キリストの模範 2021年7月25日(日曜 朝の礼拝)

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キリストの模範

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙一 2章20節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。
2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。ペトロの手紙一 2章20節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 第2章18節から第3章7節までは、家庭生活についての教えであります。使徒ペトロは、第2章18節から25節に召し使いたちに対する勧めの言葉を記しています。また、第3章1節から6節に妻たちに対する勧めの言葉を記しています。さらに、第3章7節に夫たちに対する勧めの言葉を記しています。ここで注目したいことは、ペトロが家庭において弱い立場の者から扱っているということです。また、その文量においても、弱い立場の者に対して、より多くの言葉を費やしているということです。召し使いとは、家庭で働く奴隷のことです。「奴隷」とは「人間としての権利・自由を認められず、他人の支配の下にさまざまな労務に服し、かつ売買・譲渡の目的とされる人」のことです(広辞苑)。奴隷の身分で、イエス・キリストを信じる者たちが教会にいたのです。奴隷でイエス・キリストを信じる者たちは、教会では、キリストにあって、自由人も奴隷もない、身分の違いを越えた交わりにあずかっていました。当時、奴隷は「ものを言う道具」と考えられていました。しかし、その奴隷が、教会の交わりにおいては、神のかたちを持つ人間として重んじられ、主にある兄弟姉妹として受け入れられていたのです。では、イエス・キリストを信じる召し使いは、もはや主人に従わなくてもよいかと言えば、そうではありません。18節と19節で、ペトロはこう記していました。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」。ここで、ペトロは、神様を心から畏れ敬う者として、主人に従いなさいと勧めています。主人の背後には、神様の権威があるからです。すべての権威は神様に由来しています。そのことは、主人と奴隷の関係においても言えるのです。善良で寛大な主人だけではなく、無慈悲で横暴な主人も神様によって立てられているのです。それゆえ、ペトロは、横暴な主人から「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」と記すのです。この所は翻訳が難しいところであります。「神がそうお望みだとわきまえて」は直訳すると「神の意識のゆえに」となります。また、「御心に適うことなのです」は直訳すると「恵みなのです」となります。不当な苦しみを、神様を意識しつつ、耐え忍ぶことができるならば、それは恵みである、とペトロは言うのです。誤解のないように申しますが、不当な苦しみ、そのものが神様の恵みなのではありません。不当な苦しみであっても、神様に祈りつつ、耐え忍ぶことができることが恵みがあるのです。苦しみの中で神様に祈りつつ忍耐して生きることができる恵みを、私たちは神様から与えられているのです。ここまでは、前回の振り返りであります。前回は18節と19節を中心にしてお話ししましたので、今朝は20節から25節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 20節と21節をお読みします。

 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。

 当時、奴隷は主人のものを盗むことがありました。そのような罪を犯して打ちたたかれ、耐え忍んだとしても、何の誉れにもなりません。なぜなら、その苦しみは、罪に対する当然の報い(刑罰)であるからです。しかし、善を行って苦しみを受け、耐え忍ぶならば、それは神の恵みであるとペトロは記します。ここで、「神の御心に適うこと」と訳されている言葉は直訳すると「神のもとでの恵み」(カリス パラ セオー)となります。ここでも、ペトロは、善を行って受ける苦しみそのものを神の恵みであると言っているのではありません。善を行って苦しみを受ける。それは本来、理不尽なことです。しかし、その理不尽な苦しみを、神様に祈りつつ耐え忍ぶならば、それは神様の恵みであると言うのです。新共同訳の翻訳を用いるならば、それが神様の御心に適う、召し使いとしての善き生活であるのです。そして、ここに、召し使いたちが、キリスト者として召された目的があるのです。先程も申しましたように、召し使いとは、家庭で働く奴隷であり、奴隷は「ものを言う道具」と見なされていました。その召し使いたちが、福音を聞いて、イエス・キリストを信じる者となった。彼らは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、自由な者、神の僕とされたのです。では、彼らの生活は、何か変わったのでしょうか。彼らの社会生活は外面的には何も変わっていないのです。彼らは相変わらず召し使いのままであり、横暴な主人から不当な苦しみを受ける。しかし、ペトロは、そのような召し使いのキリスト者たちに、神様を畏れ敬って主人に従いなさい。不当な苦しみを受けても、神様に祈りつつ、耐え忍びなさい。耐え忍ぶことができるならば、それがあなたに与えられている恵みなのだと言うのです。神様の御心に従う善を行って苦しみを受けて、耐え忍ぶことができるならば、それこそ神様の恵みであると言うのです。その神様の恵みを受けるために、あなたがたはキリスト者とされたのだとペトロは言うのです。私は、先程、召し使いがキリストを信じても、その社会生活は外面的には何も変わっていないと言いました。しかし、内面的には、そうではありません。召し使いで、イエス・キリストを信じた者たちは、神様を畏れて主人に従う者とされているのです。また、善を行って受ける苦しみを、神様に祈りつつ、耐え忍ぶことができる恵みに生きる者とされているのです。そして、このような神の恵みに生きた御方こそが、私たちの主イエス・キリストであるのです。キリストは善を行って苦しみをお受けになりました。善とは、神様の御心であり、選びの民である私たちを罪から救うことであります。ですから、キリストの苦しみは、私たちのための苦しみであったのです。キリストは、善を行って、私たちのために苦しみをお受けになった。それは、私たちがその足跡に続くための模範であったのです。

 22節から25節までをお読みします。

 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義に生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

 22節は、『イザヤ書』の第53章9節からの引用であります。『イザヤ書』の第53章は、「主の僕の苦難と死」について記しています。この預言の言葉は、イエス・キリストにおいて実現しました。イエス・キリストは、罪を犯したことがなく、その口に偽りがない、本来は、苦しみとは無縁の御方であります。しかし、そのイエス・キリストが苦しみをお受けになった。それは、神の御心に適う善を行ったためであり、私たちのためであったのです。私たちが善を行って苦しみを受け、耐え忍ぶことができるようになるために、キリストは私たちに模範を残されたのです。

 キリストは、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅しませんでした。『イザヤ書』の第53章に、「屠り場に引かれる小羊のように・・・彼は口を開かなかった」とあるように、キリストは、ローマの総督ポンテオ・ピラトの法廷において、沈黙しておられました。それは、キリストが、正しくお裁きになる神様にお任せになっていたからだと、ペトロは言うのです。なぜ、ペトロは、善を行って、苦しみを受けても耐え忍ぶことができるならば、それは神の恵みであると言うのでしょうか。それは、苦しみを耐え忍ぶ背後に、正しくお裁きになる神様への信仰があるからです。ペトロが、召し使いであるキリスト者に、不当な苦しみを、神様に祈りつつ、耐え忍ぶようにと記すとき、その神様は正しくお裁きになる神様であるのです。私たちは神様の正しい裁きを信じて、希望をもって、不当な苦しみを耐え忍ぶことができるのです。

 キリストは、正しくお裁きになる神様を信じて、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」。ここで、「十字架」と訳されている元の言葉は「木」です。キリストは、木にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。この木とは、呪われた者がかけられる木のことです。『申命記』の第21章23節に、「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」と記されています。イエス・キリストは、十字架という木にかかることによって、律法の呪いの死を死んでくださいました。それは、私たちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。イエス・キリストは、十字架の死と復活によって、私たちを神様の御心に背く罪ではなく、神様の御心に従う善を行う者にしてくださいました。さらには、善を行って苦しみを受けても、正しく裁かれる神様に祈りつつ、希望をもって、耐え忍ぶ者としてくださったのです。

 ペトロは、「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」と記します。ここで「傷」と訳されている言葉(モーロープス)は、「鞭を打たれたあとのミミズ腫れ」を意味する生々しい言葉です。キリストは、十字架にかけられる前に、鞭打ちの刑をお受けになりました。十字架にかけられたキリストのお体は、鞭打たれた傷だらけのお体であったのです。そして、週の初めの日に、キリストの教会として集まる召し使いの背中にも、主人から鞭打たれたミミズ腫れがある。そのような召し使いたちに、「あなたたちは、キリストの受けた傷によって癒されたのだ」とペトロは言うのです。私たちにも色々な傷があると思います。しかし、その傷は、キリストの傷によって癒されているのです。なぜなら、キリストは、私たちのために傷をお受けになったからです。「傷」という言葉に象徴される苦難の死を、私たちのために死なれたからです。その苦難の死によって、私たちはキリストの愛を知って、癒されたのです。

 これまで、召し使いたちは、だれからも人間扱いされず、「ものを言う道具」と見なされていました。しかし、キリストは、召し使いたちを、そのようには見られません。キリストは、召し使いたちを神のかたちを持つ一人の人間として、高価で尊い御自分の民と見られるのです。それゆえ、キリストは、召し使いのためにも苦しみをお受けになり、十字架の呪いの死を死んでくださったのです。そのようにして、キリストは召し使いたちを、善を行って生きる者としてくださったのです。さらには、善を行って不当な苦しみを受けても、正しい審判者である神様に祈り、希望を持って、耐え忍ぶ者としてくださったのです。同じことが、イエス・キリストを信じる私たち一人一人にも言えます。キリストは私たちのために苦難の死を死んでくださいました。それは、私たちが善を行って生きるためであります。さらには、善を行って苦しみを受けても、神様に祈りつつ、希望をもって、耐え忍ぶためであるのです。

 ペトロは、25節で、「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが」と記します。これも、『イザヤ書』の第53章を背景としています。そこには、「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」(6節)と記されています。召し使いでキリストを信じた者だけではありません。私たちも羊のようにさまよっていたのです。しかし、今は、魂の牧者であり、監督者であるイエス・キリストのもとに戻って来ました。イエス・キリストこそ、羊のために命を捨てる良い羊飼いであり、私たちの魂を生き返らせてくださる主であられるのです(ヨハネ10:11、詩23:3参照)。

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