破船と救い 2008年5月25日(日曜 朝の礼拝)

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破船と救い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 27章27節~44節

聖句のアイコン聖書の言葉

27:27 十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。
27:28 そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。
27:29 船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。
27:30 ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、
27:31 パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。
27:32 そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。
27:33 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。
27:34 だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」
27:35 こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。
27:36 そこで、一同も元気づいて食事をした。
27:37 船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。
27:38 十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。
27:39 朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。
27:40 そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。
27:41 ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。
27:42 兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、
27:43 百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、
27:44 残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。使徒言行録 27章27節~44節

原稿のアイコンメッセージ

 使徒限言行録27章に記されている、ローマへの船旅の様子を前回に続いて学びたいと思います。

 今日は27節からお読みしていただきましたが、はじめに27節までの経過をざっと振り返っておきたいと思います。

 パウロは、他の数名の囚人と一緒に、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスに引き渡され、カイサリアからイタリアへ向かって船出することになります。パウロを乗せた船はアジア州沿岸に寄港するアドラミティオン港の船で、向かい風に悩まされながら、キプロス島を風よけにして、リキア州のミラに到着しました。そして、このミラから、イタリアへと向かうアレクサンドリアの船に乗り込んだのです。けれども、幾日も船足ははかどらず、風に行く手を阻まれたので、ここでも風を避けるようにクレタ島の陰を航行して、ようやくラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所に到着しました。この「良い港」に留まるべきか、それともここから船出してフェニクス港に行くべきか。意見の分かれるところでありました。パウロは、かなり時がたっており、航海には危険な季節であったことから、「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」と忠告しました。けれども、百人隊長は、船長や船主の方を信用して、また、「この港は冬を越すのに適していない」との大多数の意見に従って、フェニクス港に向けて出航したのでありました。

 ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えたのですが、しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風に巻き込まれてしまいます。船は流されるままとなり、カウダという小島の陰で、やっと小舟を引き上げ、船体に綱を巻き付け、シルティスの浅瀬に乗り上げないように海錨を降ろすことができました。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨てて船を軽くました。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていたのです。つまり、パウロを乗せた船は、嵐の海の中で遭難してしまったのです。

 そのようなとき、パウロは彼らの中に立ってこう言ったのです。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出しなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」 

 ここまでが、前回学んだ所のあらすじであります。それでは、今日の御言葉、27節以下をご一緒に見て参りましょう。

 27節に「十四日目の夜」とありますが、これは「良い港」を船出し、遭難してから「十四日目」ということでありましょう。遭難してから十四日目の夜、「わたしたち」はアドリア海を漂流しておりました。この「わたしたち」は、パウロとルカとアリスタルコだけを指すのではなく、同じ船に乗り合わせたすべての者を指しております。ここでのアドリア海は、シチリア島の東側、地中海の中央部のことであります。その十四日目の真夜中頃、船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じました。おそらく船員たちは、波が岩壁にあたって砕ける音を聞き分けたのでありましょう。そこで、水の深さを測ってみると、20オルギィアあることが分かりました。聖書の巻末に「度量衡および通貨」というページがありますが、そこを見ますと「1オルギィアは、約1.85メートル」と記されています。ですから、20オルギィアとは、約37メートルのことです。もう少し進んで測ってみると、今度は15オルギィアでありました。15オルギィアは、約28メートルにあたりますから、先程よりも10メートル近く、海底に近づいていることが分かります。それだけ陸地に近づいているということでありますね。船員たちは暗礁に乗り上げるのを恐れ、船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびました。「暗礁」とは、海中に隠れて見えない岩のことでありまして、船員たちはその「暗礁」に乗り上げることを恐れたのです。しかし、そこで思っても見なかったことが起こります。陸地が近いことを知った船員たちは、小舟で船から逃げ出そうとしたのです。月も星も見えず、風が吹きすさぶ海の中に、小舟をこぎ出すのは尋常とは言えません。けれども、この船員たちが、失望と不安の中にあったことを考えるならば、この尋常でない彼らの行動も分かる気がいたします。彼らは、ただ自分たちのことだけを考えて、自分たちの命の救いのことだけを考えて、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたのです。しかし、そのもくろみは、パウロによって見抜かれてしまいます。パウロは、船員たちの不審な行動に気づき、百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と叫んだのです。なぜ、パウロだけが、船員たちの不審な行動に気づいたのでしょうか。それはパウロが、船に乗っているすべての者に目を向けていたからだと思います。船に乗っている者たちが、自分のことだけでいっぱいいっぱいの中で、パウロだけが冷静な目をもって、全体を見回し、すべての者の救いのために心を配っていたのです。パウロは、主から、一緒に航海しているすべての者を任された責任ある者として、全ての者が救われるためには、どうすればよいかを常に考えていたのです。そして百人隊長と兵士たちを含むすべての者が助かるためには、航海術にたけた船員たちがどうしても必要であると判断したのです。事実、嵐の中で遭難した船が、今日まで破船せずにすんだのは、船員たちのおかげでありました。船員たちは、船体に綱を巻き付け、海錨を降ろし、積み荷や船具を投げ捨てるなど、難船を避けるために様々なことをしてきたわけです。それゆえ、パウロは、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言ったのです。私たちは、ここに、神さまの約束を信じながらも、常識的な判断を失わない信仰者パウロの姿を見ることができます。パウロは、主なる天使からのお告げに基づいて、船は失うが、だれ一人として命を失う者はいないと信じておりました。それゆえ、「元気を出しなさい」と意気消沈する人々を慰め、励ましたのです。けれども、パウロは、船員たちがいなくなっても、助かるとは考えませんでした。主なる天使からのお告げがあったのだから、何がなんでも助かる。船員がいなくなろうが助かるとは考えなかったのです。パウロは、神さまが、船員たちを用いて、すべての人の命を救ってくださることを知っていたのです。

 このローマへの船旅の記事を読むとき、重ねて思い起こさせるのは、使徒言行録の前篇であるルカによる福音書8章に記されている、イエスさまが嵐を静められたというお話しです。イエスさまが弟子たちと一緒に舟に乗り、ガリラヤ湖を渡ろうとされた。その時も、突風が吹き、舟は水をかぶり危うく沈みそうになりました。あわてふためく弟子たちは、眠っておられたイエスさまを起こし、助けを求めます。そして、イエスさまが風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になったというお話しです。イエスさまは、風や波をも従わせることがおできになる。そのようなイエスさまの奇跡を記したルカが、今日の御言葉では、大変現実的に、破船からの救いを描いているのですね。これは、とても興味深いことだと思います。ルカ福音書8章のガリラヤ湖の嵐からの救いと、使徒言行録27章の地中海の嵐からの救いとでは、どのような違いがあるのか。すぐに気がつくことは、ガリラヤ湖の嵐においては、目に見えるかたちでイエスさまが共におられたということでありますね。「神、我らと共にいます」というインマヌエルの祝福が、イエスさまにおいて弟子たちのうえに実現していたわけです。イエスさまは、神の御子であられますから、イエスさまにおいて、今からおよそ2000年前、神が人と共に住みたもうという天国は、この地上に到来したと言えるのです。神の御子が人としてお生まれになられたということは、そういうことであります。神の御子であるイエスさまがこの地上を歩まれたとき、病が癒され、足の不自由な者が歩き、目の見えない者が見えるようになり、死人さえもよみがえるという救いが実現いたしました。また、風や波からの救いが実現いたしました。恐れを抱くことのない天国の光景が立ち現れたのです。イエスさまは、風や波をお叱りになり、弟子たちを沈没から救ってくださったのです。

 それに対して、使徒言行録27章では、イエスさまは目に見える形では一緒におられません。復活されたイエスさまは、天に昇り、父なる神の右に座しておられます。そして、そこから聖霊を遣わしてくださり、その聖霊において、イエスさまは弟子であるパウロたちと共にいてくださるのです。イエスさまがこの地上を弟子たちと共に歩まれた時代と、天にあげられたイエスさまが聖霊において、共に歩んでくださる時代においては、救いのもたらし方、もたらされ方が違うわけです。イエスさまが地上を歩まれたとき、人々はイエスさまから直接救っていただきました。イエスさまが「黙れ、静まれ」と言われれば風は止み、荒波も静まったのです。けれども、イエスさまが聖霊において共におられる時代、つまり今の時代においては、イエスさまは、さまざまな人や事柄を通して救いをもたらされるのです。今朝の御言葉で言えば、一緒に航海しているすべての者の救いは、パウロを通して、また船員たちを通して、実現されていくのです。神さまは、キリスト者でない人々をも用いて、救いを実現してくださるお方なのです。まさに、神さまは万事を働かせて益としてくださるお方なのです。

 ともかく、パウロの言葉を聞いた兵士たちは、船員たちが逃げ出さないように、綱を断ち切って、小舟を流れるに任せたのでありました。

 アドリア海を漂流していた14日間、一同は食事を取っておりませんでした。彼らは不安のために、何も食べる気力が起きなかったのです。けれども、パウロは、「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。」と語るのです。これは、船が陸地に近づいているとの情報を得てのパウロの判断でありましょう。パウロは、22節で「船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」と語っておりましたから、破船したとき、海を泳いで陸地に向かうことも考えていたのかも知れません。それゆえ、食事をとり、体力をつけることが必要であると考えたのです。そして、「あなたがたの髪の毛一本もなくなることはありません」という旧約聖書の格言を用いて、彼らが確かに神さまの守りうちにあることを保証するのです。

 パウロは、一同の前でパンを取り、神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めました。このパウロの仕草は、イエスさまが制定された主の晩餐を思い起こさせるものであります。もちろん、この船に乗っている者たちは、パウロとルカとアリスタルコを除いて、キリスト者ではなかったと思われますから、ここでパウロが、聖餐式を行ったとは言えないかも知れません。けれども、ここで聖餐式を思い起こすことは、正しいことであります。なぜなら、この船には、主の御名によって集まる、二人または三人がいたからであります。主イエスを信じるパウロ、ルカ、アリスタルコ、この者たちの只中に、主イエスは聖霊において豊かに臨在してくださるからです。主の御名によって、二人、または三人が集まるところ、そこがキリストの教会であるからです。

 36節に、「そこで、一同も元気づいて食事をした。」とあります。なぜ、一同は元気づいたのでしょう。それは、パウロが献げる感謝の祈りが、食事への感謝に留まらず、今不安の中にいる全ての者の命が救われることへの感謝であったからではないでしょうか。パウロは、夜が明けかけたころ、まだ陸地を見ないうちに、すべての人の命が救われることを確信して、主に感謝の祈りをささげることができたのです。ヘブライ書の11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。まさに、パウロの信仰とはそのようなものでありました。パウロは、主の天使からお告げを受けたとき、その通りになると信じました。太陽も星も見えず、激しく吹きすさぶ中で、「わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」と語ることができたのです。まさにパウロは、まだ目にしていない光景を、まるで見えるかのようにして歩んだのです。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてうださったのだ。」この神さまの約束がまずあって、その実現へと向けて、パウロは、逃げだそうとする船員を船に留まらせ、空腹であった一同に、食事を十分取るように勧めたのです。そして、その食卓の祈りの中で、すでに救われたかのように感謝の祈りをささげたのです。このパウロの姿は、聖霊の時代に生きる私たちキリスト者がどのように歩むべきかを見事に教えております。残念ながらと言いましょうか、新約聖書が完結してからは、パウロが天使からお告げを受けたというような特別啓示は止んでおります。けれども、私たちは、聖書を通して、礼拝における説教を通して、神さまの御心を知ることができるのです。神さまの御心、されは御子イエス・キリストにおいて現されました。私たちは、イエスさまの御業から、神さまの御心が、すべての人を病から解放することであり、すべての人を災害から解放することであると分かるのです。そのことを、私たちは聖霊の導きによって確信することができるのであります。そして、その確信から、今、私たちが何をすべきかを考え、行動することが求められているのです。キリストの弟子として、主体的に判断し、責任ある者として振る舞うことが私たち一人一人にも求められているのです。

 37節に、「船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった」とあります。ここで、乗船していた人数が記されているのは、唐突な気がいたしますけども、これは、パンを平等に分配するために、人数が数えられたためでありましょう。幸いこの船は大型の穀物船でありましたので、すべての人が十分に食べることができたのでありました。  

 朝になって、砂浜のある入り江に船を乗り入れることになったわけですが、ここでも船員たちの技術が用いられています。無事に事が進むかと思われたその時、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだしたのでありました。そのようなパニック状態の中で、兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計りました。これは、囚人が脱走した場合、兵士たちの責任が厳しく問われたことによります。先程は、船員たちが、自分たちのことだけを考えて、船から逃げ出そうとしたのですが、今度は兵士たちが、自分のことだけを考えて、囚人を殺してしまおうとするのです。しかし百人隊長は、パウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせたました。それはパウロが、ローマ市民であり、皇帝に上訴している未決囚であるばかりではなく、パウロがこの船の実質上のリーダー、指導者となっていたからでありましょう。兵士たちの計画を思いとどまらせた百人隊長は、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって行くように命令いたしました。この命令が、パウロの思いに沿うものであったことは明かであります。パウロの、一緒に航海するすべての人の命が救われるという確信と願いが、いつのまにか百人隊長にも共有されていたのです。

 今日の御言葉の最後に、「このようにして、全員が無事に上陸した。」とあります。船にいた276人全員が、一人も失われることなく救われたのです。ある注解者は、はっきりと「これは奇跡である」と言い切っています。嵐の海を遭難するという緊急事態において、しばしば人は自己中心的となり、争いが起こるのがものであります。このローマへの船旅においても、船員が小舟で逃げ出そうとしたこと、兵士が自分たちの責任を問われることを恐れて囚人を殺そうとしたことが記されておりました。しかし、それがパウロを通して未然に防がれ、ついにはパウロが主の天使から告げられていたように、全ての人が救われたのです。パウロの思いが、いつしかこの船にいた者すべての一致した思いとなり、互いに助け合って、すべての人が無事に上陸するという奇跡が起こったのです。そして、それはただ助かったというだけではありません。28章1節には、「この島がマルタと呼ばれていることが分かった。」とあります。マルタ島は、イタリア半島のすぐ下にあるシチリア島の更に下の小さな島であります。クレタ島のフェニクス港を目指していた船が、14日間の漂流生活を経て、イタリアのすぐ近くにあるマルタ島に上陸したのです。このことは、この船を導いておられたお方が、神さまであられることを雄弁に物語っているのです。

 さて、私たちキリスト者にとって、必ず打ち上げられる島とはいったいどこでしょうか。それは、主イエスがおられる天の国、天の港であります。この後に歌う讃美歌273番で、「わがたましいを 愛するイエスよ、波はさかまき 風ふきあれて、沈むばかりの この身を守り、あめ天のみなとに みちびきたまえ」とある通りです。イエス・キリストを信じる私たちは、かならず天の港に入ることができる。これが今日、主が説教者という天使を通して告げられる確かな約束であります。私たちは、この世の荒波にもまれ、ついには望みが失われたかのような状態におかれましても、必ず主イエスのおられる天の国へ打ち上げられるのです。そのとき、ヨハネの黙示録21章に記されている新天新地の祝福、完全な救いにあずかることができるのです。

 最後に、ヨハネの黙示録21章1節から4節までをご一緒に読んで終わりたいと思います。新約聖書の477ページです。

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海も見なくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくるのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

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