与える幸いに生きる 2008年2月03日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

与える幸いに生きる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 20章28節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。
20:29 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。
20:30 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。
20:31 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
20:32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
20:33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
20:34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
20:35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
20:36 このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
20:37 人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
20:38 特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。使徒言行録 20章28節~38節

原稿のアイコンメッセージ

 今日も、ミレトスにおけるパウロの告別説教から、御言葉の恵みにあずかりたいと思っています。パウロは、ミレトスにエフェソの長老たちを呼び集めまして、別れの言葉を述べました。それは、エルサレムでの死を覚悟した遺言とも呼べる言葉であります。これまで、3回に渡って、このパウロの言葉を学んで参りましたが、今日でこのところからお話しするのは最後にしたいと思っております。今日は、28節からお話ししたいと思います。

 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。

 この28節については、前回詳しく学びましたので、29節以降との関わりの中で今日はお話ししたいと思います。パウロは、エフェソの長老たちに、「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。」と語りました。まず気を配るべきは「あなたがた自身」であると言うのです。なぜ、このようにパウロは言うのでしょうか。それは30節にあるように、「あなたがた自身の中からも邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れ」るからです。ここで、「邪説を唱えて」と訳されている言葉を、新改訳聖書は、「いろいろな曲がったことを語って」と訳しています。パウロは、27節で、「わたしは、神のご計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えた」と語りましたけども、そのパウロから聞いた神のご計画を歪めて教える者が出てくると言うのです。パウロが告げ知らせたキリストの福音を曲げて語る者が、あなたがたの中から出て来ると言うのであります。そして、その目的は、弟子たちを自分に従わせようとすることにあるのです。キリストの弟子を自分の弟子にしてしまうということであります。このことをパウロは、一つの脅威と見なしています。神の教会を世話をさせるために、牧師、長老は立てられているのでありますけども、その牧師、長老が神の教会を損ない、群れを散らしてしまうということが起こるのです。わたしの手許に、『牧会事例研究報告 -教会紛争の未然防止のために-』という冊子があります。これは、少し古いのですが、1988年に東部中会連合長老会が調査をし、まとめあげたものです。その中で、教会紛争の最たる原因にあげられているのは、「牧師と長老の衝突」です。牧師と長老の衝突が、小会だけにとどまらず、教会全体に広がり、会員の中で、牧師につくか、それとも長老につくかといった教会紛争へと発展してしまうのです。そのような結果、牧師が教会を去ったり、あるいは長老が教会を去ったり、さらには会員が教会を去ったりすることが生じ、教会形成どころか、教会が崩れてしまうということが起こるのです。私たちの教会では、幸いそのような状況を経験したことはないかも知れませんけども、このパウロの言葉は、牧師、長老が、肝に銘じておくべき警告であります。特に、牧師は、礼拝において御言葉を語るわけですから、福音を曲げてしまわないように気を付けなければならない。また、聞く者が、自分ではなくて、キリストに従う者となる説教をしなくてはなりません。また、長老は、講壇からではなくても、福音を曲げて語り、教会員を自分に従うように仕向けてはならないのです。しかし、そもそもなぜ、このようなことが起こるのか。牧師と長老が衝突し、教会員さえ巻き込んで、教会紛争とまで言われる事態がなぜ起こるのか。さまざまな要因があると思いますけども、その最たるものは、牧師や長老が、自分も主イエスの羊であることを忘れてしまうことにあると思います。28節に、「この群れ」という言葉があります。これは、主の羊の群れということです。私たちは礼拝の初めに、招きの言葉として詩編第100編の御言葉を聞きますけども、そこで「わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ」という言葉を聞きます。主に養われる羊の群れ、それが「この群れ」という言葉が言い表しているものです。神の羊の群れの監督者として、牧師、長老は任命されました。監督者とは、見張り人のことです。羊の群れを見張る者、それが監督者であります。そう言われると、この見張り人は、羊ではなくて、人間のはずだと思う。厳密にその場面を想像してみたらそう思うでしょう。しかし、ここで忘れてはならないことは、その見張り人も主イエスの羊であるということです。そして、その見張り人に求められるのは、他の羊にまさって主イエスの御声を聞き分ける耳を持つということです。牧師、長老は、教会員にまさって、主イエスの御声に聞き従うものでなければならないということです。わたしも牧師でありまして、御言葉の教師であります。教師というものは教える者です。けれども、わたしがいつも心に留めておりますことは、皆さんに先立って、教師は学ぶものでなければならないということです。説教者は、皆さんに先立って、聖書から主イエスの御声を聞き取る者でなければならないということです。それは、わたしも主イエスの羊であるからです。長老も同じことであります。長老も主イエスの羊です。しかし、そのことは、自分に委ねられた務めを軽んじるということではありません。むしろ、自分が主イエスの羊であることを誰よりもわきまえながら、主イエスに倣って神の教会の世話をするのです。主イエスが、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」と仰せになったように、牧師、長老には、群れのためにすべてのものを犠牲にする覚悟が求められるのです。ここで「世話をする」と訳されている言葉を、新改訳聖書は「牧させる」と訳しています。神の羊たちを牧師や長老たちはどのように牧するのか。それは、キリストの福音という霊的な糧によってであります。牧師は、心を注いでキリストの福音を語り、長老たちはその説教の結ぶ実を見守るのです。もし、牧師がキリストの福音を歪めて語るならば、長老は、群れの監督者として牧師を訓戒する責務を負っているのです。改革派教会において、長老たちが最前列の席に座ることが一つの伝統となっています。それは、講壇からキリストの福音がしっかりと語られているかどうかを見張るためであるのです。また、もう一つ言わせてもらえば、長老が最前列に座るのは、説教を聞く者としてのあるべき姿を、聴衆に示すためであります。御言葉に熱心に耳を傾ける長老たちの後ろ姿を通して、教会員も、神の言葉を聞くのにふさわしい姿勢へと整えられるのです。ともかく、講壇の責任は、長老の会議である小会にあります。ですから、講壇交換や、外から説教者を招く場合でも、小会において決議するのです。それは、神の教会の世話をする、牧するという務めと密接に結びついているのです。

 29節で、パウロは「わたしが去ったのち後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。」と語りました。神の羊の群れを荒らす者が、残忍な狼どもと言われています。もちろん、これもたとえでありまして、この狼どもは、邪説を唱えて弟子たちを自分に従わせようとする者たち、いわゆる偽教師たちのことであります。福音を曲げて、教会をかき乱すものが外から入ってくる。もちろん、彼らははじめから貪欲な狼の顔をして入ってくるのではありません。彼らは羊の皮を身にまとって入ってくるのです。しかし、その者が、福音を曲げ、弟子たちを自分に従わせようとするとき、その本性が分かる。その人が主イエスの羊ではなくて、残忍な狼であることが分かるのです。それゆえ、パウロは、「群れ全体とに気を配ってください」というのです。ここで、パウロが語っているのは、外からも内からも、教会をかき乱す者たちが起こるという、いわば内憂外患の状態であります。そのような危険に教会はどのように立ち向かえばよいのか。それが、31節に述べられています。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」

 外からは残忍な狼が入り込んでくる。また、内からも邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が出てくる。そのようなとき、教会はどうすればよいのか。パウロは、わたしが教えてきたことを思い起こし、目を覚ましていなさいと言うのです。キリストの福音を曲げようとする者が起こるならば、それに負けずに、パウロが告げたキリストの福音にとどまり続けなさい。そのようにして、主イエスの羊として目を覚ましていなさいと言うのです。

 32節は、エフェソの長老たちへの最後の言葉と言えます。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」

 ここに記されているのは、神の御言葉に対する全幅の信頼であります。パウロは、神の恵みの言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができると断言しました。神の恵みの言葉である福音は、何より教会を立て上げるものなのです。そればかりか、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。そのような御言葉への信頼、それゆえに、パウロは安心して、エルサレムへと向かうことができるのです。また、ここでは、「神と、その恵みの言葉とに」と記されています。自分が去っても、神さまがあなたがたと共におられるということです。あなたがたを長老として任命された聖霊なる神に、あなたがたをゆだねるということです。長老たちだけではありません。エフェソの信徒たちをゆだねるということです。ここでも、パウロは教会の真の牧者が誰であるかをちゃんとわきまえています。キリストの教会を造り上げるのは、キリストの聖霊であり、キリストの福音であるということです。そこにしか、キリストの教会は立ち続けることができないということであります。

 パウロは、三年間あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こしてほしいと言いましたけども、33節以下では、パウロがエフェソでどのように生活してきたかが語られています。パウロは、自分が使徒であることを利用して、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありませんでした。むしろ、パウロは、「わたしはこの手で、自分自身のためにも、共にいた人々のためにも働いた」と言うのです。そこには2つの目的がありました。一つは、「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように」と模範を示すためであります。弱い者とは、おそらく病気などで働くことができない者たちのことと考えられます。パウロは、自分のためだけではなく、弱い者たちのためにも働いた。わたしは、あなたたちも、そのようにすべきであることを身をもって示してきたと言うのです。そして、もう一つは、「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すように」するためでありました。この「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉は、主イエスの言葉と言われておりますけども、福音書には記されておりません。使徒言行録を書いたルカは、第一巻として福音書を記したにもかかわらず、この主イエスの御言葉を、ここで初めて記すのです。なぜでしょうか。それは、この主イエスの御言葉が、教会を造り上げる御言葉の最たるものであるからです。「受けるよりは与える方が幸いである。」この幸いに生きなければ、主イエスの教会は立たないということであります。この主イエスのお言葉は、もとの言葉でいうと「幸いである」という祝福の言葉から始まります。「幸いなるかな、受けるよりも与える者たち」となるのです。こう聞くと、おそらく多くの方が思い起こされるのは、マタイによる福音書の第5章に記されている山上の説教の冒頭の言葉であります。そこで、主イエスは、「心の貧しい人々は幸いである」と仰せになりました。これも元の言葉の順序で言いますと、「幸いなるかな、心の貧しい人々」となるのです。ともかく、この主イエスのお言葉は、神の祝福を告げる言葉です。そして、この言葉のもっともよい解説は、ルカによる福音書12章33節、34節の御言葉であると思います。そこでイエスさまは、こう仰せになりました。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」この主イエスのお言葉を重ねて読むときに、「受けるよりも与える方が幸いである」と言われる理由がよく分かるのではないかと思います。与える者が幸いと言われるのは、弱い者の保護者である主が祝福をもって報いてくださるからです。弱い者への施しを天に積まれた富と主が見なしてくださるからです。その主の報いに期待して与える人を、主イエスは幸いだと言われるのです。パウロは、その幸いにあなたがたも生きてもらいたいと身をもって示してきたのです。ある人は、この頃、私たちが手にしているような聖書はまだ存在していなかった。パウロの時代、まだ新約聖書はなかった。それゆえ、パウロは、主イエスの教えを身をもって示さなければならなかったのだと言っております。確かに、パウロは、その書簡の中で、わたしが主イエスに倣うように、あなたがたもわたしに倣う者であって欲しいと何度も述べています。パウロによって、主イエスの教えは、生きた教えてとして体現されたのです。わたしは、与える幸いに生きた。あなたたちもどうぞ、この与える幸いに生きてもらいたいと全存在をもって語るのです。けれども、この幸いは、私たちの生まれながらの考え方によれば、必ずしも幸いとは呼べないものと言えます。それゆえ、私たちは、自分が与えるよりも、受けることばかりを追い求めてしまうのです。また、与える方が幸いだと聞けば、それは与えるものがあるからだと理屈をこねるのです。自分だってもっと収入があれば、与えることができる。自分だってもっと時間があれば、人助けができる。そう言いたくなるのです。けれども、やはりそれは言い訳であります。なぜなら、パウロは、自分が豊かであったから与えたとは言っていないのです。パウロは、弱い者に与えるために、自分の手で働いたのです。おそらく、この言葉のもう一つのよい解説は、ルカによる福音書21章に記されている。レプトン銅貨2枚をささげた貧しいやもめのお話しであります。イエスさまが、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を献げたのを見て、イエスさまはこう言われたのです。「この貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」ここに、受けるよりも与える幸いに生きた一人の婦人の姿を見ることができます。お金が沢山あって、そこではじめて与える幸いに生きることができるのではないのです。乏しい中からでも、それをささげるとき、私たちは与える幸いに生きることができるのです。自分のことで、精一杯だと思っているときに、他者のために心を配る。そのとき、私たちは与える幸いに生きていると言えるのです。そして、繰り返しになりますけども、教会の営みは、この与える幸いによって成り立っているのです。長老、執事をはじめ、多くの兄弟姉妹が、この教会の維持・活動のためにささげものをし、奉仕をしてくださっています。そこで、もし受ける方が幸いだと考えるならば、ささげものをし、奉仕するということもばかばかしくてできないと思うのです。なぜ、教会のためにささげものをし、奉仕をするのか。また、兄弟姉妹のために、とりなしの祈りをし、心を痛め、労苦するのか。それは私たちが、すでに与える幸いに生かされているからです。「与える幸いに生きよう」と意気込んだことがなくとも、教会の交わりに生き始めることによって、私たちは知らず知らずのうちに、与える幸いに生かされているのです。それは、教会が、そのように仰せになられたキリストの霊と御言葉によって、造り上げられているからです。

 イエスさまは、生活費の全部を献げたやもめの献金を喜んでくださいました。それは、なぜかと言えば、そこに自分自身の姿を見い出しておられたからです。自分の生活費どころか。自分の命をも献げてしまわれる御自身のお姿を、このやもめの献げ物の中に見て取られたからであります。「受けるよりは与える方が幸いである。」と言われた主イエス御自身が、誰よりも、その幸いに生きられたのです。いや、今も生きておられるのです。イエスさまは、マルコによる福音書10章45節で、こう仰せになりました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」ここで、「献げる」と訳されている言葉は、「与える」という言葉です。イエスさまは、仕えられるためではなく、仕えるために、受けるためではなく、与えるために来てくださいました。それゆえ、弟子たちに「あながたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と言われるのです。パウロに先んじて、イエスさま御自身が、与える幸いに生きられたのです。神さまの御心に従って、命さえも与えられたとき、イエスさまにどのような祝福が待っていたか。神さまは、イエスさまを死者の中からよみがえらせ、もろもろの天よりも高く上げ、すべての名に勝る名をお与えになったのでありました。それゆえ、イエスさまだけが「受けるよりも与える方が幸いである」と責任をもって言い切ることができるのです。パウロも、その与える幸いに生きた。それゆえ、「この命すら決して惜しいとは思いません」と言い切ることができたのです。私たちも、与える幸いに生きたいと思う。教会に仕えることを通して、兄弟姉妹に仕えることを通して、いよいよ与える幸いに生きたいと願う。私たちのために、命を与えてくださった主イエスを見つめながら、私たちも与える幸いに生き続けたいと願うのであります。

関連する説教を探す関連する説教を探す