イエスの名によって 2007年12月02日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの名によって

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 19章8節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:8 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。
19:9 しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。
19:10 このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。
19:11 神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。
19:12 彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
19:13 ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。
19:14 ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。
19:15 悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」
19:16 そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
19:17 このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。
19:18 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。
19:19 また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。
19:20 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。使徒言行録 19章8節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 今日の御言葉には、大変おもしろい、ユーモラスとも言える「ユダヤ人の祈祷師たち」のお話しが記されています。イエスさまの名前を用いて、悪霊を追い出そうとしたのですけども、逆にとっちめられてしまう、そのようなお話しであります。このユダヤ人たちの祈祷師たちは、14節にありますように「祭司長スケワという者の七人の息子たち」でありました。なぜ、彼らは、試みに主イエスの名を唱えたのか。11節、12節にこう記されています。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇蹟を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもは出て行くほどであった。」

 パウロが、イエスさまの名によって、病気をいやし、悪霊を追い出していた。それも目覚ましい奇蹟とありますように、パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けに触れても、病気はいやされ、悪霊どもは出て行くほどであったのです。そのパウロの姿を見、またそのパウロについての話しを聞いて、このユダヤ人の祈祷師たちは驚いたと思います。彼らは各地を巡り歩き、様々なことを見てきましたけども、こんなことは今まで見たことがなかった。そこで彼らも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ったのです。ここで、「試みに」とありますように、彼らは信仰をもって、主イエスに信頼して、このように言ったのではありません。自分たちにもできるかどうか、試してみようとしたのです。また、彼らが信仰を持っていなかったことは、「パウロが宣べ伝えているイエスによって」という言葉からも明かであります。彼らは言わば、人のふんどしで相撲を取ろうとしていたわけです。なぜ、彼らは信じてもいないイエスの名によって悪霊を追い出そうとしたのか。また、追い出せると考えたのか。それは、彼らがイエスの名を魔法の呪文のように考えたからです。イエスの名を唱えれば、それが自動的に効力を発揮して、悪霊どもを追い出すことができる。そのように彼らは考え、そして実際に試してみたのです。けれども、悪霊は彼らにこう言い返しました。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」この悪霊の言葉は、霊の世界を考えるうえで、とても興味深い言葉だと思います。まず悪霊が彼らに言い返したこと自体から、悪霊は人格的な存在であることが分かります。悪霊といっても、霊でありますから、それは人格的な存在であるということです。それはどういうことかと言いますと、呪文によって自動的に追い出せるような者ではないということです。人格的な存在である悪霊を従わせるには、それなりの根拠、権威が必要であるのです。ここで、悪霊は「イエスのことは知っている」と言っておりますけども、確かに福音書を見ますと、そのように記されています。ルカによる福音書4章40節以下にこう記されています。

 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスをメシアだと知っていたからである。

 また、同じルカによる福音書8章26節以下にはこう記されています。

 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。

 このように、悪霊はイエスさまを知っていました。しかし、それは自分を滅ぼす者として知っていたのです。悪霊にとって、神の子であるイエスがこの地上に来られたことは、恐れ、恐怖でしかなかったのです。いと高き神の子であるイエスさまが「この人から出て行け」と言われれば、それに従わざるを得ない。神の御子であるイエスさまのお言葉は、悪霊を強制的に出ていかせる権威をもっているのです。

 また、悪霊は「パウロのこともよく知っている」と言っています。使徒言行録16章を見ますと、フィリピで、占いの霊に取りつかれている女奴隷が、パウロたちの後ろについて来て「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫び続けたことが記されています。このように悪霊は、パウロが、いと高き神の僕、イエス・キリストの僕であることを知っていたのです。

 このように見てくると、悪霊は人間よりも、敏感に、鋭い感覚をもって、イエスさまやパウロのことを見抜いているのですね。イエスさまが、公生涯を始めたばかりであるのに、悪霊は「お前は神の子だ」と言い当てる。また、パウロがまだ何も語らぬ先から、「この人たちは神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と言い当てる。しかし、その悪霊たちも、ユダヤ人の祈祷師たちのことは知りませんでした。悪霊は彼らに「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言い返したのです。そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出したのでした。聖書は、「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」と記しています。なぜ、このことを通して、主イエスの名は大いにあがめられるようになったのでしょうか。それは、イエスさまの名を唱えるだけでは、イエスさまの御力にあずかれないことが、このことを通して明かとなったからです。前回、ヨハネの洗礼しか知らなかった弟子たちが、イエスの名によって洗礼を受けたことを学びました。その時申しましたけども、「イエスの名によって洗礼を受ける」というこの言葉は、直訳すると「イエスの名の中に洗礼を受ける」となるのです。いわば、イエスさまという川がありまして、その中にドボンと沈み込んで、一つとなってしまう。そのようなイエスさまとの結びつきを表す言葉なのです。このイエスの名による洗礼をパウロも、かつてアナニアから受けておりました。ですから、悪霊は「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている」と言ったのです。また、だからこそ、神はパウロの手を通して目覚ましい奇蹟を行われたのです。この目覚ましい奇蹟は、8節の言葉と深く関係しています。8節に「パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした」とあります。神の国、それはユダヤ人ならば誰もが待ちこがれていた、神の王国、神の王的支配です。その神の国が、イエス・キリストにおいて既に来た。イエス・キリストの十字架と復活によって、神の支配はすでに樹立されたのだとパウロは大胆に宣べ伝えたのです。そして、そのパウロの語る主の言葉を証明するために、主はパウロの手を通して目覚ましい奇蹟を行われたのです。ここで、おそらく多くの方が思い起こされるのは、ルカによる福音書11章20節の主イエスのお言葉であろうと思います。そこでイエスさまはこう仰せになりました。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。パウロは、主イエスによって神の国が到来したことを、主イエスの名によって、病をいやし、悪霊を追い出すことにより、あざやかに示しました。いや、パウロというよりも、主なる神が、パウロの口と手を通して、その手ぬぐいや前掛けさえも用いて、主イエスによる神の国の到来を告知しているのです。そして、その主イエスの御支配は、この地上よりも、先に天上において、霊の世界において確立していることを、私たちは今朝の御言葉から教えられるのです。パウロが記したとされるエフェソの信徒への手紙の1章20節以下にはこう記されています。

 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりではなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。 

 私たちは、使徒信条でイエスさまが「天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白しますけども、イエスさまが父なる神の右にお座りになるということは、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりではなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれたことを意味しているのです。そして、このことをよく知っていたのは、人間よりもむしろ悪霊たちであったのです。そして、その悪霊たちの言葉によって、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名が大いにあがめられるようになるのです。ここで「あがめられる」と訳されている言葉は、「大きくなる」という言葉です。主イエスの名が大きくなり、その重みを増すのです。試しに、ちょっと唱えてみようとなどと、軽い気持ちで扱うことができなくなるのです。主イエスの御名をみだりに口にすることができなくなるのです。それは、このお方が、本当に復活され、天へと昇り、神の右の座に着いておられるからです。私たちは、そのことを、聖霊によって悟ることができたのです。先程、エフェソの信徒への手紙1章20節以下を読みましたけども、その前には、次のようなパウロの言葉が記されています。

 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大なる働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるかを悟らせてくださるように。

 パウロは、ここで「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」と祈っています。私たち人間は、この神さまの霊、聖霊をいただくことによって、神を深く知ることができるのです。神さまが、イエス・キリストを天においても、地においても主となされたことを知るのです。それは、呪文のように知るのではありません。イエスさまにある交わりの中で、人格的に知っていくのです。イエス・キリストを通して、神を神として礼拝する中で知っていくのであります。そのようにして、主の絶大なる力を知るとき、私たちは魔術から解放されるのです。魔術と聞くと、自分には関係のないことだと思うかも知れません。けれども、現代の人間も、占いや霊媒、迷信や運命という得体のしれない者にどれほど捕らわれているかと思います。最近のスピリチュアルブームは、そのことをよく表しています。そのような魔術から解放されるためにはどうすればよいのか。それは、イエスの名を信じ、イエスの名によって洗礼を受けることです。イエスをわたしの主として心の王座に迎え入れ、この体を聖霊の宮としていただくことであります。そのとき、私たちはあらゆる迷信やあやまった思想から解放されるのです。

 今、皆さんにお祈りしていただいておりますけども、わたしの生まれたばかりの息子は、心臓に心配を抱えております。私は、そのことをお医者さんから聞いたとき、自分の罪のために、息子がこのようになったのではないかと考えました。しかし、すぐこう考え直した。その考え方は聖書的ではないと。なぜなら、私のすべての罪は、イエスさまが背負ってくださり、この私のすべての罪は、すでに赦されているからであります。むしろ、このことに神さまのはかり知れないご計画があることを信じることができたのです。私は、このとき改めて、イエスさまを信じていてよかったなぁと思いました。なぜなら、イエス・キリストを信じることによって、様々な迷信やあやまった思想から守っていただくことができるからです。私たちが、この世で不幸なことに出会い、困難の中に置かれるとき、そこで人は様々なことを言います。先祖のたたりだとか。前世に犯した罪の報いを受けているとか。あるいは、そうなる運命だったとか。しかし、それらのことは、迷信であり、あやまった思想であり、魔術です。その魔術から解放されるためには、どうすればよいか。イエスを主と仰ぐのです。聖書を通して、礼拝を通して、主イエスをもっともっと知るのです。迷信に惑われて生きてきた自分が消えてしまうほどに、主イエスを大きくするのです。そのとき、自分の姿が見えてくる。自分の悪行が見えてくるのです。そのとき、大金を払って買い込んでいた魔術の本が、何の価値もないことが分かるのです。分かるだけではなく、それを皆の前で焼き捨てるようになるのです。もう、魔術など必要ない。占いも、霊媒も、迷信も必要ない。なぜなら、私たちは主イエスを知ったからです。主イエスの恵みの御支配の中で、生きることを知ったからであります。イエスの名を信じる私たちは、今すでに、神の国に生かされているのです。

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