正しい人の祈り 2021年6月27日(日曜 朝の礼拝)

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正しい人の祈り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 17章1節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:1 【祈り。ダビデの詩。】主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。
17:2 御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。
17:3 -4あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて
17:5 あなたの道をたどり/一歩一歩、揺らぐことなく進みます。
17:6 あなたを呼び求めます/神よ、わたしに答えてください。わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。
17:7 慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を/立ち向かう者から/右の御手をもって救ってください。
17:8 瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください。
17:9 あなたに逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲しています。
17:10 彼らは自分の肥え太った心のとりことなり/口々に傲慢なことを言います。
17:11 わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し/地に打ち倒そうとねらっています。
17:12 そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子/待ち伏せる若い獅子のようです。
17:13 主よ、立ち上がってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち/わたしの魂を助け出してください。
17:14 主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。
17:15 わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう。

詩編 17章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『詩編』の第17編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 1節に「祈り。ダビデの詩」とあるように、第17編はイスラエルの王ダビデによって記された詩編であります。そのことを念頭に置いて、今朝の御言葉を読み進めていきたいと思います。

 1節から5節までをお読みします。

 主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。あなたは、わたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何一つ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて/あなたの道をたどり/一歩一歩、揺らぐことなく進みます。

 このとき、ダビデは、無実の罪で訴えられていたようです。イスラエルでは、裁判は神に属することでありました(申命1:17参照)。イスラエルにおいて、神様の掟に従って、神様の御名によって、裁きが行われたのです。ですから、イスラエルの民を裁かれるのは、イスラエルの神、主であられるのです。ダビデは、その裁き主である「主」に呼びかけるのです。主、ヤハウェとは、その昔、神様がホレブの山でモーセに示された御名前であります。主、ヤハウェという御名前は、「わたしはある」という意味であります(出エジプト3:14参照)。主、ヤハウェという御名前の中に、「わたしはあなたと共にいる」という約束が含まれているのです(出エジプト3:12参照)。ダビデは、その主によって油を注がれた聖霊を宿す者として、「主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください」と祈るのです。ここで「正しい訴え」と訳されている言葉は、「義」ツェデクという言葉です。ダビデは自分の正しさを確信しています。正しい自分が、敵によって無実の罪で訴えられ、無き者にされようとしている。そのような状況にあって、ダビデは、イスラエルを裁かれる主に、「わたしの正しい訴えを聞き、祈りに耳を傾けてください」と祈るのです。ダビデが、自分の正しさを確信していたことは、3節から5節を読むとよく分かります。ダビデは、自分が神様の掟に従って歩んできたと記します。ダビデは、「神様がわたしの心を調べても、汚れた思いは何一つ御覧にならないでしょう」と言うのです。このダビデの言葉を読むとき、私たちは戸惑うのではないでしょうか。『詩編』の第51編は、ダビデが記した悔い改めの詩編ですが、そこでダビデは、次のように歌っています。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」(詩51:7)。このように歌ったダビデが、今朝の御言葉においては、「汚れた思いは何一つ御覧にならないでしょう」と歌うのです。このことを、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。ある研究者は、使徒パウロも同じであったと記しています。パウロは、すべての人が神様の御前に罪人であると教えています(ローマ1~3章参照)。しかし、そのパウロが、ユダヤ人から訴えられたとき、何と言ったでしょうか。パウロは、ローマの総督フェストゥスの前で、こう弁明したのです。「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」(使徒25:8)。ダビデも、無実の罪で訴えられている者として、裁判官である神様に、自分の心と言葉と行いの正しさを訴えて弁明しているのです。ここで、私たちが教えられることは、神様に対して後ろめたい気持ちがあるならば、祈ることは難しいということです。もし、心は汚れた思いでいっぱいで、口は欺きの言葉を語り、神様の掟に背いて歩むならば、祈ることはできないのです。こう聞きますと、私たちは不安になると思います。私は、このダビデのように言うことができるだろうか。このダビデのようではない自分は、神様に祈る資格がないのではないか、そのように考えるのです。けれども、ここで思い起こしたいことは、私たちは自分の名によって祈っているのではないということです。私たちは、イエス・キリストの御名によって祈っているのです。そして、イエス・キリストこそ、心に汚れた思いが何一つなく、唇の言葉を守り、神様の掟に従って揺らぐことなく歩まれた御方であるのです。そのイエス様の御名によって、私たちは祈っているのです。

 私たちは、聖書を、イエス・キリストの御手から受け取りました。『詩編』に記されている祈りも同じです。今朝の御言葉を読むと、私はダビデとは違う。私はダビデのように、「汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう」と神様に言うことはできない。そのように考えるとき、このダビデの祈りは、私たちとは関係のない祈りになります。けれども、私たちは、聖書を、イエス・キリストの御手から受け取った者として、また、イエス・キリストの御名によって祈る者として、このダビデの祈りを、自分たちの祈りとすることができるのです。イエス・キリストに結ばれた正しい者として、「私の叫びに耳を傾けてください。私はあなたの道を一歩一歩、揺らぐことなく進みます」と大胆に言うことができるのです。私たちの王であるイエス・キリストの正しさを根拠にして、熱心に祈ることができるのです。

 6節から12節までをお読みします。

 あなたを呼び求めます/神よ、わたしに答えてください。わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を/立ち向かう者から/右の手をもって救ってください。瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください。あなたに逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲しています。彼らは自分の肥え太った心のとりことなり/口々に傲慢なことを言います。わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し/地に打ち倒そうとねらっています。そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子/待ち伏せる若い獅子のようです。

 7節に「慈しみの御業を示してください」とありますが、「慈しみの御業」と訳されている言葉は、「愛」とも訳されるヘセドであります。ヘセドは、「契約に誠実な愛」を意味します。あなたを避けどころとする人、あなたの掟に従って歩む正しい人に、あなたが契約に誠実な愛をもって答えてくださるようにと、ダビデは祈るのです。

 8節に「瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください」と記されています。この御言葉は『申命記』の第32章の「モーセの歌」を背景にしていると考えられています。『申命記』の第32章9節から12節までをお読みします。旧約の332ページです。

 主に割り当てられたのはその民/ヤコブが主に定められた嗣業。主は荒れ野で彼を見いだし/獣のほえる不毛の地でこれを見つけ/これを囲い、いたわり/御自分のひとみのように守られた。鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/翼を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように/ただ主のみ、その民を導き/外国の神は彼と共にいなかった。

 主は、エジプトから導き出されたイスラエルの民を、御自分の瞳のように守り、鷲が雛を翼に乗せて運ぶように導かれました。その主の守りと導きを思い起こしつつ、ダビデは、「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください」と祈るのです。ダビデは、「神様がかつて先祖たちにしてくださったように、今、わたしにもしてください」と祈るのです。ダビデは、神様の変わらない慈しみ、契約に誠実な愛を信じるゆえに、そのように祈るのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の846ページです。

 9節に「あなたに逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲します」と記されています。ダビデを虐げる貪欲な敵は、主に逆らう者でもあります。彼らは自分の欲望のとりこになって、傲慢なことを口にし、ダビデを打ち倒そうとするのです。12節では、その敵たちの姿が、獲物を求める獅子(ライオン)に譬えられています。ここで、注意したいことは、ダビデを虐げる者たちが、神様に逆らう者たちであるということです。ダビデを虐げる者も、神様の掟に従って歩み、神様を避けどころとしているのではありません。ダビデを虐げる者は、神様に逆らう者たちであり、欲望のとりこになって、傲慢なことを口にする者たちであるのです。そのような者たちの手からダビデを救い出すことは、神様の慈しみ、契約に誠実な愛に基づくことであるのです。

 13節から15節までをお読みします。

 主よ、立ち上がってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち/わたしの魂を助け出してください。主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう。

 ダビデは、自分を包囲し、打ち倒そうと狙っている敵を、主が立ち上がって、屈服させてくださるようにと願います。ダビデは、主が逆らう者たちを、剣をもって撃ち、自分を救ってくださるように祈るのです。14節に「主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください」と記されています。このような報復を求める祈りを読む時、私たちは戸惑うと思います。ここで覚えたいことは、敵からの救いを求めるダビデが、敵に対する報復を主に委ねているということです。使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第12章で、こう記しました。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります」(ローマ12:19)。ダビデは、自分の手で報復せず、主に任せたのです。

 14節の後半は、御もとに隠れる人に対する主の祝福を求める祈りです。ダビデは、主に逆らう者をこの世から絶つことだけではなく、主を避けどころとする人に対する祝福を祈り求めます。このダビデの祈りの背後には、『申命記』に記されている主の御声に聞き従わない者は呪いを受け、主の御声に聞き従う者は祝福を受けるという考え方があります(申命28章参照)。つまり、神に逆らう者への報復の祈りと、神に依り頼む者への祝福の祈りは、神様の契約に基づいているのです。そして、神様が契約に誠実に振るまわれるところに、神様の慈しみがあり、神様の愛があるのです。

 15節で、ダビデは、再び自分の正しさ(ツェデク)について語ります。神様が自分の叫びに耳を傾け、公平な裁きをしてくださる。それは具体的には、御自分に従うダビデを、御自分に逆らう敵たちの手から救い出すことによるのです。そのようにして、ダビデの正しさが認められ、ダビデは御顔を仰ぎ望むことができるのです。ダビデは、この祈りを夜に祈っていたようです(3節参照)。このような祈りを夜にささげて、眠りから目覚めたとき、何が起こるのか。ダビデは、「目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう」と言うのです。ダビデは、祈りがすでに聞かれたものと信じて、御姿を拝し、満ち足りるのです。そして、ここに、ダビデの正しさ、ダビデの信仰があるのです。ダビデは、主が祈りを聞いてくださり、敵の手から自分を救い出し、正しい者と認められることを信じて、満ち足りているのです。

 「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう」。この御言葉を、キリスト教会は、死者の中から復活と結びつけて解釈してきました。それは正しい解釈だと思います。私たちが敵の手から救い出し、神様から正しい者と認められ、御顔を仰ぎ見ることができるのは、いつでしょうか。そのことが完全に実現するのは、私たちが死の眠りから目覚めるとき、復活するときであるのです。このことを覚えるとき、ダビデの祈りは、イエス・キリストの祈りであることがよく分かります。私たちは、ダビデの祈りを、イエス・キリストの祈りとして読み、イエス様にあって、私たちの祈りとすることができるのです。私たちは、復活されたイエス・キリストに結ばれている者たちとして、「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう」と、確信をもって言うことができるのです。

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