自分の十字架を背負って 2021年5月16日(日曜 朝の礼拝)

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自分の十字架を背負って

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 8章34節~9章1節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」マルコによる福音書 8章34節~9章1節

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序.前回の振り返り

 先週、私たちは、ペトロがイエス様に対して、「あなたはメシアです」と告白したこと。そのペトロの信仰告白を受けて、イエス様が御自分の苦難の死と復活について教え始められたことを御一緒に学びました。31節にこう記されています。「それから、イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。イエス様の時代、人々は、イスラエルをローマ帝国の支配から救い出してくださるメシア、油を注がれた者を待ち望んでいました。しかし、イエス様は、御自分が必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっているメシアであると教え始められたのです。ここで、「必ず何々することになっている」と訳されている言葉(デイ)は、神様の御計画の必然を表す言葉です。イエス様は、神の言葉である聖書から、メシアである御自分が歩むべき道をこのように理解されたのです。そして、それはペトロがイエス様をわきへお連れして、いさめたように、弟子たちには到底受け入れられないことでありました。そのような弟子たちに、イエス様は、こう言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。「神のこと」とは「神の救いの事柄」であります。イエス様は神様が与えようとしておられる救いのことを第一に思われるからこそ、多くの苦しみを受け、最高法院から捨てられ、殺される道を歩まれるのです。その先にある復活を信じて、苦難の道を歩まれるのです。そのイエス様に従うには、どうすればよいのか。そのことを今朝の御言葉から御一緒に学びたいと願います。

1.自分を捨てて、自分の十字架を背負って、イエスに従う

 それからイエス様は、群衆を弟子たちと共に呼び寄せてこう言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 ここで、突然、「群衆」が出て来ます。27節によれば、イエス様は弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村へお出かけになり、その途中で、弟子たちにお語りになりました。しかし、そのような場面設定を気にすることなく、福音書記者マルコは、イエス様が「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」と記すのです。それは、ここでのイエス様の教えが、すでにイエス様に従っている弟子たちだけではなくて、イエス様に従う決断をしていない群衆も聞くべき教えであるからです。イエス様は、多くの苦しみを受け、最高法院から捨てられて殺され、三日目に復活するメシアとしてこう言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。弟子たちは、イエス様の後に従う者たちでありました。例えば、ペトロは、ガリラヤ湖で網を打っているとき、イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、網を捨ててイエス様の後に従いました。他の弟子たちも同じです。その弟子たちに、イエス様は、多くの苦しみを受け、最高法院から捨てられて殺され、三日目に復活するメシアとして、どのような心構えで、御自分に従うべきであるかを教えられるのです。そのようにして、イエス様は弟子たちに再献身を求められるのです。また、イエス様を信じていない群衆に、このような心構えで私に従いなさいと決断を迫られるのです。この御言葉は、今朝、私たちに語られている御言葉でもあります。私たちもイエス様の弟子であります。私たちは、主イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主として信じています。私たちはイエス様の弟子であるからこそ、日曜日を主の日として聖別し、礼拝をささげているのです。その私たちにイエス様は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われるのです。また、イエス様は、御自分のことをまだ信じていない人たちに、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と決断を迫られるのです。

 「自分を捨て」とは、どういう意味でしょうか。これは言い換えれば、自分を第一としないということでしょう。33節の御言葉をもじって言えば、「人間のことを思わず、神のことを思う」ということです。イエス様は、聖書が預言するメシアとして、多くの苦しみを受けて、最高法院から捨てられ、十字架に磔にされるという苦しくて恥ずかしい死を死なれます。イエス様は、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられました(フィリピ2:8参照)。それは、イエス様が自分を捨て、神様のことを第一とされたからです。そのことがはっきりと示されたのが、あのゲツセマネの祈りであります。十字架につけられる前の夜、イエス様は地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。イエス様は、このように三度祈られて、神様の御心として十字架の死を死んでくださったのです。そのように、イエス様は自分を捨て、神様の御心を第一とされたのです。そのイエス様に従う弟子として、私たちは自分を捨て、神様の御心を第一にすることが求められるのです。

 次に、イエス様が求められることは、私たちが自分の十字架を背負うということです。「自分の十字架」とは何でしょうか。それは、私たちがそれぞれに背負っている人生の困難のことです。「これさえなければ、どんなにいいことか」と思う苦しみや悩みのことです。ここで思い起こしたいことは、「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われたイエス様が、文字通り、十字架を背負われたということです。イエス様は、神様の御心として、私たちの罪を担って十字架につけられるために、文字通り、十字架の横木を背負われたのです。そのようにして、イエス様は、私たちの苦しみを御自分の苦しみとされたのです。イエス様が十字架を背負われたのは、ゴルゴタまでの道のりだけではありません。イエス様は、私たちの救い主として、その御生涯にわたって、私たちと同じ苦しみを背負われたのです。旧約聖書の『イザヤ書』第63章8節と9節にこう記されています。旧約の1165ページです。

主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。

なぜ、神の御子であるイエス様が十字架を背負われたのか。それは、神様が、私たちの苦難を御自分の苦難とされる御方であるからです。神様が、私たちをその苦難から贖い出してくださる御方であるからです(ヘブライ1:1、2「神は、・・・この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」参照)。そのことを知るとき、私たちは自分の十字架を自ら、主体的に背負うことができるのです。自分の人生の苦しみを、神様から与えられた十字架として背負い、私たちのために十字架を背負って歩まれたイエス様に従うことができるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の77ページです。

3.イエスのために、福音のために命を失う者

 続けて、イエス様は、35節から38節でこう言われます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」。

 イエス様は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われた後で、命についてお語りになります。それは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことが命に至る道であるからです(ヨハネ14:6参照)。神様の御心を第一として、私たちと苦難を共にされるイエス様は、私たちの初穂として復活される御方でもあります。ですから、イエス様のため、また福音のために命を捨てる者は、それを救うことになるのです。自分の命を救いたいと思って、イエス様との関係を否定する者は、イエス様によって与えられる復活の命を失ってしまいます。しかし、イエス様のために、また福音のために命を失う者は、イエス様によって与えられる復活の命を得るのです。地上の命を失ったとしても、イエス様との関係を否定しない者は、イエス様によって、復活の命を与えられるのです。

 イエス様は、36節と37節で、命がどれほど尊いものであるかを教えています。「命は宝の宝」と言いますように、命こそ、最も尊い宝であるのです。人はいくら財産があったとしても、自分の命を買い戻すことはできません(ルカ12章「愚かな金持ちのたとえ」参照)。そうであれば、私たちは、復活の命を得るために、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従っていくべきであるのです。では、私たちは復活の命にいつあずかることができるのでしょうか。イエス様に従って歩んでいる私たちは、すでに復活の命にあずかっています。なぜなら、私たちのために苦しまれ、十字架につけられたイエス様は、復活して今も活きておられるからです。私たちは十字架を背負われたイエス様が、復活して今も活きておられると信じるがゆえに、自分の十字架を主体的に背負うことができるのです。イエス・キリストを信じる私たちが復活の命を持っていること。そのことがはっきりと示されるのは、イエス様が栄光の主として、再び、この地上に来てくださる日であります。イエス様は、「多くの苦しみを受け、最高法院に捨てられて殺され、復活するのが私の定めだ」と言われました。では、その後、イエス様は、どうされるのでしょうか。イエス様は、「人の子は、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来ることになっている」と言われるのです。このことも、聖書に記されていることであります。旧約聖書の『ダニエル書』の第7章に、「人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に進み出て、権威、威光、王権を受けた」と記されています。十字架に死んで、三日目に復活される人の子は、世界を裁かれる栄光の人の子でもあるのです。イエス様は、今の時代を、「神に背いた罪深い時代」と言われます。私たちが生きている時代も、イエス様の目から見ると、神に背いた罪深い時代なのです。ですから、「わたしはイエス・キリストを信じている」と言っても、馬鹿にされるか、無視されるだけなのです。神に背いた罪深い時代に生きている私たちにとって、イエス様を信じていること、イエス様の御言葉に従って生きることが、恥ずかしいことであるかのように思えてしまうのです。そのような私たちに、イエス様はこう言われます。「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」。ここで、イエス様が言われていることは、「わたしから恥じられることがないように、わたしとわたしの言葉を恥じてはいけない」ということです。使徒パウロは、「わたしは福音を恥としない」と言いました(ローマ1:16参照)。私たちもイエス様とイエス様の福音を恥じてはならないのです。福音こそ、私たち人間を救う、命の御言葉であることを信じて、大胆に、福音を宣べ伝えていくことが求められているのです(使徒5:20参照)。

3.神の国が力にあふれて現れるのを見るまで

 今朝は、最後に、第9章1節を学んで終わります。

「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」。

この御言葉は、解釈の難しい所であると言われます。と言いますのも、イエス様がこのように言われてから、2000年ほどが経っているからです。イエス様は、権威ある者として、御自分と一緒にいる人々が生きている間に、栄光の人の子として来られると言われました。しかし、その人々は皆死んでしまって、イエス様は、それから2000年ほど経っても、来られていないのです。この御言葉を私たちはどのように読んだらよいでしょうか。使徒ペトロは、その第二の手紙で、こう記しています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。神様の時間の尺度と私たちの時間の尺度は異なる。神様にとって、千年は一日のようであるのです(詩90:4「千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」も参照)。これが一つの説明であります。このことを踏まえて、私は、信仰をもって、自分たちと結びつけて読みたいと思います(ヘブライ4:2参照)。天におられるイエス・キリストは、今朝、私たちに、こう言われます。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」。それほど、イエス様が来られることは確かであり、近いということです。そのことを信じて、私たちは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、十字架と復活の主であるイエス・キリストに従っていきたいと願います。

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