アグリッパ王の前で 2008年4月27日(日曜 朝の礼拝)

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アグリッパ王の前で

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 26章1節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

26:1 アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。
26:2 「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。
26:3 王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。
26:4 さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。
26:5 彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。
26:6 今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。
26:7 私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。
26:8 神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。
26:9 実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。
26:10 そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。
26:11 また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」
26:12 「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、
26:13 その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。
26:14 私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。
26:15 私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。
26:17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。
26:18 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」使徒言行録 26章1節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 今日の御言葉には、パウロがアグリッパ王の前でした弁明が記されています。前回も申しましたが、アグリッパ王は、ヘロデ・アグリッパ2世のことで、12章に出て来たヘロデ王の息子に当たります。ちなみに、イエスさまがお生まれになったときのヘロデ大王は、アグリッパ王の曾おじいさんであり、イエスさまが裁かれたときのガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、アグリッパ王の叔父に当たります。このようにアグリッパ王は、その家系からしても、キリスト教会と深い関わりを持っておりました。また、アグリッパ王は、ユダヤ北部を支配するカルキスの王であり、エルサレムの大祭司の任命権も持っておりました。アグリッパ王は、パウロが言っているように、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよく知っていたのです。そのようなアグリッパ王の前で、弁明できることは、パウロにとって文字通り幸いなことであったのです。

 パウロの回心については、第9章に記されておりますが、そこで主イエスは、パウロについてこう仰せになっておりました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」パウロは、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにイエスの名を伝える選びの器でありました。そのパウロが、今まさにアグリッパ王の前で、イエスの名を伝えようとしているのです。また、さらに遡ってルカによる福音書の21章で、イエスさまは世の終わりについて教えられる中で、こう言っておられました。「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」パウロがイエスの名のために牢に引き渡され、王や総督の前に引き出されること。それは、パウロにとって、イエスの名を証しするまたとない機会となったのです。

 さて、このパウロの弁明は、パウロが回心するダマスコ途上の出来事について語っています。使徒言行録において、パウロが回心するダマスコ途上の出来事が語られるのは、これで3度目であります。1度目は9章に、出来事の叙述として記されております。2度目は、22章に、神殿の外庭で、ユダヤ人に対しての弁明としてパウロ自身の口から語られております。そして、3度目は、今日の御言葉の26章で、アグリッパ王の前で、やはりパウロ自身の口から語られております。読んでお分かりのように、基本的な事柄は同じであります。しかし、パウロは、その語る場所と聴衆によって、強調点を変えておりますし、省いたり、より詳しく語ったりしております。

 パウロが、22章でユダヤ人に対して弁明しているとき、そこで強調されていたことは、わたしも皆さんと同じように熱心に神に仕えていたということでありました。パウロは、「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」とヘブライ語で話しかけました。また、22章では、アナニアについて言及されていましたが、そこでアナニアは、キリストの弟子としてではなく、「律法に従って生活する信仰深い人で、そこで住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人」と紹介されておりました。また、パウロが主に出会い、異邦人に遣わされるのは、エルサレム神殿においてでありました。これは、エルサレム神殿の主こそ、イエスであり、異邦人宣教はその主の御心であることを示しています。しかし、今日の26章では、書いてはありませんけども、おそらくギリシア語で弁明したものと考えられます。そして、パウロは、当時のヘレニストの演説家をまねて、手を差し伸べて弁明を始めるのです。また、アナニアには一切触れず、自分が目が見えなくなったことにも一切触れておりません。むしろ、26章のパウロの弁明の強調点は、ダマスコ途上で現れた栄光の主イエスの御言葉にあります。15節から18節に主イエスのお言葉が記されていますが、これは9章のアナニアに語られたものと、22章のエルサレム神殿で語られたものとを、まとめて記したものといます。パウロは、このように自分が体験したことを、その聴衆によって、自由に語り直しているわけです。

 それでは、パウロの言葉そのものを見ていきたいと思います。2節から11節までをお読みします。

 「アグリッパ王よ、私がユダヤ人に訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」

 ここには、教会の迫害者であった、かつてのパウロの姿が語られています。ただし、23章に記されている最高法院での取り調べのときとは違って、ファリサイ派の一員として生活していたことを過去のこととして語っています。23章では、「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」と叫んだのでありますけども、アグリッパ王の前では、過去のこととして、少し距離を置いて語っているわけです。パウロがユダヤの宗教の中でいちばん厳格な派であるファリサイ派の一員として生活していたことは、パウロを訴えているユダヤ人たちも証言できることなのです。ユダヤ人たちは、パウロのことをよく知っておりました。パウロが、祭司長から権限を受けて、ナザレのイエスを信じる者たちを迫害していたことをユダヤ人たちはよく知っていたのです。そして、ここにユダヤ人たちが、パウロに憎悪を燃やす一つの理由があるわけです。ユダヤ人にとってパウロは裏切り者であったのです。

 パウロは、6節、7節で、自分が訴えられている真の動機について述べています。総督フェストゥスは、25章の19節で、「パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとか言う者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。」と述べておりましたが、そのことが、ここではパウロ自身の口から語られています。つまり、パウロが訴えられているのは、ローマの法廷では裁きの対象とならない極めて宗教的な事柄なのです。しかし、パウロは、自分が訴えられているのは、間違った教えを説いているからではなくて、「神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。」と語っています。夜も昼も熱心に神に仕え、その約束が実現されることを望んでいる十二部族ならば、当然パウロの言葉に耳を傾け、信じても良いはずなのでありますけども、しかし、その希望を抱いているために、パウロは自分がユダヤ人から訴えられているというのです。また、パウロは、「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。」と述べることによって、復活を信じない者をユダヤ人だけではなく、あなたがた、アグリッパ王をはじめとするおもだった人々へと広げております。ここで、聴衆も、神が死者を復活させてくださったという厳然たる事実の前に立たされることになるわけです。もちろん、パウロは、漠然と死者の復活について語っているのではありません。続く9節に、「実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。」とありますように、8節の死者は、他でもないイエスのことであります。そして、この8節から振り返って、6節、7節を読むとき、6節の「神が私たちの先祖にお与えになった約束」が「死者の復活」であり、パウロが抱いている希望も「死者の復活」であることが分かるのです。死者の復活、それは言い換えれば、神と共に生きる永遠の命のことであります。その永遠の命を望みとしていたユダヤ人たちが、なぜイエスの復活を信じないのか。また、かつてのパウロ自身も、なぜナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えたのか。パウロは、「あのナザレの人イエス」と言っています。「あの」とはどのような意味なのでしょうか。それは、十字架につけられたナザレの人イエスということであります。十字架の死、それはユダヤ人にとって、木にかけられた呪いの死を意味しておりました。そのような者を、神がよみがえらせなどと、ユダヤ人たちは信じることができなかったのです。また、イエスを罪に定め、十字架の刑に引き渡したのは、他でもないユダヤの最高法院でありました。最高法院は、神の名によって、神の権威によって、イエスを死に定めたのです。しかし、イエスの弟子たちは、その最高法院の判決を覆すかのように、神はイエスを復活させ、メシアとなされたと教え始めたのでありました。そのようなことを、ユダヤ人たちも、またかつてのパウロも信じ受け入れることはできなかったのです。それゆえ、パウロは、祭司長たちから権限を受け、神の名によって、この者たちを滅ぼそうとしたのです。そして、そのパウロの手は、外国の町、ダマスコにも及ぶのであります。

 12節から18節までをお読みいたします。

 「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽よりも明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きあがれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」

 ここには、迫害者であったパウロがイエスの証人となる、回心をもたらした決定的な出来事が記されています。それは、栄光の主イエスがパウロに現れ、声をかけてくださったことでありました。パウロは太陽より明るい光に照らされ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」とヘブライ語で語りかける言葉を聞いたのです。この「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」という言葉は、26章だけに記されている主イエスの御言葉であります。とげの付いた棒とは、軛を負った牛を、農夫が自分の思っている方向へ歩かせるために用いた道具であると言われています。右や左に曲がろうとする牛をまっすぐ歩かせるために、農夫はとげの付いた棒を用いたのです。しかし、時々強情な牛もおりまして、とげの付いた棒を蹴ったのでありました。しかし、それは牛にとって、ひどい目に遭うだけであったわけです。その牛のように、「わたしに逆らうことは、傷を負うだけである」と主イエスは仰せになったのです。これは、第一義的にはパウロに対する主イエスの御言葉でありますけども、パウロがそれをここで持ち出したのは、アグリッパ王をはじめとするおもだった人々にも、警告として聞いてもらいたいと思ったからでありましょう。パウロは、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねます。パウロは、太陽より明るい光の中におられる方が、主であることは分かりましたけども、それが誰であるかを問うたのです。なぜなら、パウロは、自分が神に熱心に仕えているとは思っても、迫害しているとは夢にも思っていなかったからであります。すると、主は言われました。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」ここで、パウロは自分がまみえている栄光の主が、あのナザレの人イエスであることを知らされたのです。パウロは、十字架の死から復活し、天へと上げられたイエスに、このときまみえたのであります。パウロにとって、イエスが復活し、メシアとなられたというこの福音は、ダマスコ途上において栄光の主イエスにまみえるという体験によって明らかに示されたのです。そして、それはパウロがイエスを信じるためだけではなく、信じて、イエスの復活の証人となるためでありました。先程、使徒言行録には、三度もダマスコ途上の出来事が記されていると申しましたけども、それはパウロが復活の証人として召されたからなのです。この所を読んでお分かりのように、パウロの回心の物語は、同時にパウロが復活の証人として召された、召命の物語でもあります。ここで、語られているイエスさまの御言葉は、旧約聖書の預言者たちが召されたときの言葉と同じ言葉がいくつも使われています。旧約の預言者であるエゼキエルや、エレミヤ、さらにはイザヤ書が預言している主のしもべを召し出すときの言葉がここに反映しているのです。わたしはこの辺にもパウロの預言者意識が強く表れているのではないかと思います。一つだけ見てみますと、18節に「彼らの目を開いて、闇から光に」とありますが、これはイザヤ書42章の7節を背景としていると考えられます。イザヤ書42章は、「主の僕の召命」と小見出しがつけられている所ですが、その7節にこう記されています。「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」このことから、私たちは、主の僕であるイエスさまのお働きが、パウロにおいて継続されていくことを教えられるのであります。イエスさまの主のしもべとしてのお働きは、迫害者であったパウロを通して全世界の民へと広げられていくのです。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと主イエスを信じるものは全ての罪が赦され、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるのであります。ここで、主イエスがお語りになっていること、それはパウロがガラテヤ書やローマ書で説いているところの「信仰義認」の教えであります。人が神の御前に義とされるのは、律法の行いによらず、ただイエス・キリストへの信仰によるのである。これがパウロが受け、告げ知らせた福音でありました。パウロは、この福音を、栄光の主イエスにまみえるという、天からの示しによって受けたのであります。主イエスは、パウロを奉仕者、証人として、ユダヤ人と異邦人に遣わす目的を、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせるためであると語りました。闇とはサタンの支配、光とは神の支配のことであります。ここで、主イエスが前提としていることは、ユダヤ人も異邦人も目が開かれておらず、闇の中、サタンの支配の中に捕らわれているということであります。もちろん、ここでの目は肉体としての目、視力ということではなくて、霊的な洞察力、霊的な視力のことであります。霊的な目が閉ざされているがゆえに、イエスが復活したということを信じ、受け入れることができないのです。このことを、パウロは、コリントの信徒への手紙二の4章1節から15節に記しております。少し長いですがお読みいたします。新約聖書329ページです。

 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになるためです。

 ここで、パウロは、主イエスの霊、聖霊のお働きについて語っています。特に注目したいのは、6節であります。「『闇から光が輝き出よ」命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」パウロは、ダマスコ途上において、神の光に照らされ、栄光の主イエスのまみえることによって、目が開かれ、闇から光へと移されました。けれども、それはパウロに起こった復活の証人としての特別な出来事でありまして、イエス・キリストを信じている者が、そのような特別な体験をするわけではありません。それでは、どのように、私たちは目が開かれ、闇から光へと移されたのかと言いますと、それは復活の主の聖霊のお働きによるものであるとパウロは語るのです。語られる福音と共に聖霊が働いてくださることによって、私たちにも、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光が与えられたのであります。私たちは、栄光の主イエスに直接まみえたわけではありませんけども、今も生きておられる主イエスの聖霊をいただくことによって、イエスが復活し、神の右に座しておられることが分かるのです。

 また、もう一つ注目したいのは、13節、14節であります。「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語っています。主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」ここには、聖霊が信仰の霊であることが記されています。そして、その信仰は、イエスが復活したということに留まらず、イエスと共に私たちも復活し、御前に正しい者として立つことができることにまで及ぶのです。今日の御言葉で、主イエスは、「こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」と語っておりましたけども、その聖なる者とされた人々の最初の人は、他でもない主イエス御自身であるのです。主イエス御自身が、死者の中から最初に復活して、ユダヤ人をも異邦人をも照らす光となられたのであります。復活された主イエスは、闇の支配に生きていた私たちの光となってくださったのです。

 先程、パウロの回心は、同時に復活の証人としての召しであったと申し上げました。また、第二コリント書の中にも、「わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」と記されておりました。信じる者となるということ、それは同時に宣べ伝える者となるということであります。そして、それはパウロだけではない。すべてのキリスト者に言えることなのです。牧師だけではなくて、全ての信徒に言えることなのであります。今日の御言葉と大変似ている御言葉が、ペトロの手紙一の2章に記されております。最後にそのところを読んで終わりたいと思います。ペトロの手紙一の2章9節、10節をお読みします。新約聖書の430ページです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。

 なぜ、私たちがこの日本で、イエス・キリストを信じ、神の民とされているのか。それは私たちを暗闇の中から驚くべき光の中へと招いてくださったイエス・キリストを広く伝えるためなのであります。そのことを覚えて、新しい一週間もそれぞれの生活の場へと遣わされてゆきたいと願います。

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