山上の変貌 2021年6月06日(日曜 朝の礼拝)

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山上の変貌

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 9章2節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」マルコによる福音書 9章2節~13節

原稿のアイコンメッセージ

序.前回の振り返り

 前回(5月16日)、私たちは、苦難の死から復活されるイエス様が、すべての人を裁く栄光の人の子であることを、御一緒に学びました。イエス様は、第8章38節でこう言われました。「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」。ここでイエス様は、神様のことを「父」と呼んでおられます。苦難の死から復活されるイエス様は、神の子として、父なる神様から栄光を与えられるのです。旧約聖書の『ダニエル書』の第7章に、「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた」と記されています。このダニエル書の預言は、苦難の死から復活されるイエス様において実現することになるのです。

 今朝の御言葉はこの続きであります。

1.イエスの姿が変わる

 六日の後、イエス様は、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られました。ペトロとヤコブとヨハネは、最初の弟子たちであり、イエス様が目をかけていた弟子たちであります。第5章に、イエス様がヤイロの娘を生き返らせたお話しが記されていました。このときも、イエス様は、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて、ヤイロの家に向かわれました。ペトロとヤコブとヨハネ、この三人は、これから起こる出来事の証し人、証人でもあります。律法によれば、二人または三人の一致した証言は真実であると見なされました(申命19:15参照)。ですから、イエス様は、これから起こる出来事の証人として、ペトロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られたのです。高い山は、神様の啓示を受ける場所であります。『出エジプト記』を読みますと、神様がシナイ山に留まられたこと。モーセがシナイ山に登って神様から掟を受けたことが記されています。そのような高い山に、イエス様は、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて登られたのです。すると、イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなりました。細かいことを言いますが、ここでの「変わり」(メタモルフォーセー)は受動態、受け身で記されています。弟子たちの目の前で、神様によってイエス様の姿が変えられたのです。白は、神様の色であります。第16章に、婦人たちに天使が現れたことが記されています。その天使が着ていたのも白い長い衣でありました。イエス様の姿が神様によって変えられ、その衣が真っ白に輝いていたことは、イエス様が天に属する御方であることを示しています。神様は、弟子たちの前でイエス様の姿を変えられることによって、イエス様が天に属する御方であることを示されたのです。イエス様の正体が弟子たちの目の前に示されたのです。

2.エリヤとモーセが現れる

 すると、エリヤがモーセと共に現れて、イエス様と語り合っていました。エリヤとは、紀元前9世紀に活躍した預言者であります。一人で450人のバアルの預言者と戦った有名な預言者であります。『列王記下』の第2章には、エリヤが生きたまま炎の馬車で天に上げられたことが記されています。また、モーセは、イスラエルを奴隷の家から導き出した人物であります。モーセの死については、『申命記』の第34章に記されていますが、そこには、「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」と記されています(申命34:6)。それで、ある人々は、モーセは生きたまま天に上げられたと信じておりました。旧約聖書を代表する二人の人物であるエリヤとモーセと、イエス様は語り合っていたのです。この光景を見て、ペトロが口をはさんでイエス様にこう言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。どうして、ペトロは、イエス様と話している二人の人物がモーセとエリヤであると分かったのだろうかと不思議に思います。もしかしたら、イエス様が、「モーセよ」とか「エリヤよ」と呼びかけているのが聞こえたのかも知れません。ともかく、ペトロは、光り輝くイエス様が、モーセとエリヤと語り合っているのを見て、このすばらしい状態に少しでも長く留まりたいと願ったのです。それで、ペトロは、三つの仮小屋(幕屋)を造って、イエス様とモーセとエリヤに、留まっていただこうとしたのです。6節に、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」と記されています。これは、福音書記者マルコの註釈でありますね。弟子たちは、このすばらしい状態に留まっていたいと願いながら、非常に恐れていたのです。つまり、このとき弟子たちは、聖なる者たちの前に立っていたのです。それで、ペトロは、どう言えばよいか分からずに、とんちんかんなことを言ったのです。

3.雲からの声

 すると、雲が現れて弟子たちを覆いました。そして、雲の中から声がしたのです。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。雲は、神様の臨在をあらわすものであります。ですから、このとき、弟子たちは神様の臨在に接して、神様からの声を聞いたのです。弟子たちは急いで辺りを見回しましたが、もはやだれも見えず、ただイエス様だけが彼らと一緒にいました。そのことは、イエス様が神様の愛する子であり、弟子たちが聞き従うべき御方であることを示しています。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。ここに、イエス様が何者であるのかの正しい答えがあります。第8章27節で、イエス様は、弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われました。弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』という人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えました。そして、イエス様は弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。ペトロは弟子たちを代表して、「あなたは、メシアです」と答えたのであります。すると、イエス様は、御自分のことをだれにも話さないように弟子たちを戒められたのです。このペトロの答えは、正しかったのでしょうか。結論から言うと、正しかったのです。なぜなら、神様が「これはわたしの愛する子」と言われるからです。「これはわたしの愛する子」。この御言葉は、『詩編』の第2編7節を背景にしています。『詩編』第2編は王の即位の詩編であると言われています。その1節から9節までをお読みします。旧約の835ページです。

 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか/「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り/憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」

 2節に、「主の油注がれた方」とありますが、これが「メシア」のことです。このメシアは、6節で「王」と呼ばれ、7節では、主から「お前はわたしの子」と呼ばれております。イスラエルでは、主から油を注がれて王となった人は、特別な意味で、神様の子とされたのです(サムエル下7:14参照)。今朝の御言葉で、神様が、「これはわたしの愛する子」と言われるとき、『詩編』第2編の「お前はわたしの子」という言葉を背景にしているのです。

 では今朝の御言葉に戻ります。新約の78ページです。

 神様は雲の中から弟子たちに、「これはわたしの愛する子」と言われました。神様は、「これはわたしの子」と言われたのではなくて、「これはわたしの愛する子」と言われたのです。「愛する子」とは「独り子」という意味でもあります(創世22:2「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい」参照)。神様が、イエス様のことを「愛する子」と言われるとき、聖霊を注がれて王となった人間以上のことを意味しています。そのことは、神様によってイエス様が光輝く姿に変えられたことからも分かります。神様が「これはわたしの愛する子」と言われるとき、それはその存在においても、イエス様が神の独り子であることを示しているのです。すなわち、イエス様は、油を注がれたメシアにとどまらない、神の永遠の御子が人となられた御方であるのです。神様は、そのイエス様に聞き従うようにと弟子たちに言われるのです。「これに聞け」とは「彼に聞き従え」ということであります。「彼に聞き従え」。この神様の御言葉の背後には、モーセのような預言者を立てるという、『申命記』第18章15節の御言葉があります。そこにはこう記されています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」。このモーセの言葉を背景にして、神様は、「わたしの愛する子であるイエスに、聞き従え」と言われるのです。つまり、イエス様は、神様に油を注がれた王であり、神様の独り子であり、モーセのような預言者であるのです。このような天からの啓示を、ペトロとヤコブとヨハネは、山の上で受けたのです(マルコ1:11参照)。

4.山を下りながら

 山を下りるとき、イエス様は、三人の弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と言われました。それは、とても信じがたいことであったからでしょう。イエス様が死者の中から復活して、弟子たちに聖霊が与えられて初めて、受け入れられるような出来事であったからだと思います。後にペトロは、山上の変貌の出来事について、その第二の手紙の中で記しています。『ペトロの手紙二』の第1章16節から19節までをお読みします。新約の437ページです。

 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください。

 このペトロの言葉から教えられることは、イエス様が力に満ちた神の御子として来られたということです。イエス様は、人間が神になった御方ではありません。復活する前は普通の人間だったけれども、復活した後に、神の子になったのではありません。山上の変貌の出来事は、イエス様が天に属する神の独り子であることを、私たちに教えているのです。福音書記者マルコは、イエス様が聖霊によっておとめマリアの胎に宿ったことを記していませんが、山上の変貌の出来事を記すことによって、イエス様が力に満ちた神の御子であることを証ししているのです。

 また、19節に、「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています」とあるように、山上の変貌の出来事は、イエス様が人の子として栄光をお受けになることの先取りであるのです。イエス様は、御自分が苦難の死を死なれ、復活されて、神様から権威を与えられる人の子であるとお語りになりました。その確かな保証として、神様は、弟子たちの目の前で、イエス様の姿が光輝く姿へと変えられ、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という御声を聞かせてくださったのです。そして、そのことは、三人の弟子の証言によって、今朝、私たちにも示されていることであるのです。

 では今朝の御言葉に戻ります。新約の78ページです。

5.エリヤについての質問

 弟子たちは、イエス様の言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどのようなことかと論じ合いました。そして、イエス様にこう尋ねるのです。「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」。旧約聖書の『マラキ書』に、「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と記されています(マラキ3:23)。律法学者たちは、メシアが来るまえにエリヤが遣わされるはずであると教えていたのです。この彼らの教えによれば、エリヤが来ていない以上、イエス様がメシアであるはずはないのです。この弟子たちの質問に対して、イエス様はこう答えられます。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子が苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである」。イエス様は、律法学者たちの教え、メシアが来るまえに、エリヤが来るはずだという教えに同意します。それはマラキ書に預言されている神様の御計画であるからです。しかし、イエス様は、律法学者たちがエリヤはまだ来ていないと考えるのに対して、エリヤはもう来たと言うのです。このエリヤとは、イエス様の先駆者である洗礼者ヨハネのことであります。洗礼者ヨハネは、主の道を整え、まっすぐにする者として、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。しかし、人々はその洗礼者ヨハネを、好きなようにあしらったのです。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、妻へロディアの娘の願いによって、首をはねられてしまったのです(アハブとイゼベルとの類似)。そして、そのようにして、人の子が苦しみを重ね、辱めを受けるという聖書の言葉が実現することになるのです。洗礼者ヨハネを来たるべきエリヤとして認めずに、殺してしまった人々は、イエス様をメシアとして認めずに、殺してしまうのです。そして、不思議なことに、そのイエス様の苦難の死によって、神様の救いは成し遂げられるのです。このことを覚えるとき、あのペトロの言葉が的外れな言葉であったことが分かります。ペトロは、多くの苦しみを経ずして、栄光に留まろうとしたのです(マルコ8:32参照)。そして、このことは、ペトロだけではなくて、私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも苦しみを避けて、栄光に入ろうとするのです。しかし、そのような私たちに、神様は、「多くの苦しみを経て、栄光に入られたイエス・キリストに聞き従え」と言われるのです(マルコ8:34参照)。

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