イスラエルの希望 2008年6月15日(日曜 朝の礼拝)

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イスラエルの希望

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 28章16節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

28:16 わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。
28:17 三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。
28:18 ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。
28:19 しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。
28:20 だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」
28:21 すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。
28:22 あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」
28:23 そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。
28:24 ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。
28:25 彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、
28:26 語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
28:27 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』
28:28 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」使徒言行録 28章16節~28節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 先々週、私たちは、パウロがローマに到着したことを学びました。パウロは、一人寂しくローマに入ったのではなくて、アピィフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれたローマの兄弟たちと共に、ローマ入りを果たしたのでありました。16節に、「わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。」と記されています。皇帝に上訴し、未決囚であったパウロは、告発人であるユダヤ人が来るまで、番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許されました。この家は、30節によると、パウロが自費で借りた家であったようです。パウロが自費で借りた家に、番兵が交代で来ていたのでしょう。この番兵は、パウロが逃げ出さないように見張るためにつけられたのでしょうけども、同時に、パウロを守るガードマンともなりました。私たちはここにも、ローマの権力を用いて、パウロを守られる主の御手を見ることができます。かつてエルサレムで、ローマの軍隊を用いて、ユダヤ人の暗殺の陰謀からパウロを救った主なる神は、ここローマでも、一人の番兵を用いて、パウロの身を守られるのです。

1.パウロ、おもだったユダヤ人たちを招く

 パウロが、ローマに到着してから、はじめにしたこと。それは、おもだったユダヤ人たちを招くということでありました。当時、ローマには、13のユダヤ人会堂、シナゴーグがあったと言われていますから、この「おもだったユダヤ人たち」は、その会堂の指導者たちであったのでしょう。新しい宣教地に着いたとき、まずユダヤ人の会堂を訪れるのが、パウロの変わらぬ伝道方針でありました(17:2)。ただし、パウロは今、ゆるやかな監禁状態にありましたので、人を遣わして、おもだったユダヤ人たちを招いたのでした。そして、彼らが集まるとこう言ったのです。

 「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」

 パウロは、おもだったユダヤ人たちに「兄弟たち」と親しく呼びかけ、「わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていない」と弁明しました。パウロは、ローマのおもだったユダヤ人たちが、パウロについて何か悪いことを聞いていると思ったのでしょう。現に、エルサレムのユダヤ人たちは、パウロが、異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」と言って、モーセから離れるように教えているという噂を耳にしていたのです(21:21参照)。

 このときパウロはローマの囚人であり、鎖につながれておりましたが、そのいきさつをパウロはここで簡単に語っています。ただ、このパウロの言葉を丁寧に読むと、実際に起こったことと少々異なることに気が付きます。第一に、パウロは、「ユダヤ人の手によってエルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡された」と言っていますが、実際は、ユダヤ人たちに殺されそうになった所を、ローマの千人隊長によって助けられたのでありました。第二に、「ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何もなかったので、釈放しようと思った」と言っていますが、実際は、ローマの地方総督の口から、パウロを釈放しようという発言はありませんでした。第三に、「ユダヤ人たちが反対したので、皇帝に上訴せざるをえませんでした。」と言っていますが、実際は、パウロが皇帝に上訴したのは、総督フェストゥスが、裁判の場をエルサレムに移そうとしたからでありました。

 おもなユダヤ人たちへのパウロの言葉と、実際に起こったことの違いを、それほど気にする必要はないかも知れません。なぜなら、私たちも、自分に都合のいいように、物事を語り直して伝えることをよく心得ているからです。けれども、執筆者であるルカの意図は、もう少し別の所にあったと思います。それは、パウロの歩みを、主イエスの歩みと重ねて読んでもらいたいということです。イエスさまは、ローマ市民権を持つユダヤ人ではありませんでしたので、「皇帝に上訴する」ことはありませんでしたが、それを除けば、イエスさまの歩んだ道筋を、私たちはこのパウロの言葉の中に見出すことができます。イエスさまは、何の罪も犯していないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。また、ローマの総督ポンテオ・ピラトは、イエスさまを取り調べ、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのでありました。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、十字架につけられることになるのです。また、イエスさまは、十字架の上においても「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と執り成しの祈りをささげ、同胞を告発することはしませんでした。このようにルカは、私たちに、パウロの歩みとイエスさまの歩みを重ねて読むことを求めているのです。

 ユダヤ人であるパウロが、異邦人であるローマの皇帝に、同胞のユダヤ人を訴えること。これは、はなはだ誤解を招くことでありました。ですから、パウロは、ローマのおもだったユダヤ人に、決して同胞を告発するためではないことを伝え、自分が鎖につながれ囚人となっていることには、もっと深い意義があると告げるのです。つまり、パウロは、イスラエルが希望していることのために鎖につながれているのです。

 イスラエルの希望、それについてはこれまで何度か語られてきました。例えば、パウロは、総督フェリクスの前でこう弁明しておりました。第24章の14節から15節です。「しかし、ここで、はっきり申し上げます。私は彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」

 また、パウロは、アグリッパ王の前で、このように語っておりました。第26章の6節から8節。「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。神が死者を復活させてくださることを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。」

 イスラエルの希望。それは言い換えれば、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望であります。神は、イエス・キリストを死者の中から復活させることにより、先祖たちに与えられた約束を実現してくださったのです。そして、パウロは、復活されたイエス・キリストの証人として、鎖につながれ、囚人となっているのです。

 以上のパウロの言葉を聞いて、おもだったユダヤ人たちは、こう言いました。

 「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取っておりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」

 ローマのおもだったユダヤ人たちが、ユダヤから、つまりエルサレムの最高法院から、何の書面も受け取っていなかったことは、エルサレムの指導者たちが、皇帝に上訴したパウロを、訴え有罪とすることを断念したことを教えています。もし、エルサレムの指導者たちが、ローマにおいても、パウロを訴え有罪としようと考えたならば、ローマに離散しているユダヤ人に、何らかの書面を送っていたはずです。けれども、おもだったユダヤ人たちはエルサレムから何の書面も受け取っていなかったのです。また、彼らは「この分派」については、至るところで反対があることを耳にはしていても、それがどのような教えであるかまではよく知りませんでした。また、パウロ本人についても、白紙の状態でありました。集まったユダヤ人の誰一人として、パウロについて何か悪いことを報告したり、話したことはなかったのです。むしろ、彼らは、パウロの考えていることを、直接聞いて判断したいと願っていたのです。そして、その願いは、後日実現することになるのです。

2.パウロ、ローマで福音を宣べ伝える 

 ユダヤ人たちは日を決め、大勢でパウロの宿舎にやって来ました。パウロは、朝から晩(夕方)まで説明を続け、神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのであります。ここで「力強く証しし」と訳されている言葉は、かつてエルサレムで、主イエスがパウロのそばに立って言われたのと同じ言葉です。第23章11節にこう記されておりました。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでもわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」

 執筆者であるルカは、この主イエスのお言葉が、確かにパウロのうえに実現したことを「神の国について力強く証しし」という言葉によって、私たちに教えているのです。

 ここでは、パウロが朝から晩まで説明を続けたことの二つの要点だけが記されています。それは、神の国とイエスについてであります。わたしは今、二つの要点と申しましたが、この二つは一体的な関係にあります。なぜなら、イエスにおいて、イスラエルが希望していた神の国は到来したからです。パウロがどのような言葉をもって、神の国について力強く証ししたのか。ここでは省略されておりますけども、第22章に記されていた、ユダヤ人に対する弁明の言葉を読めば、大方のことは分かります。そこでパウロは、かつて「この道」の迫害者であったが自分が、ダマスコ途上において、栄光の主イエスにまみえ、福音宣教者となったことを力強く証ししておりました。

 また、パウロが、どのような言葉をもって、モーセの律法や預言者の書から引用して、イエスについて説得しようとしたかは、第13章に記されていたピシディア州のアンティオキアの会堂における説教を読めば、大方のことは分かります。パウロは、そこで、「神は約束に従って、ダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださった」と語っておりました。また、エルサレムの指導者たちが認めず、木にかけてしまったイエスを、「神は死者の中から復活させて、わたしたち子孫のために約束を果たしてくださった」と語り、「この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」と告げておりました。

 このようなパウロの熱心な説教を聞いたユダヤ人たちの反応が、24節に記されています。「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとしなかった。」

 ここでも、ユダヤ人たちの反応は二つに分かれます。それは、パウロの言葉を受け入れて信じる者と、パウロの言葉を受け入れず信じない者の二つであります。この分離は、何によってもたらされたのでしょうか。その答えは、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音によってであります(ルカ2:34、二コリント2:15参照)。そのことは、パウロの話を聞く前に、おもだったユダヤ人たちのうちだれ一人として、パウロについて何か悪いことを報告したことも、話したこともなかった、という事実によっていよいよ鮮明となります。おもだったユダヤ人の一人が、自分が指導する会堂において、パウロについて何か悪いことを報告し、話すことによって、一部のユダヤ人はあらかじめ不信感を植え付けられていたわけではないのです。むしろ、大勢のユダヤ人は、おもだったユダヤ人たちと同じく、パウロの考えていることを直接聞きたいと願って集まって来たのです。パウロの話を聞くまでは、同じような心の状態であったわけです。しかし、ある者はパウロの言うことを信じ、他の者は信じようとしなかった。それは、パウロの語るイエス・キリストの福音が、聞く者を信じるか信じないかのどちらかに振り分ける働きを持っているからです。イエス・キリストの福音は、それを聞いたすべての者に、信じるか、信じないかの決断を迫るのです。

3.ユダヤ人の不信仰は、イザヤの預言の成就

 それでは、イエスを信じるか、信じないかの究極的な根拠は、その人自身にあるのでしょうか。そのことを教えてくれるのが、25節以下であります。ユダヤ人たちが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひとこと次のように言いました。

 「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目でみることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」

 ここで、パウロが引用しているのは、旧約聖書のイザヤ書第6章9節と10節の御言葉であります。イザヤ書の第6章は、「イザヤの召命」について記しております。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」との主の御声を聞いたイザヤは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と名乗りを上げるのです。そのイザヤの言葉を受けて、主なる神は、ここでパウロが引用している御言葉を告げるのです。ここで主は、イザヤに、「ユダヤ人が聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが決して認めない」と言われました。それは何より彼らの心が鈍くなってしまっているからです。主なる神が、先祖たちへの約束の実現として、イエス・キリストにおいて救いを提供しようとしておられるのに、彼らの心は鈍くなり、それを欲しないのです。イエス・キリストを信じなくとも、彼らは自分たちが神の救いに与ることができると錯覚してしまっているのです。

 パウロは、ピシディア州のアンティオキアの説教で、「この方(イエス)による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」と語っておりました。しかし、多くのユダヤ人たちは、このパウロの言葉を受け入れませんでした。彼らは、依然として、モーセの律法によって義とされると信じていたのです。それゆえ彼らは、イエス・キリストにおいて無償で提供される神の救いを受け入れようとしないのです。そのようにして、イザヤが先祖たちに語った預言が、その子孫たちのうえに実現していると、パウロは告げるのです。ですから、ユダヤ人がイエスを信じなかったことの責任は彼ら自身に問われますけども、その究極的な根拠は、主なる神の御旨によると言えるのです。

 神の民であるイスラエル、モーセの律法と預言者の書を与えられたユダヤ人が、なぜ、約束のメシアであるイエスを信じなかったのか。これは、まことに大きな謎であります。ここでパウロは、その大きな謎に、イザヤの預言の成就をもって答えているのです。

 さらにパウロは、ローマの信徒への手紙の第9章から第11章において、イスラエルと福音の関係について論じております。ここでは第11章25節から27節までをお読みしたいと思います。新約聖書の291ページです。

 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するためであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」

 ローマの教会は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者からなる教会でありました。ここでは異邦人キリスト者を念頭に置きつつ、「兄弟たち」と呼びかけています。また25節のかたくなになった「一部のイスラエル人」とは、民族としてのイスラエル人、ユダヤ人のことでありますが、26節の救われることになる「全イスラエル」とは、民族の違いを超えた、イエス・キリストを信じるユダヤ人と異邦人からなる神の民としてのイスラエルのことであります。パウロは、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体に救いがもたらされ、こうして、全イスラエルが救われる、という神の秘められたご計画によるものであることを知っておりました。そして、事実、ここローマにおいても、多くのユダヤ人たちは、イエス・キリストを信じず、神の救いにあずかることを拒絶してしまうのです。

 それでは、パウロは、このイザヤの預言をユダヤ人に対して、いわゆる運命論的に語っているのかと言えば、そうではありません。パウロは、同胞のユダヤ人たちが、イスラエルの希望を捨てることなく、イエスを信じるようにと心から願い、警告しているのです。パウロは、異邦人全体に救いがもたらされるために、一部のユダヤ人がかたくなにされることを神の秘められたご計画であると知りつつ、彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っていたのです(ローマ10:1参照)。

4.神の救いは異邦人へ

 使徒言行録に戻りましょう。新約聖書の271ページです。

 イザヤの預言を引用した後で、パウロは次のように述べています。28節。

 「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」

 ここでの「神の救い」は、20節の「イスラエルが希望していること」の内実、その内容と言えます。パウロは、イスラエルが希望していた神の救いに異邦人があずかることになると語りました。これは、先程見たローマの信徒への手紙にも記されていたことでありますが、なぜ、神の民であったユダヤ人が神の救いを拒否し、神の民でない異邦人が、神の救いであるイエスに聞き従うのでしょうか。ある人は、このように申しております。ユダヤ人は、先祖や律法という誇るべきものがあったが、異邦人には何も誇るべきものがなかったからだと。パウロは、エフェソの信徒への手紙の第2章11節以下で、異邦人について次のように語っています。新約聖書の354ページです。

 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手の割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約とは関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

 なぜ、異邦人が神の救いであるイエスに聞き従うのか。それは異邦人が、世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた者たちであったからです。ユダヤ人たちは、神と共に歩んだ先祖たちの歴史、律法や預言者の書を誇ることができたでしょう。けれども、異邦人は何も誇るべきもの、頼るべきものがないのです。ただ、イエス・キリストにおいて、神に近づくことができる。ただイエス・キリストにおいて神の救いにあずかることができるのです。もし、そのことを忘れるならば、私たちの心も鈍くなるのです。そして私たちは、すべての異邦人が、イエス・キリストに聞き従ったわけではないことを知っているのです。ここにも、憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ、神の自由な選びの御手を見ることができます。しかし、そのとき、私たちもパウロのように、同胞の救いを心から願い、祈り求める姿勢を決して忘れてはならないのです。

結.イスラエルの希望=私たちの希望

 今日の説教題を「イスラエルの希望」といたしました。ここでの「イスラエル」とは、イエス・キリストを信じるあらゆる民族からなる神の民のことであります。そして、この「イスラエルの希望」しか、私たち人間に希望は与えられていないのです(使徒4:12参照)。神が私たちに人間に提供しておられる唯一の希望は、主イエス・キリストを信じて、神の救いにあずかるという希望だけであります。私たちは、イエス・キリストにあって、神の民イスラエルの一員となり、死者からの復活という希望を、自らの希望とさせていただいているのです。イエス・キリストを信じる私たちの希望、それは他でもない死者からの復活という希望なのです。

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