頑なで神様の御意志に従うことができないからだ、と言うのです。では、神様の意志はどこにあるかと言えば、神様によって結び合わされた結婚関係が、死が二人を分かつまで全うされることにあるのです。そのことを、イエス様は、天地創造の初めに遡って教えられます。天地創造の初めから、神様は人を男と女にお造りになりました。なぜ、神様は人を男と女にお造りになったのか。それは、人が夫婦として生きるためであると、イエス様は仰せになるのです。神様は、人が夫婦として生きるために、初めから人を男と女にお造りになったのです。確かに、『創世記』第1章27節にはこう記されています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。そして、神様は、彼ら(男と女)を祝福してこう言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」という神様の祝福は、男と女が結婚して夫婦になることによって、実現していくのです。それゆえ、神様は、「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」という結婚の制度を定められたのです(創世2:24参照)。結婚は、人間が考え出した制度ではなくて、神様がお定めになった制度であるのです。しかも、アダムが罪を犯して堕落する前に、神様が定められた制度であるのです。ですから、もし、アダムが罪を犯して堕落することがなければ、モーセが離縁について記すことはなかったはずです。しかし、アダムの堕落によって、人の心は頑なになりましたので、モーセは離縁状を書いて離縁することを許したのです。男と女が結婚して夫婦となる。その夫婦の結び付きは、「父母を離れて」とあるように、親子の結び付きよりも強いのです。夫婦の結び付きは、「二人はもはや別々ではなく、一体である」と言われるほどに強い結び付きであるのです。ですから、イエス様は、結論としてこう言われます。「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。このように、イエス様は、人を男と女に造られ、結婚の制度を定められた神様の御心を宣言されたのです。確かに、モーセは離縁状を書いて離縁することを許しています。しかし、だからと言って、離縁することが神様の御心ではありません。神様の御心は、御自分によって神が結び合わされた夫婦の関係が保たれることであるのです(マラキ2:16「わたしは離婚を憎むと/イスラエルの神、主は言われる」参照)。イスラエルの人々は、神様を証人として結婚の契約を結びました(マラキ2:14参照)。それゆえ、夫婦の関係は神が結び合わせてくださったものであるのです(私たちも同じ。たとえ配偶者が未信者であっても同じ。一コリント7:14「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです」参照)。ここで「結び合わす」と訳されている言葉は、「軛につなぎ合わす」とも訳せます。岩波書店から出ている新約聖書は、9節を次のように翻訳しています。「したがって、神が一つ軛にあわせられたものを、人間が離してはならない」。夫婦になるとは、神様によって一つの軛につなぎ合わされて、人生を共に歩むようになることであるのです。イエス様は、「神が結びあわせてくださったものを、人は離してはならない」と言われていますが、ここでは具体的にどのようなことが言われているのでしょうか。神が結び合わせてくださった夫婦の関係を、人はどのようにして引き離すことができるのでしょうか。それは、姦淫の罪を犯すことによってであります。十戒の第七戒に、「あなたは姦淫してはならない」と記されています(出エジプト20:14)。姦淫とは、配偶者のある異性と肉体関係を持つことを言います。いわゆる不倫や浮気のことです。姦淫の罪は、相手の配偶者に対する罪であり、夫婦の関係を破壊してしまう罪であるのです。ですから、イエス様が、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言われたときに、離縁することを全面的に禁じられたのではなくて、神が結び合わされた夫婦関係を破壊してしまう姦淫の罪を禁じられたのです。5節にありましたように、イエス様は、モーセが離縁について書いていることを認めております。ですから、9節の「神が結び合わせてくださったものを、人は離してならない」というイエス様の御言葉は、離縁の全面的な禁止ではなくて、夫婦の関係を破壊してしまう姦淫の罪を禁じられたのです。私たちは神様によって結び合わされた夫婦の関係を保つために、姦淫の罪を犯さないようにしなくてはならないのです(マタイ5:27~30参照)。

 10節では、場面が家へと移っています。『マルコによる福音書』において「家」とは教会のことです。その家の教会で、弟子たちはまたこのことについて尋ねました。弟子たちも、「モーセが離縁について書いているのだから、離縁してもよいではないですか」と尋ねたのでしょう(マタイ19:10参照)。すると、イエス様はこう言われたのです。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。このイエス様の御言葉は、当時の男たちの考え方を背景にしています。当時の男たちは、もし、妻とは別の女のことが好きになったら、離縁状を書いて妻を去らせ、好きになった女を新しく妻に迎えればよいと考えていました。そうすれば、姦淫の罪を犯すことなく、好きな女と肉体関係を持つことができるわけです。しかし、イエス様は、そうではないと言われるのです。なぜなら、他の女を妻にするために、離縁しても、神が結び合わされた夫婦の関係は続いているからです。そのような理由によっては、神が結び合わされた夫婦の結びつきを断ち切ることはできないのです。それゆえ、「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる」のです。

 また、イエス様は、「夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」とも言われました。当時のユダヤの社会において、妻が夫を離縁することは、ほとんど考えられないことでした。しかし、イエス様は、妻に対しても夫と同じことを言われるのです。このことは、イエス様が夫婦の関係を、互いに助け合う、対等の関係であると考えていたことを教えています。イエス様は、天地創造の初めに遡って、結婚について教えられました。そこには、神様が人(アダム)のあばら骨から、彼に合う助ける者として女を造られたことが記されています(創世2章参照)。女は男と向き合う者として、対等なパートナーとして造られたのです。しかし、その対等な夫婦関係が、アダムの最初の罪によって歪められてしまうのです。神様は、蛇にだまされて禁じられた木の実を食べ、アダムに木の実を与えた女に対して、次のように言われました。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する」(創世3:16)。このように、アダムが罪を犯した堕落後の世界では、男が女を支配する男性中心の社会、家父長制社会となったのです。そして、イエス様が歩まれた紀元1世紀のユダヤの社会も、男性中心の社会、家父長制社会であったのです。そのような社会において、イエス様は、夫だけではなく、妻に対しても、同じことを言われたのです。このことは、大きな意味を持っていると思います。つまり、イエス様は、結婚関係にある夫と妻を互いに助け合う、対等な関係と見なしておられるのです。主イエス・キリストによって夫婦の関係は、創造の初めに遡る、互いに助け合う、対等なパートナーとしての関係に回復されたのです。

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