真夜中の賛美 2007年10月21日(日曜 朝の礼拝)

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真夜中の賛美

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 16章16節~40節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:16 わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。
16:17 彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」
16:18 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。
16:19 ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。
16:21 ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。
16:23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
16:26 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。
16:27 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」
16:29 看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、
16:30 二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
16:31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
16:32 そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
16:33 まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
16:34 この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。
16:35 朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。
16:36 それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」
16:37 ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」
16:38 下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、
16:39 出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。
16:40 牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。使徒言行録 16章16節~40節

原稿のアイコンメッセージ

 今日の御言葉は、わたしたち、すなわち、パウロとシラスとテモテとルカの4人が祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会ったことから始まります。ここで「占いの霊」と訳されている言葉は、「ピュトンの霊」という言葉です。「ピュトン」とは、デルフォイの神託を伝える者を守っていた蛇を指すと言われます。彼女は、「デルフォイの歩く託宣」であったのです。その女がパウロやルカたちの後ろについて来て、こう叫ぶのです。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」パウロたちにとって思いもよらないことが起こった。占いの霊に取りつかれている女が、パウロたちが何者であるかを的確に言い当てたのです。この女奴隷は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていたとありますから、多くの人が、この女の占いに心ひかれていたことが分かります。その女が、幾日もこのようなことを繰り返すのですから、よい宣伝になると言えばなると言えます。けれども、パウロはそれに耐えることができませんでした。それは、この女がデルフォイの神託を告げる女であったからです。そのような女がパウロたちを「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と告げたとき、それを聞く人はどう受けとめるであろうか。そのいと高き神は、ギリシャの最高神ゼウスとも受けとめられかねないのです。「いと高き神」も「救い」も、当時の様々な宗教に共通する用語でありました。ですから、この女の叫びは、必ずしも、パウロたちが何者であるかを正しく言い表しているとはいえないわけです。森前首相が「日本は神の国だ」と発言したとき、そこで言われていることは、イエス・キリストを主とする神の国ではなくて、天皇を中心とする神の国ということでありました。その発言する人が、どのような立場にあるかによって、その言葉の持つ意味あいが変わってくるわけです。ですから、「歩くデルフォイの託宣」と呼ばれた女が「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と告げたとき、それはパウロが伝えようとすることと全く違うこととして受けとめられたと思います。このように考えると、この女の叫びはよい宣伝どころか、パウロがこれから伝えようとすることに間違った先入観を持たせる妨げであったと言えるのです。けれども、このような占いの霊、いわば悪霊に取りつかれた者が、パウロたちに敏感に反応したということは注目すべきことであります。このことは、主イエスが宣教を始められたときにも見られたことでありました。ルカによる福音書の4章31節以下に次のように記されています。

 イエスは、ガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。

 ここで、悪霊にとりつかれた男も、イエス様の正体を神の聖者であると見抜いております。「神の聖者」、これはヨハネによる福音書において、ペトロの信仰告白として用いられた言葉です。そのことを悪霊は、イエス様が宣教をはじめられたばかりのときに言い当てた。これはやはり驚くべきことだと思います。しかし、それを聞いて主イエスは、「黙れ」と仰せになりました。ペトロの信仰告白を受け入れた主イエスがここでは「黙れ」と言われるのです。それは、その言葉に、信仰が伴っていないからでありますね。むしろ悪霊は、恐れからこのように言っているのです。悪霊にとって、神の聖者であるイエスが来られたことは、自分たちの滅びを意味する。だから、「かまわないでくれ」と願うのです。イエス様は、そのような悪霊がものを言うことをお許しならず、男から追い出されるのです。パウロが、今日の御言葉で、女から占いの霊を追い出されたのも同じ理由であると思います。この女は、信仰をもってこのように叫んでいるわけではありません。占いの霊、悪霊が彼女にこのように叫ばせていたのです。それは、信仰ではなくて、恐れからの叫びであります。当時、相手が何者であるかを言い当てることによって、その人を支配することができると考えられていました。主イエスに向かって「正体は分かっている。神の聖者だ。」と言った悪霊は、そのように言うことによってイエス様に対抗しようとしたのです。このことは、私たちにもよく分かることだと思います。名前を知られるということは、その人に捕らわれてしまうことでありますね。例えば、道を歩いていて、後ろから声をかけられる。「すみません、ちょっといいですか。」そのように声をかけられても、振り返らずに歩き続けていくことができます。けれども、そのとき、私なら「村田さん」と声をかけられる。そのとき、私は捕らえられるわけですね。「村田寿和さん」と呼びかけられれば、なおさら立ち止まらざるを得なくなる。そのように何者であるかを知られるということは、その人の支配下におかれることと密接に結びついているわけです。この女奴隷が、パウロたちのことをこのように叫んだのも、悪霊にすれば、パウロたちに対抗しようとする、恐れから生じる叫びであったと考えることができるのです。

 パウロは、たまりかねて振り向き、その霊にこう言います。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」パウロは、女に言ったのではなくて、その霊に対して言いました。パウロは、この女の叫びが、悪霊によるものであることを見抜いていたわけです。そして、「あらゆる霊の主であるイエス・キリストの名によって、この女から出て行け」と命じるのです。すると即座に、霊が彼女から出て行きました。この女は、このようにして悪霊から解放されたのです。ちょうど主イエスがゲラサの人からレギオンという悪霊を追い出したように、パウロは主イエスの御名によって、女から悪霊を追い出したのでありました。自分の意志とうよりも、悪霊に引きずり回されていた女が、このようにして、主イエスの救いにあずかることができたのです。ここで話しが終われば、悪霊追放の奇蹟物語と言えるわけですが、一つ問題がありました。それは、この女が奴隷であり、主人たちはこの女の占いによって多くの利益を得ていたということです。彼らは、女奴隷が占いの霊から解放され正気を取り戻したことを喜びませんでした。占いの霊が出て行ってしまったこと。それは主人たちにとって、金もうけの望みが出て行ってしまったことを意味していたのです。それゆえ、パウロとシラスを捕らえ、広場へと連れて行き、高官たちに引き渡したのです。フィリピはローマの植民都市でありましたから、ここでの「高官たち」はイタリア法に基づき、司法と行政を執行する二人の「政務官」であったと考えられています。主人たちは、その高官たちにこう訴えるのです。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

 フィリピは、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市でありました。その住民の構成は、ローマ人とギリシア人がおよそ半分ずつと、ユダヤ人は少数しかいなかったと言われています。また、18章2節を見ますと、その頃、クラウディウス帝が、全ユダヤ人をローマから退去させるという命令を出していたことが分かります。これは50年頃のことと言われますから、パウロたちがフィリピを訪れた少し前のことでありました。それでなくても、ユダヤ人はその独特のライフスタイルのゆえに、周りの人々からの反感を招きやすかった。このフィリピの町にも、反ユダヤ主義と呼べる風潮があったようであります。私たちは、37節のパウロの言葉から、パウロとシラスがローマの市民権を持っていたことが分かるのでありますが、主人たちはそんなことを思っても見ませんでした。主人たちは、自分たちはローマ人であり、この者たちは自分たちが支配しているユダヤ人に過ぎないという優越感を持って、パウロとシラスを訴えるのです。主人たちは、二人がユダヤ人であることを指摘したうえで、次の2つのことを訴えています。1つは、かれらが町を混乱させているということです。そして、2つ目は、ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することもゆるされない風習を宣伝している、ということでありました。当時、ローマ帝国において、ユダヤの宗教は合法的な、公認の宗教でありました。キリスト教も、そのユダヤの宗教の一派と考えられていたわけです。しかし、ローマの植民都市において宣教することは、法律で禁じられていたのです。

 この主人たちの訴えは、高官たちに受け入れられるような訴えとなっています。もともと、彼らが二人を捕らえ、広場に引いてきたのは、そのような理由ではなかったはずですね。主人たちは、パウロたちによって、金もうけの望みがなくなってしまったことの腹いせに、二人を捕らえ引いて来たのでありました。けれども、この訴えではそのようなことは一切触れられていないのです。私は、この主人たちの訴えを読めば読むほど、面白いなぁと思います。ここでの訴えに当てはまるのは、パウロとシラスというよりも、むしろこの主人たちの女奴隷なのですね。パウロたちは、16節にありますように「祈りの場所」、町の門を出た川岸で、福音を伝えていたのです。パウロとシラスが、町中で、このような広場で、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたのではないのです。町を騒がせ、パウロたちを「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えています」と宣伝して歩いたのは、他ならない女奴隷であったのです。パウロは、むしろその女から悪霊を追い出すことによって、その騒ぎを静めた側なのです。また、ここに「ローマの市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習」とありますけども、パウロとシラスは、ローマの市民権を持つローマ市民なのですね。そもそも、この主人たちはパウロとシラスが何を宣べ伝えていたかを把握してはいなかったと思います。この主人たちの訴えは、とにかくパウロたちを痛い目に遭わせてやろうという悪意に満ちているわけです。広場に集まっていた群衆も一緒になって二人を責め立てたこともあり、高官たちは、二人の衣服をはぎ取り、鞭で何度も打つように命じます。高官たちは、パウロとシラスに弁明する機会も与えず、一方的に彼らを鞭打ちの刑に処したのです。そして、牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じたのでありました。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には足枷をはめました。なぜ、高官たちは、パウロとシラスを厳重に見張るように命じたのか。それはおそらく、高官たちも、あの女奴隷の言葉、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」という言葉を聞いていたからではないかと思います。また、「デルフォイの歩く託宣」と呼ばれていた女が、この二人によって、占いをしなくなった。いわば、二人によって黙らされてしまった。これは、高官たちや群衆にとって脅威であったと思います。人々は、神のお告げを聞こうと思えば、お金を持って、占いの霊に取りつかれている女奴隷のもとへ行けばよかった。けれども、もうその女は占いをすることができない。聞くところによると、最近やって来たあのユダヤ人たちが関係しているらしい。そのことを知ったとき、群衆も一緒になって二人を責め立てた。このように考えてくると、群衆も一緒になって二人を責め立てた本当の理由は、恐れであったことが分かるのです。悪霊のように敏感ではないにしても、人々にもパウロたちを恐れる思いがあった。ちょうど、ゲラサの人々が、悪霊に取りつかれていた男が正気になっているのを見て、イエス様にこの土地から出て行ってもらいたいと願ったように、群衆は二人を責め立てたのです。そして、高官たちは、何か得体の知れない者という恐れを持って、看守に厳重に見張るようにと命じたのであります。

 鞭打たれ、牢に投げ込まれ、足枷をはめられたパウロとシラスがしたこと。それは、賛美の歌をうたって神に祈るということでありました。「真夜中ごろ」とあります。なぜ、パウロとシラスは真夜中に賛美の歌を歌ったのか。ある注解書によりますと、この足枷は、両足を広く開くことのできる足枷で、痛みを伴い、それゆえに囚人から眠りを奪うものであったと記されておりました。それゆえパウロとシラスは、眠ることができなかったと言うのです。真夜中でありますから、そこは文字通り真っ暗であったと思います。一番奥の牢でありましたから、おそらく昼間でも薄暗かったでありましょう。その一番奥の牢から、何やら声が聞こえてくる。ほかの囚人がなんだろうと思って耳を傾けてみると、それは賛美歌を歌う声であった。神をほめたたえ、神に祈る声であったというのであります。他の囚人たちはこれに驚いたと思います。そして、思わず聞き入ってしまったのです。牢獄とは罪を犯した者が入れられる所です。いわば、神とは最も遠いと思われるその所で、パウロとシラスは神をほめたたえていた。ほめたたえるとは、神に感謝していたということです。賛美と感謝とは一つのことであります。パウロとシラスは、神に向かっても不平を言い、嘆いてもよかった。けれども、彼らは、真夜中の牢獄の中で、神をほめたたえることができたのであります。神に感謝をささげることができたのです。使徒言行録の5章に、12使徒たちが、最高法院に捕らえられ、鞭打たれ、イエスの名によって話してはならないと命じられたうえで、釈放されるという場面が記されています。それで使徒たちはどうしたのか。聖書はこう記しています。「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」

 使徒たちは、鞭打たれたこと、辱めを受けたことを喜びました。それはその辱めがイエスの名のためであったからです。本来、主イエスが受けるべき鞭打ちを、彼らは代わりに受けることができた。それほどまでに、主イエスと一つとなって働くことができた。そのことを使徒たちは喜んだのであります。ここで、思い起こすのは、主イエスが山上の説教で語られた、あの幸いを告げる言葉です。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 この幸い、この喜びに使徒たちは生きたのです。そして、パウロとシラスもこの幸い、この喜びに満たされていたのであります。後にパウロは、フィリピの信徒への手紙にこう書き記しています。「あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」

 キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。それゆえ、パウロとシラスは、神を賛美せずにはおれなかったのです。ここで、「賛美の歌を歌って神に祈っていると」とあります。賛美と祈りが別々のこととして記されているのではなくて、二人は賛美の歌を通して、祈っていたのです。賛美を歌うということは、祈るということでもあるのです。このパウロとシラスの祈りに答えるかのように、突然、大地震が起こります。そして、たちまち牢の戸がみな開き、すべての鎖が外れてしまうのです。この大地震で目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人が逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようといたしました。看守として、死んで責任を取ろうとしたのです。けれども、パウロは大声で叫ぶのです。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」戸が開いているにもかかわらず、囚人たちは誰一人逃げてはおりませんでした。なぜ、逃げなかったのだろうか。それは他の囚人たちがパウロとシラスの歌声に聞き入っていたからだと思います。神が二人と共におられることが他の囚人たちにも分かったからです。ある注解書に次のような言葉がありました。「本当の証人、信仰告白者は、苦しみの中にあって神をほめたたえることによって、その真価を発揮する。」鞭打たれ、牢獄に入れられるという苦難の中で、神をほめたたえるパウロとシラスの歌声は、彼らの信仰が本物であることのしるしでありました。そして、それはパウロとシラスが信じる神が真の神であることのしるしでもあったのです。それゆえ、他の囚人たちは、パウロとシラスの言葉に従い、誰一人逃げる者はいなかったと考えられるのです。

 明かりを持って来させ、牢に飛び込んだ看守は、震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出してこう言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」細かいことを言うようですが、ここで「先生」と訳されている言葉は、むしろ「主」と訳されるキュリオスという言葉です。この言葉からも明かなように、看守はパウロとシラスを宗教的な指導者と見なしています。おそらく、看守も「デルフォイの歩く託宣」と呼ばれた女の言葉を聞いていたのだと思います。また、この看守は自殺しようとしたとあるように、自分の無力さと深い絶望を味わったばかりでありました。そのような看守がパウロたちに問うたこと。それが「救われるためにはどうすべきでしょうか」という問いであったのです。この問いを看守が口にするには、死を覚悟するほどの深い絶望が必要だったのであります。改革者ジャン・カルヴァンは、神がこの地上において、様々な悲惨や苦しみが起こることを許しておられるのは、私たちに真の救いを求めさせるためであると語っております。まさに、神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせるのです。

 二人ははっきりと答えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」パウロだけが言ったのではない。パウロとシラスが、真実の証言として、このように告げるのです。「主イエスを信じない。そうすれば、あなたも家族も救われます。」私たちが主ではない。主と呼ばれるお方はただ一人、それはイエスであるというのです。ここで、あの女奴隷が叫んでいたことの内実が明らかとなります。すなわち、「いと高き神」とは主イエスのことであり、「救いの道」とは「主イエスを信じる」ということなのです。パウロとシラスは、その主イエスの僕として、自らもその救いにあずかっている証人として、この言葉を告げるのです。「主イエスを信じなさい。そうずれば、あなたも家族も救われます。」この御言葉は、主イエスの救いの豊かさを見事に表していると思います。もちろん、私が救われることによって、家族全員が自動的に救われるということではありません。家族に一人でもキリスト者がいれば、家族全員が救われるということではないのです。けれども、その一人の救いが家族全員をも救いへと導く豊かさにあふれていることを否定することはできないのです。その一人を通して、家族の者も主イエスへの信仰へと導かれる。私たちはその神の約束をここに聞き取ることができるのです。そして、この神の言葉は、看守とその家族のうえに即座に実現するのです。二人は、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語り、まだ真夜中であったにも関わらず洗礼を授けました。そして、看守とその家族も、二人を食事に招待し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだのです。牢獄の中でも賛美を歌える喜び、絶望に打ち勝つ喜びを彼らも自分のものとすることができたのです。彼らだけではない。主イエスを信じるならば、誰にでもその喜びが与えられるのです。

 翌朝、高官たちは、下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせました。高官たちは、鞭打って、一晩投獄することで、もう十分だと考えたのでありましょう。看守はこのことを喜びをもって伝えたようです。けれども、パウロは下役たちにこう言うのです。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」

 パウロは、自分たちが裁判にもかけられず、不当な仕方で、刑罰を受けたことを高官たちに認めさせようとします。それは自分たちの名誉を回復するためというよりも、生まれたばかりの教会からあらぬ疑いを取り除くためであったと思います。ローマの法律によれば、ローマ市民を鞭打つことは禁じられていました。知らずとはいえ、高官たちはローマ市民を保護する法律を破ったことになるわけです。特に役人がこのようなことをすると、職を失ったり、他の職に就けなくなる危険があったと言われています。それゆえ、高官たちは恐れ、出向いてきてわびを言い、二人を牢から連れ出したのです。牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発しました。この40節からも分かるように、リディアの家は教会として用いられていたようです。また、「兄弟たち」とありますように、婦人だけではなくて、男の弟子も起こされていたのです。この時、パウロがどのような励ましの言葉を語ったのかは分かりません。けれども、私たちは、パウロが記したフィリピの信徒への手紙を通して、その励ましにあずかることができるのです。最後にその手紙の一部を読んで終わりたいと思います。

 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかり立ちなさい。」

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