ローマ到着 2008年6月01日(日曜 朝の礼拝)

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ローマ到着

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 28章1節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

28:1 わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。
28:2 島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。
28:3 パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。
28:4 住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」
28:5 ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。
28:6 体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った。
28:7 さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。
28:8 ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。
28:9 このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。
28:10 それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。
◆ローマ到着
28:11 三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した。ディオスクロイを船印とする船であった。
28:12 わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、
28:13 ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。
28:14 わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた。
28:15 ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。
28:16 わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。使徒言行録 28章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 「わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」

 このパウロの言葉のとおり、船に乗っていた全ての者が、無事に上陸いたしました。「わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。」とありますように、パウロたちは、シチリア島の南、約95キロメートルに位置するマルタ島に上陸したのです。2節で「島の住民」と訳されている言葉は、バルバロイというギリシア語で、外国語を話す、非ギリシア人を表す言葉であります。彼らはカルタゴの方言を使っていたと言われています。また、バルバロイという言葉は、ギリシア文化を知らない未開人という意味もありますけども、島の住民は大変親切な人たちでありました。「降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。」そのように、ルカは感謝を込めて回想し、書き記しています。

 そのとき、ある事件が起こります。パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡らみついたのです。絡みついたというよりも、かみついたのでしょう。住民はパウロの手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いにこう言いました。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けませんでした。体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっておりましたが、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言い出したのです。

 このような記述を読みますと、確かに彼らは未開人であり、迷信深い者たちであると思われるも知れません。蝮にかまれれば、「この人は人殺しに違いない」と言い、何の害も受けなければ、「この人は神さまだ」と言い始める。このような極端な評価の変わりように、私たちはどこかあきれてしまうのです。しかし、案外、私たちも、この島の住民たちと同じようなところがあるのではないでしょうか。私たちも悪いことが起これば、罪の報いを受けているのではないかと自らを省み、良いことが起これば、神さまは自分を祝福しておられると感謝の念を覚えるものです。悪いことをすれば罰を受け、良いことをすれば祝福を受ける。そのように考えるのは、人が神のかたちに似せて造られていることに由来します。ローマの信徒への手紙の2章で、パウロは、異邦人の心にも律法の要求することが記されていると言っておりますが、それはこのような勧善懲悪の思いのことを言っているのです。それゆえ、悪いことをすれば罰を受け、良いことをすれば祝福を受ける、という考えは、時代や民族を超えてすべての人に身に付いているものなのです。そのような考え方から、蝮にかまれたパウロは人殺しであるという評価が下され、また、蝮にかまれても何の害も受けないことが分かると、この人は神さまだという評価に変わるのです。このような幸、不幸によって、その人の評価が決まるのであれば、それは不安定で、不確かな世界となってしまいます。それは、私たちの行いによって、神が祝福と呪いをもたらすという、申命記に描かれている律法の支配であると言えるのです。

 申命記の28章には、神の祝福と呪いのリストが記されています。旧約聖書の323ページです。

「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じるすべての戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うなら、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。」こう言って、祝福のリストが記されるわけです。そして、次に「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。」と語られ、呪いのリストが記されるのです。このような旧約聖書の御言葉を、新約時代に生きる私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。そのことを教えてくれるのが、パウロが記したガラテヤの信徒への手紙であります。ガラテヤの信徒への手紙3章7節から14節をお読みいたします。新約聖書の345ページです。

 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明かです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は、皆呪われている」と書いてあるからです。それはアブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした。

 ここで、パウロは、旧約聖書を引用しつつ、アブラハムに約束された祝福が、律法の行いではなく、イエス・キリストへの信仰によって与えられることを論証しています。このところは、火曜日の祈祷会で学んだばかりでありますが、実は、このパウロの論述はいささか強引である言えるのです。例えば、10節で、律法の実行に頼る者はだれでも、呪われていることを明かとするために、申命記の御言葉を引用するのですが、申命記の27章26節には「この律法の言葉を守り行いない者は呪われる。」と書いてあり、「すべての」とか「たえず」とか「みな」という言葉はないのです。これはパウロが自分の主張にそうように付け加えたものと言えます。また、先程も申しましたように、申命記28章は、主の御声に聞き従わない者に対する呪いばかりではなくて、主の御声に聞き従う者に対する祝福をも記しておりました。ですから、申命記そのものを読みますと、パウロが言っているようには、必ずしも教えていないわけです。つまり、申命記は、イスラエルの民が、律法を守れることを前提として、祝福と呪いについて記しているわけです。では、パウロの聖書解釈は間違っているのかと言えば、もちろん、そうではありません。なぜなら、パウロは、十字架につけられ、復活されたキリストを鍵として、旧約聖書を解釈しているからです。神から遣わされたキリストが、こともあろうに、十字架の死、呪いの死を死んでしまわれた。この事実から、パウロは「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われている」と結論するのです。もし人が、律法の行いによって義としていただけるならば、キリストは十字架の呪いの死を死なれる必要はなかったはずです。すべての人が、罪のもとにあり、律法の呪いのもとにおかれているからこそ、キリストは、十字架のうえで私たちのために呪いとなってくださったのです。そして事実、アブラハムに約束された祝福、約束の聖霊は、このイエス・キリストを通して与えられたのでありました。

 熱心なユダヤ教徒であったパウロが、栄光のキリストにまみえたとき、パウロは、律法が人を生かすことができない。人に呪いをもたらすものでしかないことが分かりました。それは、律法そのものが悪いわけではなくて、受ける人間の側に、それを守る力がないからです。それゆえ、命をもたらすはずの律法が、死をもたらすもの、呪いをもたらすものとなったのです。しかし、その呪いを、罪のないお方、神の御子イエス・キリストが、私たちに代わって受けてくださり、御自分を信じるすべての者を律法の呪いから贖い出してくださったのです。

 父なる神の御心に従って呪いの死を死なれたキリストは、三日目に復活させられ、祝福の源となられました。先程、お読みした申命記に「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うなら、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。」とありましたけども、キリストだけが、十字架の死に至るまで父なる神の御声に完全に従い抜かれたのです。それゆえ、イエス・キリストは、消極的には、私たちに代わって呪いを受けることによって、また積極的には、私たちに代わって、神の掟を完全に守ることによって、祝福の源となられたのです。

 「キリストは、わたしたちの呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」このパウロの言葉は、私たちの世界観に大転換をもたらす革命的な発言です。なぜなら、このパウロの言葉はイエス・キリストを信じる者はもはや呪いのもとにないことを高らかに宣言しているからです。

 創世記の3章に、はじめの人類であるアダムの堕落について記されています。アダムが神の掟に背き、罪を犯したゆえに、土は呪われるものとなりました。いわば、この全世界が、アダムの堕落によって、神の呪いのもとにおかれているのです。私たちは、そのことから目をそむけてはいけないと思います。ごまかしてはいけないと思うのです。なぜなら、神はその呪いからの解放を、イエス・キリストにおいて、すべての人に与えようとしておられるからです。イエス・キリストは、十字架の死によって、私たちを律法の呪いから贖い出し、神の祝福に生きる道を切り開いてくださいました。私たちは今、神を「アッバ、父よ」と呼び、神の子として生きる祝福に生かされているのです。

 先程、私たちもマルタ島の住民ように、自分を取り巻く状況によって、不確かな考えに陥ってしまうことがあると申しました。しかし、私たちが教会の交わりの中でも、そのように考え始めたら、これは大きな間違いであります。教会員の中にも、さまざまな人がおられます。健康な人、そうでない人。経済的に豊かな人、そうでない人、そのような違いはいくらでもあります。しかし、それによって、私たちが、あの人は神さまから祝福されている人、あの人は神さまから祝福されていない人と考えるならば、それは大きな間違いであります。なぜなら、イエス・キリストを信じるすべての者は、パウロが言っておりますように、律法の呪いから贖い出され、神の祝福に生かされているからです。健康であるかないか。経済的に豊かであるかないか。そのようなことが、神さまから祝福されているかいないかの目安になるのではありません。イエス・キリストを信じるすべての人が祝福されているのです。たとえ、蝮にかまれ、そのまま息絶えてしまったとしても、そうなのです。イエス・キリストにある交わりに生かされている私たちは、誰も神の祝福から洩れている者はおりません。そのことを正しくわきまえるとき、私たちは、他人を自分勝手に評価し、裁く罪を犯さずにすむようになります。たとえ、病の床にありまして、イエス・キリストを信じる者は神の祝福の御手の中にあるのです。そして、そのことを信じるからこそ、私たちは、困難の中にある兄弟姉妹のために祈り続けることができるのです。

 使徒言行録に戻りましょう。新約聖書270ページです。

 パウロたちは、島の長官であるプブリウスから、三日間手厚いもてなしを受けました。ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いて癒してあげました。そして、このことを伝え聞いた島の他の病人たちもやって来て、癒してもらったのです。この記述は、ルカによる福音書の4章に記されている、イエスさまがシモンのしゅうとめの熱をお癒しになり、その後に、多くの病人を癒されたお話しを思い起こさせます。今朝の御言葉で、パウロが福音を宣べ伝えたとは書いてありませんけども、パウロは主に祈り、病を癒すことによって、神の国がここにも来ていることを証ししたのです。パウロは彼らの言う神さまではありませんけども、主イエス・キリストから遣わされた神の人であったのです。マルタ島の住民も、そのようなパウロたちに深く敬意を表し、船出のときには、必要なものを持って来てくれました。このようにして、マルタ島においても、主イエスの福音の種は蒔かれたのであります。

 地中海の航海は、冬の期間は危険であり、2月上旬以降にようやく再開されたと言われます。よって、パウロたちがマルタ島に上陸したのは、11月上旬と考えられます。マルタ島で三か月を過ごしたパウロたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航しました。ここから、ローマに到着するまでの記述で、印象的なのは、パウロたちが、まったく自由人として描かれていることです。そのことは、この船旅のはじまりの記述(27:1-3)と読み比べるとよく分かります。16節に、「パウロは番兵を一人つけられたが」とありますので、まだパウロが囚人の身であることが分かるのですが、もしそれがなければ、パウロが囚人として、ローマに連れて来られたことを忘れてしまうほどであります。そして、ここにルカのねらいがあるのだと思います。つまり、パウロは、ローマに囚人として連れて来られたのではなくて、自分の意志でローマへと進み、さらには、兄弟姉妹たちの出迎えを受けて、兄弟姉妹たちと一緒に、ローマに凱旋する姿を、ルカは描きたいのです。

 聖書の巻末に聖書地図がありますが、その「9 パウロのローマへの旅」を見ていただければ、マルタからシチリア島のシラクサ、さらにイタリア半島のレギオンからプテオリに入港し、陸路、アッピア街道を通って、ローマへと向かった道筋がよく分かります。

 終点であるプテオリに入港したとき、「わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。」とあります。百人隊長に、プテオリで何らかの用事があったのか。それとも、百人隊長は、このときキリスト者となっており、パウロたちの願いを聞き入れ、7日間留まることを許してくれたのかは、分かりませんけども、この7日間の間に、パウロがローマへ到着したという知らせは、首都ローマのキリスト者のもとに届けられることになります。およそ4年前の紀元57年頃に、パウロは、コリントからローマの信徒への手紙を書き送っておりました。使徒言行録の20章2節に、「そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした。」とありますが、このギリシアは、コリントのことであり、この三か月の間に、あのローマの信徒への手紙が執筆されたと考えられているのです。ですから、ローマの信徒たちは、パウロのことを手紙を通して知っておりました。彼らは、パウロがエルサレム教会に募金を手渡した後、ローマに行きたいと切望していたことを知っていたのです。パウロは、ローマの信徒への手紙の15章30節以下で次のように記しております。新約聖書の296ページです。

 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、霊が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。

 このようなパウロの願いを受けて、熱心に祈っていた者たちが、パウロを待ちきれず、ローマから南に50キロメートル離れたトレス・タベルネに、さらには、ローマから南に70キロメートル離れたアピイフォルムに、パウロを迎えに来ていたのです。先程も申しましたように、船旅は、プテオリに入港した時点で終わりでありまして、後は陸路、アッピア街道を北上してローマへ向かう旅となりました。ですから、ローマの信徒たちは、パウロが、必ずアッピア街道を通ることを知っていたわけですね。ローマへの道は、一本道なわけです。それゆえ彼らは、パウロがローマに入る前に、パウロを出迎え、パウロと共に、ローマ入りを果たしたのです。それはさながら、勝利の凱旋であります。パウロは、一人でローマに入ったのではありません。パウロは、50キロ、70キロの道のりを歩いて、出迎えてくれた多くのローマの兄弟姉妹と共に、ローマに到着したのです。パウロは、まだローマの信徒たちと面識はありませんでした。けれども、彼らは、パウロのために熱心に祈り続け、遠い道のりを歩いてパウロを出迎えたのです。パウロが彼らと会い、神に感謝をささげ、勇気づけられたのは当然のことでありましょう。パウロには、ローマにおいても、自分のために祈り、労してくれる主にある兄弟姉妹がおりました。そして、そのことはパウロだけではありません。私たちにも、自分のために祈り、労してくれる兄弟姉妹が与えられているのです。主イエス・キリストの祝福を共に受け継ぐ兄弟姉妹が与えられているのです。それゆえ、私たちも、主の日の礼拝ごとに神に感謝し、勇気をいただくことができるのです。私たちは、一人ではありません。自分のために祈ってくれる兄弟姉妹がいる。どのような状態にありましても、わたしがキリストの祝福に生かされていることを信じて、祈ってくれる兄弟姉妹が与えられているのです。

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