ローマへの旅 2008年5月18日(日曜 朝の礼拝)

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ローマへの旅

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 27章1節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

27:1 わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。
27:2 わたしたちは、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港した。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった。
27:3 翌日シドンに着いたが、ユリウスはパウロを親切に扱い、友人たちのところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。
27:4 そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、
27:5 キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。
27:6 ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。
27:7 幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、
27:8 ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所に着いた。
27:9 かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。
27:10 「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」
27:11 しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。
27:12 この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見により、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことになった。
27:13 ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。
27:14 しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。
27:15 船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。
27:16 やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。
27:17 小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。
27:18 しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、
27:19 三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。
27:20 幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。
27:21 人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。
27:22 しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。
27:23 わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、
27:24 こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』
27:25 ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。
27:26 わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」使徒言行録 27章1節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 カイザリアにおける2年間の監禁生活を経て、パウロはいよいよローマへの第一歩を踏み出します。パウロは、皇帝に上訴する未決囚として、ローマへ護送されるのです。パウロがローマへと船出したのは、紀元60年頃と考えられています。

 1節に、「わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき」とありますが、ローマへの船旅を記す27章1節から28章16節までは、「わたしたち」を主語として記されています。これは、いわゆる「我ら章句」と言われるもので、使徒言行録の執筆者であるルカが同行していたことを表しています。「我ら章句」が記されるのは、21章18節以来であります。21章17節、18節にこう記されておりました。「わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。」このときから今朝の27章まで「我ら章句」は出てこないのでありますけども、それでは、ルカはパウロのもとから全く離れてしまっていたのかと言えば、そうではないと思います。24章23節に、総督フェリクスが、「パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。」とありますけども、ルカは、パウロがカイザリアに監禁されている間、パウロの世話をしていた者の一人であったと考えられるのです。2節に「テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった。」とありますけども、アリスタルコも、ルカと一緒に監禁中のパウロの世話をした人物であったと思われます。このアリスタルコについては、エフェソでの騒動の記述の中で、パウロの同行者として言及されておりました。19章29節。「そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。」。また、20章4節以下には、エルサレムに向かうパウロに同行した異邦人教会の代表者のリストが記されていますが、その中にもテサロニケ教会の代表者として、アリスタルコの名が記されています。また、パウロが記したコロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙の結びの言葉の中にも、アリスタルコの名前が記されています。ここでは、フィレモンへの手紙の24節をお読みします。「わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。」。フィレモンへの手紙は、62年頃、ローマで執筆されたと考えられていますが、ここで、アリスタルコの名前とルカの名前が並んで記されていることは、使徒言行録の記述が真実であることを裏付けています。ともかく、少なくともルカとアリスタルコは、ローマへ向かうパウロに同行したのでありました。

 パウロは、他の数名の囚人と一緒に、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスに引き渡され、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港しました。どこから、出港したかは書いてありませんが、パウロが監禁されていたカイサリアから出港したと考えるのが自然であります。今朝の御言葉をより豊かに理解していただくために、参考資料を皆さんのメールボックスに入れておきました。B4のものでありますが、その左ページの下の図の真ん中あたり、小アジア半島の先のほうに「アドラミティオン」と記されています。このアドラミティオン港の船が、カイサリアに停泊しており、それにパウロたちは乗り込んだわけです。この船は、直接、ローマへ向かう船ではありませんけども、当時ローマとユダヤを結ぶ直航便はなかったようでありますね。そのことは、参考資料の左ページの上の図、「ローマ時代の陸海交通図」を見ていただくと分かります。ローマからユダヤに向かう場合、小アジアの港を経由するか。あるいは、エジプトのアレクサンドリアを経由しなければならなかったのです。ですから、百人隊長ユリウスが、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている船に乗り込んだのは、ローマへ向かうための順当な選択であったと言えるのです。3節に、「翌日シドンに着いたが、ユリウスはパウロを親切に扱い、友人たちのところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。」とあります。これは荷物の積みおろしのため、しばらく船が停泊したことを表しています。ここでの「友人」は、キリスト者のことですから、パウロは、シドンの教会を訪れ、交わりを持つことが許されたのです。このことから、ユリウスがパウロにどれほどの好意を持っていたかが分かります。おそらく、ユリウスは、総督フェストゥスから、パウロがローマ市民であること、また死刑や投獄に当たるようなことは何もしておらず、皇帝に上訴さえしていなければ釈放されたであろうことなどを聞いていたのだろうと思います。それゆえユリウスは、パウロを他の囚人とは別格と見なし、親切に扱ったと考えられるのです。

 しばらくシドンに停泊したのち、船はアジア州沿岸の港を目指して船出しました。この時の目的地は、リキア州のミラであったようです。ミラに向かうならば、通常、キプロス島の下を進む航路を取るのでありますけども(左上の図参照)、このときは、向かい風のためにキプロス島の陰を航行し、キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着きました。参考資料の右ページの上に、第二次宣教旅行と第三次宣教旅行の地図がありますけども、これはどちらも、キプロス島の下を進むルートを通っていることが分かります。けれども、今度のローマへの旅では、キプロス島と小アジア半島の間をぐるっと回る航路を取っているわけです。それは、キプロス島の島影を通り、向かい風を防ぐためであったのです。当時の貨物船、貨客船は、帆を張って、風の力だけで進むものであったのです。

 リキア州のミラに着きますと、百人隊長は、パウロたちをイタリアに行くアレクサンドリアの船に乗り込ませます。アレクサンドリアは、エジプトの都でありますが、当時、エジプトは、ローマの食料庫のような存在でありました。パウロが乗り込んだ船も、ローマ帝国国営の大きな穀物船でありました。参考資料の右のページの下にあるのが、ローマの穀物船の模型であります。このような船を思い浮かべながら、これからのお話しを聞いてくださればと思います。

 パウロたちは、イタリアへ向かう船に乗り込んだのですが、ここでも向かい風に苦しめられます。幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいたのですが、風に行く手を阻まれたので南下し、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所に着いたのでした。参考資料の左ページの上の図によると、バルカン半島とクレタ島の間を進むのが、イタリアへと向かう航路でありましたが、激しい風のため、それができず、南下し、風をさけるようにして、クレタ島の島陰を岸にそって進み、ようやく良い港に着くことができたのです。このような船旅でありましたから、かなりの時がたっており、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険でありました。断食日とは、レビ記16章に記されている贖罪日のことで、第七の月の十日に守られる苦行の日のことであります。これは、今の暦、太陽暦で言いますと、9月から10月に当たります。当時、地中海の航海は、9月に入るともう危険と見なされ、11月から3月までの冬の期間は、一切の航海が中止されておりました。それゆえ、パウロは、人々にこう忠告するのです。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大な損失をもたらすことになります。」

 このパウロの言葉は、「わたしの見るところでは」とありますように、神さまの啓示によるものというよりも、パウロの経験に基づいての言葉であります。パウロは、これまでも地中海を何度も旅行してきました。コリントの信徒への手紙二の11章に、使徒としてのパウロの労苦のリストが記されていますが、そこには、「難船したことが三度。一昼夜海上を漂ったこともありました。」と記されています。三度も難船した経験を持ち、一昼夜海上を漂ったこともある者として、パウロは、「この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大な損失をもたらすことになります。」と忠告したのです。ここで、パウロが第一に考えていることは、「わたしたち自身」のことであります。ここで「わたしたち自身」と訳されている言葉は、直訳すると「わたしたちの命」という言葉であります。パウロやルカやアリスタルコばかりではありません。この船に乗っている全ての人の命に危険と損失をもたらすことになる。それだけは避けなくてはならない、とパウロは忠告したのです。

 しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用し、また大多数の人の意見に従い、フェニクス港に行くことを決断しました。12節に、「この港は冬を越すのに適していなかった」とありますように、多くの者たちは、快適さを第一に考えて、フェニクス港に出航することを主張したのです。

 ときに、南風が静かに吹いてきたので、人々は望みどおりに事が運ぶと考え、クレタ島の岸に沿って進んで行きました。しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が島の方から吹き降ろして来たので、船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができず、流されるにまかせました。やがて、カウダという小島の陰に来たので、風を避けることができ、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができました。天候の良いときは、小舟を綱で牽引していたのでありますが、嵐となった今、小舟がぶつかって、破船してしまう恐れがあるため、小舟を引き上げる必要があったのです。また、風から守られているこの間に、船体に綱を巻き付けて強化し、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろしました。シルティスとは、参考資料の左下の図、北アフリカ沿岸の「スルテス湾」と記されているところです。ここは、流砂で、複雑な潮流になっており、いわば船の墓場のような場所でありました。そのシルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるに任せたのです。しかし、ひどい暴風雨に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨てて、少しでも船を軽くする必要があったのです。積み荷も船具も、船員たちにとって大切なものでありましたが、命にはかえることができず、それを自らの手で投げ捨てるはめになったのです。そして、幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていたのであります。当時、太陽や星は、自分たちがどの位置を航海しているかを知るための唯一の手段でありました。その太陽も星も見えない今、彼らは自分たちがどの辺りにいるのかを完全に見失ってしまったのです。

 21節に、「人々は長い間、食事をとっていなかった。」とありますが、これは不安のために食事を取ることができなかったということと同時に、皆が船酔いであったことを表していると理解できます。太陽も星も見えず、望みが断たれようとしていた今、だれも食事を取る気力もなかったし、暴風によって、激しく揺れる船のなかでは、誰も食事を取ることができなかったのです。しかし、そのようなとき、パウロは彼らの中にたってこう言うのです。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません。」

 このパウロの言葉は、フェニクス港行きを主張した者たちを責める言葉にも聞こえます。けれども、むしろパウロのねらいは、自分が今の事態を予め忠告していたことを人々に思い起こさせ、今度こそ自分の忠告を受け入れるようにさせることにありました。そして、パウロは、助かる望みが消え失せようとしていた只中で、「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はいないのです。」と励ましの言葉を語るのです。それは、パウロの経験に基づく希望的観測ではなくて、パウロが仕え、礼拝している神さまからのお告げによるものでありました。私たちは、このところから、パウロが、暴風によって、激しく揺れる船の中にあっても、主に仕え、主に礼拝をささげていたことを教えられます。それゆえ、ついに助かる望みが全く消え失せてしまったそのところで、パウロは、なお神によって望みを抱き続けることができたのです。主は天使を通して、パウロにこう告げました。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」ここで、「何々しなければならない」と訳されている言葉は、神さまのご計画、神的必然を表す「デイ」というギリシア語です。この「デイ」という言葉は、23章11節にも用いられておりました。エルサレムで囚われの身となったパウロに、主は現れてくださり、こう仰せになりました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」このエルサレムでの幻から、パウロはカイサリアで、足止めとも思われる2年間の監禁生活を送ることになりました。そしてやっと、ローマへ向けて出航したかと思えば、逆風に悩まされ、ついには難船の危機に遭遇してしまうのです。そのようなパウロが、主の御心を祈り求め続けていたことは、容易に想像することができます。そして、主はそのようなパウロに、「恐れるな。あなたは皇帝に前に立つことになっている。」と言われたのです。パウロが皇帝の前に立つこと。それは変わることのない神のご計画なのです。さらに天使は、「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」と告げました。ここで、「任せる」と訳されている言葉は、直訳すると「恵みとして与える」となります。神さまは、一緒に航海しているすべての者を、パウロに恵みとして与えられたのです。このことは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、パウロが、一緒に航海している全ての者の安全を神に祈り求めていたということです。船が沈まないようにと、船員たちは、あらゆる手を尽くしました。小舟を引き上げたり、船体に綱を巻き付けたり、海錨を降ろしたりと、さまざまなことをしました。その間、パウロは何をしていたのでしょうか。旧約聖書に出てくる預言者ヨナのように、眠りこけていたのでしょうか。そうではありません。パウロは、神を礼拝し、一緒に航海している者たちのために祈り続けていたのです。おそらく、パウロは、カイサリアを出港してから、航海を共にする全ての者たちのために祈りをささげていたのでしょう。その祈りの中から、10節のパウロの忠告も語られたと理解すべきです。しかし、多くの者は迫り来る危機を軽視し、快適さを第一に考えてしまいました。けれども、それによってパウロの祈りが止むことはありませんでした。むしろパウロは、いよいよ祈りをあつくしたと思います。そして、神は、そのパウロの祈りを聞き入れてくださり、一緒に航海しているすべての人をパウロに賜ったのです。パウロだけが救われるというのではありません。神は、パウロの祈りに応えて、すべての人の命が助かることを約束してくださったのです。そして、パウロは、自分が神を信じていること。神の告げられたことは必ずそのとおりになることを告げるのです。ここに、パウロの信仰への招きがあります。あなたもわたしの仕えている神の言葉を信じなさいという力強い招きがあるのです。

 「わたしに告げられたことは、そのとおりになる。」これに、まことに単純な神さまへの信頼を表す言葉であります。信仰とは何か。それは神さまのお言葉が、そのとおりになると信じることです。信仰とは難しいものではありません。むしろ、ここにあるのは単純な信仰、主イエスが求められた幼子のような信仰であります。幼子が、父親や母親を信じて、すべてを委ねて歩むように、いやそれ以上に、パウロは、神の告げられたことは、そのとおりになることを信じていたのです。このパウロの言葉は、人間的に見れば、最善とは言えないかも知れません。嵐が止んで、船も命も助かると言われれば、もっと良かったかもしれない。しかし、それは神のお告げではなく、私たち人間の願望です。人間の願望を、神のお告げにすり替えてはならないのです。確かなのは、私たちの願望ではなく、すべてが神さまの御手のうちにあることを認める信仰なのです。私たちの願望、それは太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶ中では何の力もありません。そのような状況に置かれれば消え去ってしまうものなのです。けれども、天と地と海とをお造りになり、すべてを治め、導いておられる神さまを父として信頼して歩むとき、私たちはどのような状況にあっても、希望を見出すことができるのです。天と地と海とをお造りになった神さまが、イエス・キリストをお与えになったほどに、私たちを愛してくださっているがゆえに、私たちは、たとえ嵐の中にあったとしても、主に仕え続けることができるのです。それは、このわたしだけの救いのに限られない、このわたしを取り巻くすべての人の救いに関わることなのです。神を信じる者が、そこにいるということ、それは本当に素晴らしいことであります。家族の中で、自分一人だけがキリスト者であったとしても、神さまはその一人を通して、その家庭に救いを与えてくださいます。わたしも、坂戸の実家に帰れば、ただ一人のキリスト者でありますけども、そのことをしみじみと感じております。家族が途方に暮れるしかないような問題に遭遇するとき、そこにイエス・キリストを信じる者がいる、まことの神に祈りをささげることのできる者がいることは、どれほど家族の励まし、救いとなることか。私たちキリスト者は、周りの人々にも主の救いをもたらす、かけがえのない存在なのです。家庭だけではありません。職場や学校に一人でもキリスト者がいることは、素晴らしいことなのです。地域社会にキリストの教会があることは、多くの人に励ましと救いを与えるのです。そのことを私たちは、心に留めて、いかなるときも神を礼拝して歩んでゆきたいと願います。

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