力と愛と思慮分別の霊 2021年5月23日(日曜 朝の礼拝)

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力と愛と思慮分別の霊

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
テモテへの手紙二 1章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、
1:2 愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
1:3 わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。
1:4 わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。
1:5 そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。
1:6 そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。
1:7 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
1:8 だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。テモテへの手紙二 1章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

序.ペンテコステを迎えて

 今朝は、聖霊降臨を記念するペンテコステの礼拝です。ペンテコステとは、ギリシャ語で「50番目の」という意味であります。過越の祭りから50日目に行われる五旬祭の日に、神の霊である聖霊は、弟子たちに与えられました。復活されたイエス様は、天に昇られてから10日後に、約束の聖霊を弟子たちに遣わしてくださったのです。イエス・キリストを信じる私たちにも聖霊は与えられております。そのことを念頭に置きつつ、今朝は、『テモテへの手紙二』の第1章1節から8節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.愛する子テモテへ

 1節と2節をお読みします。

 キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。

 ここには、この手紙の差出人と受取人と挨拶の言葉が記されています。差出人は、「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」であります。「キリスト・イエス」とは、「キリストであるイエス」「メシアであるイエス」「油を注がれた者であるイエス」という意味です。その昔、イスラエルでは、預言者や祭司や王の職務に就く人の頭に油を注ぎました。ですから、キリスト・イエスとは、「油を注がれた預言者、祭司、王であるイエス」という意味であるのです。イエス様は、お一人で預言者、祭司、王の職務を果たされる究極的なメシア、油を注がれた方であるのです。パウロは、キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神様の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた者として、この手紙を書き記すのです。「キリスト・イエスによって与えられる命の約束」とは、簡単に言ってしまうと、「キリスト・イエスを信じるならば、永遠の命が与えられるという約束」です。キリスト・イエスは、十字架の死と復活によって、命の約束を実現してくださいました。そして、その命の約束を宣べ伝えるために、教会の迫害者であったパウロを、御自分の使徒とされたのです。使徒とは、「全権を委ねられて遣わされた者」という意味です。ですから、私たちは、これからパウロが記す言葉を、キリスト・イエスの御言葉として読み、また聞かなくてはならないのです。

 次に受取人でありますが、この手紙の受取人は、「愛する子テモテ」であります。パウロとテモテは、親と子ほど年齢が離れていたと思われます。それで、パウロは、自分と共に、福音に仕えるテモテを、「愛する子」と呼んでいるのです(一テモテ1:2「信仰によるまことの子テモテ」参照)。

 この手紙は、キリスト・イエスの使徒パウロから愛する子テモテへ書き送られた手紙でありますが、このとき、パウロはローマの牢獄におりました(2:16、17参照)。この手紙は、パウロがローマの牢獄の中で記した、いわゆる獄中書簡であるのです。パウロは、自分が処刑されることが近いことを意識しながら、この手紙を書き記しました(4:6~8参照)。この手紙は、パウロの最後の手紙であり、パウロの遺書とも呼べる手紙であるのです。パウロは、この手紙を殉教の死を遂げる少し前、67年頃に記したと考えられています。

 他方、テモテはエフェソにおりました(4:12参照)。テモテは、パウロに頼まれて、エフェソにある教会の世話をしていたのです(一テモテ1:3参照)。この手紙は、「愛する子テモテ」に宛てて記された手紙ですが、エフェソにある教会で読まれるために記された公の手紙です。パウロは、エフェソにある教会の礼拝で読まれることを願って、この手紙を記したのです。ですから、私たちが「テモテへの手紙」を礼拝で読むことは、ふさわしいことであるのです。

 パウロは、テモテに挨拶の言葉として、「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」と記します。通常、パウロは、「恵みと平和があるように」と記すのですが、ここでは、「憐れみ」が加えられています。それは、御言葉を宣べ伝えるテモテに、神様の憐れみが特別に必要であるとパウロが考えたからだと思います。福音宣教者の働きを支えるのは、神様の憐れみであることをパウロはよく知っていたのです。「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして、平和があるように」。この御言葉は、テモテばかりではなく、今朝、私たちに対しても語られている祝福の言葉であるのです。

2.神への感謝

 3節から5節までをお読みします。

 わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。

 パウロは、ローマの牢獄の中で、昼に夜に祈りの時を持っていました。ユダヤ人であるパウロは祈りの習慣を身につけており、牢獄の中でも昼に夜に祈りをささげていたのです。そして、その祈りの中で、いつもテモテのことを思い起こして、神様に感謝をささげていたのです。ここでパウロは、神様のことを「先祖に倣い清い良心をもって仕えている神」と記しています。パウロが仕えている神様は、イスラエルの先祖たちが仕えてきた神様であります。パウロは先祖たちが仕えてきた神様に、清い良心をもって仕えているのです。「清い良心」とは「責められるところのない良心」のことであります。「良心」と訳される言葉(シュネイデーシス)は、「共に知る」という意味で、「自分のことを知っているもう一人の自分」のことです。誰も見ていなくても、自分は見ている。ですから、悪いことをすれば、自分が自分を責めるわけです。そのような責めがない良心こそ、清い良心であるのです。そのような清い良心を、私たちはイエス・キリストにあって与えられているのです。たとえ、自分が自分を責めるようなことがあったとしても、イエス・キリストから罪を赦されている者として、清い良心をもって、神様を礼拝することができるのです(ハイデルベルク問60参照)。

 パウロは、「テモテの涙を忘れることができない」と記しています。これはおそらく、テモテがパウロとの別れの時に流した涙ではないかと考えられています。そのテモテに、パウロは、ぜひ会って、喜びで満たされたいと願っていたのです。そして、その願いを実現するために、パウロは、この手紙を書き送るのです。第4章9節には、「ぜひ、急いでわたしのところへ来てください」と記されています。パウロは、この地上を去る前に、愛する子テモテに会いたいのです(創世45:28参照)。そのために、パウロは、この手紙をティキコに持たせて、エフェソへと遣わしたのです(4:12参照)。

 パウロが思い起こしていたのは、涙を流すテモテの姿だけではありません。パウロは、テモテが抱いている純真な信仰を思い起こしていたのです。テモテが抱いている純真な信仰は、祖母ロイスと母エウニケに宿った信仰でもありました。テモテよりも先に、祖母ロイスと母エウニケがイエス・キリストを信じる者となっていたのです。テモテは、キリスト者の祖母と母のもとに生まれた、いわゆる契約の子供であったのです。キリスト者である祖母と母から、テモテは聖書を学んだのです。パウロは、第3章14節と15節でこう記しています。「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」。テモテは、幼い時から、祖母や母に聖書を読み聞かせられ、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を与えられ続けてきたのです。そのようにして、テモテの心に、祖母と母と同じ純真な信仰が育まれたのです。

 来週、M.Sくんの信仰告白式を行う予定です。M.Sくんも、キリスト者の親のもとに生まれた、契約の子供であります。親の願いによって幼児洗礼を受けて、教会の子供として成長してきたM.Sくんが、自分の口で、信仰を公に言い表そうとしているのです。そのことは幼い時から、聖書を学んで来たことの結実であるのです。父や母から、教会学校の先生たちから、聖書を学んで来たことの結ぶ実であるのです。

3.力と愛と思慮分別の霊

 6節から8節までをお読みします。

 そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。

 パウロが、テモテの頭に両手を置いたことは、テモテが御言葉の教師の務めについた際の按手のことであると考えられています(一テモテ4:14参照)。按手とは、教会役員である教師や長老や執事の職務に就く人の頭に手を置く儀式のことです。それによって、必要な賜物が神様から与えられるのです。私も教師に任職する際に、中会の議場で、按手を受けました。また、長老や執事も、教会の礼拝において、任職する際に、按手を受けたはずです。ある人を教師の職務に就かせ、ある人を長老の職務に就かせ、ある人を執事の職務に就かせられる神様は、按手によって、その必要な賜物をも与えてくださったのです。では、教師や長老や執事ではない信徒には、神の賜物が与えられていないのかと言えば、そんなことはありません。ここで、パウロが再び燃え立たせるようにと勧めているのは、神の霊、聖霊であります。ですから、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたすべての信徒が、このパウロの勧めを自分への勧めとして読むことができるし、また読むべきであるのです。

 イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちに与えられている神の賜物について、パウロは7節でこう記しています。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」。パウロが、自分が牢獄の中にいることを知って、テモテが臆病になるのではないかと心配していたようです。パウロが牢獄に入れられたのは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていたからでありました(使徒17:7「彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」参照)。それで、パウロは、テモテが臆病になって、私たちの主イエスを証しすることを、また、自分が主の囚人であることを恥じるのではないかと心配したのです。そのテモテに、パウロは、こう言うのです。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」。私たちに与えられている聖霊は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊であります。聖霊は、私たちに生きる力を与え、神と人とを愛する愛を与え、神様の御心に適うことは何かを判断する思慮分別を与えてくださいます。その力と愛と思慮分別の霊を、再び燃えたたせるようにと、パウロは、テモテに、また、私たちに勧めるのです。

 パウロは、8節で、自分のことを「主の囚人」と言い表しました。「ローマ皇帝の囚人」とは言わないで、「主イエス・キリストの囚人」と言ったのです。パウロは、自分を捕らえているのは、ローマ皇帝ではない。主イエス・キリストであることを知っていたのです。ですから、パウロはテモテに、自分のことを恥じてはならないと記したのですね。パウロの願い、それは、テモテが神様の力に支えられて、福音のために自分と一緒に苦しみを忍ぶことでありました。神の力に支えられて、福音のための苦しみを、自分と一緒に担ってほしいと願ったのです。これは、今朝、私たちにも求められていることであります。現代の日本に住む私たちは、イエス・キリストを宣べ伝えることで、捕らえられるということはないと思います。『日本国憲法』によって、信教の自由などの人権が保障されていますから、イエス・キリストを宣べ伝えることによって牢獄に入れられることはないと思います。では、私たちには何の苦しみもないかと言えば、そうではないと思います。イエス・キリストの福音に耳を傾けようとしない人々の中で、イエス・キリストの福音を証ししていくことは、精神的な苦しみがあると思うのです。私たち人間は、暴力を振るわれなくても、悪口を言われなくても、無視をされると傷つきます。多くの人々がイエス・キリストに対して無関心である日本において、福音を宣べ伝えていくことは、そのような精神的な苦しみが伴うと思うのです。私たちは、神様の力をいただきながら、そのような苦しみを耐え忍ぶことが求められているのです。では、私たちは、どのようにして、力と愛と思慮分別の霊を再び燃えたたせることができるのでしょうか。また、私たちは、どのようにして、神様からの力をいただくことができるのでしょうか。それは、主イエス・キリストを証しする礼拝をささげることによってであります。主イエス・キリストの復活を証しする主の日の礼拝をささげることによって、私たちは与えられている聖霊を再び燃えたたせ、上からの力をいただくことができるのです。そのようにして、私たちは、福音のための苦しみを、喜びながら担っていきたいと願います。

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