第二回宣教旅行 2007年10月07日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

第二回宣教旅行

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 15章36節~16章5節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:36 数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」
15:37 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。
15:38 しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。
15:39 そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、
15:40 一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。
15:41 そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。
16:1 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。
16:2 彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。
16:3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
16:4 彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。
16:5 こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。使徒言行録 15章36節~16章5節

原稿のアイコンメッセージ

 今日の御言葉から、パウロの第二回宣教旅行が始まります。この第二回宣教旅行の記述は今日の御言葉から18章23節まで続いています。年代からすれば、紀元50年から53年の3年間に渡るものでありました。パウロは、3回に渡って宣教旅行をしましたが、その中でも第二回宣教旅行はもっとも大がかりな宣教旅行と言えます。いよいよキリストの福音がアジアを越えてヨーロッパへと伝えられて行くのです。けれども、今日の御言葉を読んで分かることは、パウロはそのような大がかりな宣教旅行をはじめから考えていたのではないということです。36節にこう記されています。「数日の後、パウロはバルナバに言った。『さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。』」

 このパウロの言葉からも分かるように、彼の当初の目的は、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているか見て来ることでありました。そして、おそらくもう一つの目的があったと思います。それは、エルサレム会議の決定をキリキア州に住む兄弟たちに伝えるという目的です。エルサレム会議の決議を知らせる手紙の冒頭には、「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。」とありました。ですから、この手紙をキリキア州に住む兄弟たちにも伝える必要があったのです。エルサレム会議の決議は、使徒たちや長老たちを通して、聖霊が決めたことでありましたから、それはイエス・キリストを信じるすべての教会が守らねばならないことであったのです。このように当初、第二回宣教旅行は、第一回宣教旅行で生まれた教会を訪ね、エルサレム会議の決議を伝えるという、伝道よりもむしろ教会形成を目的とするものであったのです。

 しかし、そこでパウロとバルナバの間に思いもよらぬ激しい衝突が起こります。37節から38節。「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかし、パウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきではないと考えた。」

 パウロとバルナバが激しく衝突した理由、それはマルコと呼ばれるヨハネを連れて行くべきか、どうかでありました。「マルコと呼ばれるヨハネ」この名前が最初に出てきたのは、12章においてでありました。ヘロデ王によって捕らわれたペトロが、天使によって解放される。そのペトロがすぐに向かったのが「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」でありました。ですから、ヨハネ・マルコの家は、集会所として用いられていたことが分かります。当時は、今のようなキリスト教会の礼拝堂があるわけではありませんで、信者の家に集まって礼拝をささげていたわけです。いわゆる家の教会であったのです。ですから、ヨハネ・マルコは、幼い時から、教会の交わりに生きてきた人物であると考えられます。また、コロサイの信徒への手紙の4章10節によれば、マルコはバルナバのいとこでありました。そのこともあって、バルナバとパウロは、第一回宣教旅行にヨハネを助手として連れて行ったのです。けれども、キプロス宣教を終えて、海を渡りパンフィリア州のペルゲに着いたとき、ヨハネは一行と別れてエルサレムへ帰ってしまったのです。なぜ、ヨハネが帰ってしまったのかについては色々な推測がなされています。例えば、キプロス宣教の前は「バルナバとパウロは」と記されていたのに、キプロス宣教の後は「パウロとバルナバは」と記されるようになります。これはバルナバに代わってパウロが指導権を握るようになったことを表す。それがマルコには気に入らなかったと考える人もいます。また、当初の計画では、パンフィリア州に渡ることは含まれていなかったと考える人もあります。また、マルコが見知らぬ土地に入ることを恐れたとか、ホームシックにかかったとか、いろいろ推測されるのでありますけども、聖書はその理由については一切述べておりません。ただ、「ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」という事実だけを記すのです。そして、ここでパウロが問題にしているのも、その理由ではなくて、その事実であります。パウロは、「前に、パンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきではないと考えた」のです。ここで、パウロが第一に考えているのは、福音宣教という事の重大さです。その福音宣教という重大な務めに、マルコはふさわしくない、適切ではないとパウロは言っているのです。確かに、主イエスも「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と仰せになりました(ルカ9:62)。神の国を言い広める、福音宣教者として働くことは、それほどの覚悟が必要なのであります。改革者カルヴァンは、このところを注解して、こう語っています。「わたしたちは聖パウロが、全面的にヨハネ・マルコをはねつけはしなかったことをよく注意しなければならない。パウロは、もしヨハネ・マルコが一般の民衆と同列にあることで満足しさえすれば、彼を兄弟として見なしたろう。人を教える公職をば自分自身の過失から愚にも喪失したのだから、この職務に彼をつけることは、パウロとしては望まなかったのだ。ある人を全く容赦しようとはしないということと、その人がただある名誉に、あるいは公職につくのを許さないということとの間には、大変な違いがある。」

 カルヴァンは、「もしパウロがマルコを一兄弟として受け入れるのであれば、このような厳しいことは言わなかったであろう。しかし、教会から遣わされる伝道者として受け入れるのであれば、厳しいことを言わざる得なかったのである。パウロはその区別をちゃんとわきまえていたのだ。」と言うのであります。

 このように見てまいりますと、なるほど、パウロが言っていることはもっともだと思えるかも知れません。それでは、次に立場を変えまして、バルナバの側から考えてみたいと思います。バルナバが「マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたい」と思ったのはなぜか。パウロと激しく衝突し、別々に行動するまでに、そのことにこだわり続けたのはなぜか。バルナバは、パウロの考えを聞いて、「あなたのいうとおりだ」とは言いませんでした。バルナバは、パウロと別行動を取ってでも、マルコを連れて行きたかったのです。それは、マルコにもう一度チャンスを与えたかったからであります。マルコが、パンフィリア州で一行から離れていった理由は分かりません。けれども、そのことで、一番傷つき、落ち込んでいたのはマルコ自身であったかも知れないのです。バルナバは、マルコの叔父でありますから、そのマルコの心情をよく知っていたのかも知れません。マルコにもう一度チャンスを与えてやりたい。そして、マルコを一兄弟ではなくて、宣教者として育てたいとバルナバは願っていたのです。パウロが、福音宣教という務めを出発点として物事を考えたのに対して、バルナバは、マルコ、その人を出発点として物事を考えたのであります。

 私は今日の御言葉をはじめ読んだとき、マルコを連れて行くかどうかなどそれほどたいした問題ではないのではないか。そんなことで別行動を取るパウロもバルナバもどこか大人げないと思っていました。けれども、この説教の準備をして行く中で、マルコを連れて行くか、どうかは重大な問題であると思うようになったのであります。もし、バルナバが、パウロとの衝突を恐れて、マルコを連れて行かなかったらどうなったか。おそらく、もはやマルコは福音宣教にたずさわることはなかったでしょう。そうであれば、イエス様の公生涯について一番最初に記されたマルコによる福音書は存在しなかったかも知れないのです。マルコによる福音書は、ペトロの通訳として活躍したこのヨハネ・マルコが記した書物であると言われているのです。いや、何よりマルコ自身が信仰者としてだめになってしまったかも知れないのです。福音宣教について行ったが、途中で帰ってしまった、いわば落伍者としての責めを彼は生涯追い続けなければならなかった。そして、おそらく、そのことを一番責めていたのは、彼自身であったと思います。その心の傷を癒すためにも、バルナバは何としてでも、もう一度マルコを福音宣教に連れて行きたかった。そして、今度はその使命を全うさせてやりたかったのです。なぜ、これほどまでにバルナバはマルコのことを思いやったのか。マルコはバルナバのいとこでありましたから、血縁関係があったことは確かです。しかし、それよりも、バルナバは、マルコを自分の子供のように考えていたからではないかと思うのであります。16章には、パウロが、テモテを見出し、宣教旅行に一緒に連れて行くことが記されています。パウロは、このテモテを後に「信仰によるまことの子テモテ」と呼んでおります。パウロにとって、テモテは、信仰によるまことの子、自分の働きの後継者となるのです。それと同じことが、バルナバとマルコにも言えないであろうか。バルナバにとって、マルコは、自分が見込み、訓練してきた、信仰によるまことの子であった。そのマルコを連れていくか、どうか。そこにマルコの宣教者としての将来がかかっていることを見抜いたとき、バルナバはパウロと別行動をとってでも、この若い宣教者を選んだのです。

 また、もし、パウロがバルナバに折れて、マルコを連れて行くことになったらどうであったか。パウロがこれから歩み出す、第二回宣教旅行は、もっとも大がかりな宣教旅行であると申しました。それは同時に、もっとも苦難の伴う旅行であったのです。そのような旅行に、マルコを連れて行ったらどうなったか。もしかしたら、パウロが心配したように、再びマルコは、脱落してしまったかも知れないのです。それこそ、マルコにとって深い傷となったことでありましょう。ですから、ここでパウロとバルナバが別行動を取ることになったのはかえって良かったと言えるのです。このことによって、1つであった宣教チームが2つになり、倍の働きをすることができるようになったのであります。

 バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出しました。一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発するのです。シリア州やキリキア州を回って、陸路で、かつて訪れたデルベやリストラに向かうのであります。

 パウロは、シラスを選んだとありますが、このシラスは、エルサレム教会の代表として、アンティオキア教会に手紙を届けた人物であります。シラスの名前は手紙にも記されていましたから、これからエルサレム会議の決議を伝えるうえでも好都合であったと言えます。また、彼は預言する者であり、パウロと同じくローマ帝国の市民権を持つ者でありましたから宣教のパートナーとしてまたとない存在でありました。おそらく、アンティオキア教会を訪ねたとき、パウロと意気投合したのでしょう。シラスは、パウロの手紙ではシルワノという名前で、何度も言及されるようになります。パウロは、バルナバに代わって、シラスをパートナーとして選んだのでありました。宣教というのは、一人では成り立たないのですね。なぜなら、真実は二人または三人の証言を通して明らかとされるからです。もちろん、互いに励まし合い、支え合うという利点も大きかったと思います。

 「バルナバはマルコを連れてキプロス島へと向かって船出した」とそっけなく書いてあるのに対して、パウロとシラスは「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。」と書いてあります。ある人は、この記述から、アンティオキア教会は、バルナバではなく、パウロの側に立ったことが分かるというのですが、私はそうではないと思います。これは、使徒言行録が、これからパウロにスポットライトを当てて、パウロの足跡を追って行くからでありまして、バルナバとマルコは見向きもされなくなったのではないと思います。当然、アンティオキア教会は、バルナバとマルコをも、主の恵みにゆだねて送り出したと思います。そればかりか、パウロとシラスは、バルナバとマルコのために、またバルナバとマルコは、パウロとシラスのために日々祈り合ったと思います。意見が激しく衝突したのは事実でありますけども、それによって、憎しみ合うようになったとか、そういうことではないのです。キリストの福音を宣べ伝える。このことにおいては、パウロもバルナバも同じ思いを抱いていたのです。問題はそれを、一緒にするか、別々にするかということなのです。一緒にする方が、より良く働くことができれば一緒にする。しかし、別々にした方が、より良く働くことができるならば、別々にした方が良いのです。それはそれぞれの利益というよりも、主のご用のため、福音を宣べ伝えるという使命を果たすためによいことなのです。バルナバは、これ以降、使徒言行録から姿を消すわけでありますが、しかし、コリントの信徒への手紙一を見ますと、パウロは同労者としてバルナバの名前をあげております(9:6)。また、パウロの晩年の手紙、テモテへの手紙一には、「マルコを連れてきてください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。」と記されています(4:10)。このように、後にパウロとマルコは、主のために一緒に働くようになるのです。年月を経て、パウロとマルコが心を一つにして働くときを、主は備えておられたのです。

 パウロはデルベにもリストラにも言ったのでありますが、「そこに信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。」と記されています。このテモテは、先程も言及しましたが、パウロの愛すべき同労者となった人物であります。おそらく、パウロの第一回宣教旅行によって、テモテもその母も、イエス・キリストを信じ弟子となったのでありましょう。パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けたのでありました。これを読むと、おやっと不思議に思うかも知れません。エルサレム会議で確認されたこと、それは割礼の有無は問題ではなく、人はただ主イエスの恵みによって救われるということでありました。そのことを強く主張したのは他でもないパウロでありました。そのパウロが、ユダヤ人の手前、テモテに割礼を授けたとはどういうわけかと疑問に思うのです。けれども、テモテは、ユダヤ婦人の子でありましたから、当時の慣習から言えば、ユダヤ人と考えられておりました。ですから、パウロは異邦人に割礼を授けたわけではないのです。本来、ユダヤ人として受けるべき割礼をこれまで受けていなかったテモテに、パウロは割礼を授けたのであります。テモテがユダヤ人であるとの立場を明確にするために割礼を授けたのです。ですから、救われるために割礼を授けたのでは決してないのです。救われるために、割礼の有無は関係ない。神様は、主イエスにあって、割礼のない者を割礼のないままに、割礼のある者を割礼のあるままに救ってくださる。それがパウロの信じるところでありました。例えば、ガラテヤの信徒への手紙の5章6節にはこうあります。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

 それでは、なぜパウロはテモテに割礼を授けたのか。それをテモテを一緒に連れて行きたかったからです。さらには、その地方に住むユダヤ人のためでありました。ここで「ユダヤ人の手前」と訳されている言葉は、直訳すると「ユダヤ人のために」となります。ここでのユダヤ人とは、ユダヤ人キリスト者のことではなくて、まだ主イエスを信じていないユダヤ人のことです。つまり、パウロがテモテに割礼を授けたは、ユダヤ人に福音を宣べ伝えるためであったのです。パウロは、コリントの信徒への手紙一の9章19節から23節でこう記しています。

 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

 このパウロの言葉は、パウロの伝道者としての姿勢をよく表しています。パウロは自由な人として、相手によって自分の行動を変え、相手の期待する行動を取る、しもべとなりました。そして、それは何とかして何人かでも救うため、福音のためであると言うのです。今日の御言葉の関連からすれば、最初の「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。」が大切であります。なぜ、パウロはテモテに割礼を授けたのか。その答えが、ここに記されているのです。もし、テモテが割礼を受けなければどうなったか。彼は、ユダヤ人の会堂で話すこともできなかったのです。会堂以外の場所でも、無割礼の者の言葉に、ユダヤ人が耳を傾けるとは考えられません。ですから、パウロは、ユダヤ人の何人かでも救うために、テモテに割礼を授けたのです。パウロは、異邦人の使徒と言われますけども、決して同胞のユダヤ人をないがしろにしたのではありませんでした。そのことは彼がまずユダヤ人の会堂を訪れて、福音を宣べ伝えたことからも分かります。そのパウロの思いは、ローマの信徒への手紙の9章にはっきりと記されています。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りを言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられてもよいとさえ思っています。」

 パウロの心には、同胞のユダヤ人に対する絶え間ない痛みがあった。本来、真っ先に福音を受け入れるべきはずのユダヤ人が福音を受け入れない。そのことをパウロは深く悲しみながら、福音を宣べ伝えていたのです。これは私たちにもよく分かることでありましょう。福音を語る。それが受け入れられればこんなにうれしいことはありません。しかし、それを愛する者が拒絶するとき、何とも言えない深い悲しみを覚える。その深い悲しみをパウロはここでテモテにも共に担って欲しいと願い、割礼を授けたのです。テモテは、その深い悲しみにおいても、同伴者となることを求められたのです。共に福音を宣べ伝えるということはそういうことではないでしょうか。家族の中に、イエス様を信じようとしない人がいる。その深い悲しみを私たちが共に担うことなくして、共に福音を宣べ伝えていくことはできないのであります。家族の救い、それは教会全体の祈りの課題であるのです。

 バルナバがマルコを、パウロがテモテを一緒に連れて行ったこと。ここに、福音宣教を担う新しい世代が備えられつつあります。教会の課題、それは伝道と共に、世代交代、信仰の継承でありましょう。先週、わたしは南浦和教会の特別伝道集会で説教してきました。南浦和教会にはお年を召した方が多くおられましたけども、その方々が喜ばれたのは「わたしが若い」ということでありました。それは、そこに改革派教会全体の信仰の継承を見るからでありますね。今日の御言葉は、マルコとテモテという若い伝道者をめぐって、私たちがどのように信仰を継承し、共に福音宣教の使命を担っていくのかを考えさせる御言葉であると思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す