神の教会の世話をさせるために 2008年1月27日(日曜 朝の礼拝)

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神の教会の世話をさせるために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 20章25節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:25 そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。
20:26 だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。
20:27 わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。
20:28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。

使徒言行録 20章25節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは、今日の午後に会員総会を持ちます。そこでは、任期満了に伴っての長老と執事の信任投票を行います。私たちの教会では、任期を2年と定めて、2年ごとに、信任投票を行っています。これは、私たちの教会の憲法である教会規定に基づいてのことであります。政治規準の第160条にこう記されています。「各個教会は治会長老と執事の任期を定める。その任期は二年を下ってはならない。」ここに、治会長老と執事の任期を定めること。そしてその任期は2年を下ってはならない。つまり、2年より短くてはならないとあります。いわば、2年以上ですから、3年でも4年でもよいのですが、私たちの教会は、この任期を2年と定めているのです。また、続けて、政治規準の第160条にこう記されています。「任期満了ごとに会員総会において投票を行い、有効投票総数の過半数を得た者を当選者とする。この場合は就職式を必要としない。」任期が満了したらどうするか。会員総会で信任投票を行い、過半数を得た者を当選者とするというのです。しかしそれは同時に、もし過半数を得ることができなければ、その人は長老、執事の務めを続けることができないということです。休職長老、休職執事となるということであります。これは、考えてみますと大変厳しいことです。あまり考えられないことでありますけども、信任投票において過半数を得られなかったということは、会員からその人が長老として、あるいは執事として十分な働きをしてこなかったと判断されたということです。しかし、逆に過半数以上の信任を得られたならば、その人は長老として、あるいは執事としてふさわしい働きをしてきたと判断されたということなのです。そして、それは人間だけの判断にとどまらない。私たちは、そこに神の判断、神のご意志を見る。なぜなら、イエスを主と告白する私たち一人一人には、聖霊が宿ってくださっているからであります。使徒言行録の15章に、エルサレム会議のことが記されておりましたけども、ヤコブは、その会議の決議について、「聖霊とわたしたちは決めました」と言いました。聖霊降臨以後、教会における会議は、聖霊と私たちは決めましたと言える、そのような会議となったのです。もちろん、そこには、聖書の教えに従って、議論がなされ、決議がなされるという前提があってのことです。ですから、長老、執事の信任投票においても、ちゃんとそれが神のご意志に適うかどうかを吟味して、投票していただくということが求められます。そうすると、聖書は長老の資格についてどのように教えているのか。また、執事の資格についてどのように教えているのかを聖書からはっきりと聞き取らねばならないわけです。聖書には、テモテへの手紙一、テモテへの手紙二、テトスへの手紙があります。この3つは、牧会書簡と呼ばれるもので、教会をどのように営んでいったらよいかを教えています。そのテモテへの手紙一の3章に、「監督の資格」「奉仕者の資格」が記されています。監督とは、今で言う、牧師、長老のことであります。その牧師、長老の資格として、聖書はこう教えているのです。新約聖書の386ページ。テモテへの手紙一の3章1節の途中からお読みします。

 「監督の職を求めている人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。

 また、奉仕者、執事の資格については、次のように述べられています。

 同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に秘められた真理をもっている人でなければなりません。この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。

 長老の資格についても、また執事の資格についても、これを完全に満たしている人だけを信任するということであれば、おそらく誰も信任されないのではないかと思います。しかしそれは、現在の長老、執事がまったくこの資格を満たしていないということではもちろんありません。私は、長老、執事の方々は、この資格を完全とは言わなくとも、かなり満たしておられると思います。これは、もちろん、わたし個人の判断でありますから、皆さんにはそれぞれ違う思いがあるかもしれません。そして、それはそれで、よいことなのです。それぞれの思いを信任投票において表していただければよいのです。実際の信任投票とは、配られた投票用紙の空欄に、○か×をつけることです。しかし、そこで、何を基準にして、○をつけ、あるいは×をつけるのかと言えば、このテモテへの手紙一の3章が教える、「監督の資格」「奉仕者の資格」が基準となるのです。そのことを覚えて、今日の会員総会に臨んでいただきたい。そして、会員総会の議員はすべての現住陪餐会員でありますから、できるだけ多くの方に出席していただきたいと願っているのです。

 さて、それでは、使徒言行録に戻りまして、今日の御言葉に耳を傾けたいと思います。今日は25節から28節までをご一緒に学びたいと思っております。  

 25節で、パウロは、エフェソの長老たちに、「あなたがたは皆もう2度とわたしの顔を見ることがない」と語っています。これは、前の24節、「この命すら決して惜しいとは思いません。」という言葉とのつながりからいうと、このとき、パウロは死を覚悟していたと言えます。まさに、パウロはここでエフェソの長老たちに遺言を語っていると言えるのです。自分の死を見据えながら、これまでのエフェソでの働きの総括がここで語られているのです。それが「だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは神の御計画をすべてひるむことなくあなたがたに伝えたからです。」という言葉なのです。「誰の血についても責任がない」この言葉は、18章にも記されておりました。パウロがコリントで、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。」と言ったのです。この18章を学んだときにも申しましたけども、このパウロの言葉の背後には、エゼキエル書33章に記されている「見張りの務め」の教えがあります。そこで、主なる神は、預言者エゼキエルに、あなたが悪人に警告を与えないならば、その悪人は自分の罪のゆえに死んでも、その血の責任をあなたの手に求めると言われました。エゼキエル書の33章7節から9節にはこう記されております。

 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。

 パウロは、エフェソにおいて、この見張りの務めを果たしてきた。それゆえ、わたしは、誰の血についても責任はないと言うのです。エフェソに住むすべての人が、キリストの福音を聞くことができずに滅びることはない。なぜなら、わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えてきた。また、神の御計画をすべてひるむことなくあながたがに伝えてきたからだと言うのです。ここに、伝道者とはどのような存在を言うのかがはっきりと示されています。伝道者、これは漢字で書くと、道を伝える者となります。道とは、聖書において、父なる神のもとへと至る唯一の道、イエス・キリストのことです。伝道者とは、イエス・キリストを伝える者である。そこに、何より伝道者の使命があるのです。聞いた者が、信じるか信じないかに左右されることなく、イエス・キリストを告げ知らせる者、イエス・キリストにおいて実現した神の国、神の御支配を宣べ伝える者、それが伝道者であります。そして、それはパウロだけではない、私たち一人一人に与えられている使命でもあるのです。もし、信じてくれそうだから、福音を語るのであれば、いつまでも語ることができないかも知れません。そのような意味で、福音宣教は人を選ばない。人の顔を見て、この人は、信じてくれそうだとか、この人はとうてい信じないだろうなどと言ってはいられないのです。神は、もしあなたたちが警告を発せずに、つまり福音を語らずに、その人が滅びるならば、わたしはその血の責任をあなたたちに問うと言われるのです。その意味で、わたしたちは、この町の、また自分と関わりのあるすべての人の血に責任を負っているとも言えるのです。もちろん、私たちが福音を語るとき、どうか信じてもらいたいと祈りつつ語ります。そして、語った後も、その人のためにとりなしの祈りをささげ続けるのです。けれども、やはり語らないことには始まらない。聖書に、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と書いてあるように、キリストの言葉を語ることから伝道は始まるのです。そして、その語るべき言葉を、私たちは礼拝を通して学んでいると言えるのです。「だれの血についてもわたしには責任がない」この言葉は、わたしも一人の伝道者として、あこがれを持つ言葉であります。パウロは、エフェソに3年間滞在して、「だれの血についてもわたしには責任がない」と言うことができました。私は、この羽生栄光教会に赴任して、今5年目を迎えております。パウロがエフェソに滞在したよりも、わたしが羽生に滞在している年月の方が長いのです。けれども、自分が今、この町に住んでいる人々に対して、「だれの血についてもわたしには責任がない」と言えるかというと、とうてい言うことはできないと思わされるのです。わたし個人のことだけではありません。この羽生栄光教会が、伝道を開始して、28年目を迎えておりますけども、その教会の営みを振り返ってみても、やはり、「だれの血についても私たちには責任がありません」と語ることができないのではないかと思わされるのです。もちろん、これまで多くの先生方が、全身全霊で、ご奉仕してくださいましたけども、それでも、神さまの御前に、「だれの血についても私たちには責任がありません。」とは言えないのではないかと思うのです。今年の年間テーマは「福音を伝えよう」でありますけども、それは言い換えるならば、私たちが「誰の血についても責任がない」と言えるようになるということです。そのように言えるまでに、キリストの福音を伝えていくということであります。そのとき、私たちの祈りはことさら、熱心なものへと変えられていくと思います。「私たちは福音を伝えた。だから、あとは、あなたたちの責任です。わたしにはもう関係がありません。」ということではなくて、福音を伝えたからこそ、祈ることができるのです。今年の年間テーマに合わせて、2ヶ月に1度、特別伝道礼拝を計画しています。そのためのチラシも受付においててあります。わたしは、このチラシも配ればこそ、いよいよ熱心にお祈りができると思うのです。神さまに、新しい人を教会に加えてくださいと祈る。そう祈り続けるならば、そのチラシを渡したり、配らずにはおれなくなると思うのです。そうでなければ、そのお祈りはお祈りとは言えないのではないかとさえ、思うのです。自分は何もしないけども、神さまがそのようにしてくださいと祈るならば、それは神に対する祈りではなくて、僕か何かに対する指図になってしまっているのではないか。自分たちが、わずかながらできることをして、それを神さまが豊かに用いてくださいと祈るのでなければ、それは神さまに対して誠実な祈りとは言えないのではないかと思うのです。もちろん、さまざまな理由で実際配ることはできない方もおられるでしょう。だから、自分はいっそう熱心にお祈りするという方もおられると思います。ともかく、私たちは、個人ではなく、教会として伝道に励んでいきたいと思うのです。主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力づよく証しするという奉仕に、教会として取り組んで参りたいと願うのであります。

 パウロが、ここで語っている相手、それはエフェソの長老たちであります。そして、28節にはそれにふさわしいパウロの言葉が語られています。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」

 ここに、長老の務めが明確に語られております。何より、長老とは、群れの監督者として聖霊が任命なさったものです。この説教のはじめに、長老と執事の信任投票についてお話しましたけども、会員総会の投票において、明らかとされるのは、この聖霊のご意志であります。会員は自分たちの投票によって聖霊のご意志が表されることをわきまえなくてはならない。また、長老や執事も、その結果を聖霊のご意志としてしっかりと受け止めなくてはならないのです。そうでなければ、この信任投票は、形式主義に落ちてしまうことになります。この信任投票を通して、会員が、この人は自分たちの群れに神さまが備えってくださった長老であり、執事であることを確認し、また再選された長老や執事が、その投票の結果を通して主の召しを確認するということが起こらなければ、この信任投票もその意味を失うのです。聖霊は、なぜ群れに監督者、長老を立てられるのか。それは、「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるため」であります。ここで「教会」と訳されているギリシア語は、エクレーシアという言葉です。エクレーシアのもともとの意味は、「呼び出された者の群れ」という意味です。教会と聞くと、私たちは建物をすぐ思い浮かべるかもしれませんけども、ここでの教会は、ここに集う私たち一人一人であります。神によって呼び出された者の群れ、それが神の教会なのです。神さまは、私たちを神の教会とするために、どのような手続きをふまれたのか。それが、「神が御子の血によって」という言葉で表されています。私たちを、神の教会とするために、御子イエス・キリストが血を流さねばならなかったというのです。罪に汚れた私たちが、神の民となるためには、罪のないお方が私たちに変わって、血を流す必要があったのです。御子イエス・キリストが、十字架で血を流されることにより、私たちのうえから神の怒りと呪いを取り除いてくださり、私たちを神の羊の群れに加えてくださったのです。ここで思い起こされるのは、ヨハネによる福音書10章にある主イエスの御言葉であります。そこで、イエスさまはこう仰せになりました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」私たちが、主の日のごとに礼拝をささげることができる、その根底には、イエスさまが血を流してくださったという事実があるのです。それほどまでに、神さまは私たち一人一人を重んじてくださっているのです。

 私が尊敬している説教者に、日本基督教団隠退教師の加藤常昭先生がおられます。加藤先生は、大変有名な方ですから、皆さんもよくご存じであられると思います。わたしは、半年ほど前から、加藤先生の説教を毎日、一つずつ読むことを日課としておりますが、その中で、忘れられない言葉を、今日はご紹介したいと思います。加藤先生は、ある説教の中でこのようなことを言われました。私たちは、自分の命の重さを知らない者たちであった。しかし、イエス・キリストを信じたとき、自分の命の重さがどれほど重いものであるかを知ったと言うのです。イエス・キリストがこのわたしのために十字架につけられたということを知ることは、神が私たちの命を御子の命よりも重いものとして量ってくださったということだと言うのです。ずいぶん大胆な言葉でありますが、神さまは、それほどまでに、私たちを大切にしてくださっていると言うのであります。

 また、パウロは、コリントの信徒への手紙一の8章で、「偶像に供えられた肉」について論じておりますけども、そこで、弱い人のことを第一に考えるようにと教えています。教会には、さまざまな人がいる。偶像の神などいないとその肉を平気で食べる人もいれば、いままでの習慣によって、良心に責めを感じる人もいる。そのとき、平気で食べる人は、それによって、心に責めを感じる人がいることを忘れてはいけない。むしろ、その弱い人のことを考えて自分の態度を決めなさいとパウロは言うのです。そして、その理由として「その兄弟のためにもキリストは死んでくださったからです。」と告げるです。これは、今朝の御言葉で言われていることと同じことであります。神は御子の血によって、私たちを神の教会の一員としてくださいました。それは言い換えれば、私たち一人一人のために、キリストが死んでくださったということなのです。そのことを、まず牧師、長老がしっかりと胸に刻まなければならないと思う。牧師や長老がゆだねられた群れは、それほどに重い群れなのです。言うなれば、イエス・キリストの命よりも重い群れを、牧師、長老はゆだねられたのです。そうであれば、その群れの世話をする長老の信任投票は、どれほど重いことかと思う。それを軽んじることは、自分自身を軽んじることです。いや、もっと言えば、イエス・キリストの命を軽んじることです。私たちは、そのことを今日はっきり胸に刻みたいと思います。

 牧師、長老、執事は教会役員と言われます。この役員と訳される英語は、ミニスターという言葉です。ミニスターとは大臣とも訳されますけども、しかしもともとの意味は奉仕者という意味なのです。教会役員とは奉仕する者です。役員と訳されるとどうもその意味が忘れられやすいのでありますけども、教会役員とは、信徒に先立って、教会に仕える者であります。そのために、牧師、長老、執事は立てられているのです。そうであれば、私たちは、牧師、長老、執事のことを覚えて祈らざるを得ないと思います。教会に牧師が与えられ、3名の長老が与えられ、7名の執事が与えられていることを主に感謝せずにはおれないと思うのです。そして、その感謝を、私たちはいわば、信任投票において表すのです。それは必ずしも、○をつけるということではありません。ただ、わたしが言いたいことは、一人でも多くの方に投票していただきたいということです。その投票を通して、長老や執事を、私たちの長老、私たちの執事として、しっかりと受け止めていただきたいということであります。

 

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