聖霊と私たち 2007年9月23日(日曜 朝の礼拝)

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聖霊と私たち

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 15章22節~35節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:22 そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。
15:23 使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。
15:24 聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。
15:25 それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。
15:26 このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。
15:27 それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。
15:28 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。
15:29 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
15:30 さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。
15:31 彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。
15:32 ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、
15:33 しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。
15:34 (†底本に節が欠落 異本訳)しかし、シラスはそこにとどまることにした。
15:35 しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。使徒言行録 15章22節~35節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、前々回と2回に渡って、エルサレム会議について学んで参りました。小見出しに「使徒会議の決議」とありますが、もう少し正確に言えば、「使徒たちと長老たちの会議の決議」であります。その使徒たちと長老たちとの決定を私たちは今日の御言葉を通して知ることができます。この手紙に記されていることは、ヤコブが語ったことと同じことです。ヤコブは、旧約聖書のアモス書の預言を引用し、ペトロの語ったことが、預言者たちの言ったことと一致していることを確認したうえで、こう語りました。「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に備えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と血とを避けるように手紙を書くべきです。」このヤコブの判断が、そのまま今日の御言葉において実行されていることが分かります。これは、その会議の議員であった使徒たちや長老たちが、このヤコブの判断に賛成をした。ヤコブの判断を神様の御心として受け入れたということです。25節に「満場一致」という言葉ができてますけども、この使徒たちや長老の会議においても、満場一致でヤコブの判断を受け入れたと考えられるのです。この判断、決議について、28節では、「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」と記されています。使徒たちと長老たちからなる「わたしたち」だけではなくて、「聖霊とわたしたち」が決めたと言うのです。これは、前回もお話ししましたように、このエルサレム会議を導き、御支配しておられたのは、他でもない主イエス・キリストの霊、聖霊であったからです。天におられるイエス・キリストが、御言葉と聖霊をもって、この会議を導かれたのです。エルサレム会議、これはまことに貴重な聖書に記されている教会会議の記録であります。その教会会議で問われたことは何であったのか。それは教会の王であり頭であるイエス・キリストの御心、御意志でありました。ペトロが語った、異邦人コルネリウスが救われた出来事も、主イエス・キリストの御心を表す、いわば新しい啓示であったのです。バルナバとパウロがなしたあらゆるしるしと不思議な業もそうであります。それは、主イエスが、バルナバとパウロを通して、異邦人伝道に励んでおられるということなのです。そして、ヤコブは、ペトロの語ったことは聖書の預言者たちの言っていることと一致していると告げたのです。アモスの預言が、今という時代に現実のものとなっているとヤコブは告げたのです。このように教会会議とは、主イエス・キリストの御心を祈り求め、それを実行するための会議であると言えるのです。少なくとも、そこに集まっていた者たちは、そのことをよくわきまえておりました。自分がどう思うか、誰がそう言ったのか、ということよりも、神の御心を重んじる会議、それが教会会議であります。それゆえ、彼らは「聖霊とわたしたち」は決定したと大胆に語ることができたのです。

 この会議の議員たちは、使徒たちと長老たちでありました。使徒たちとは、この時代だけのものであります。なぜなら、使徒とは、主イエスの十字架の死と復活を直接目撃した証人であったからです。使徒言行録の1章に、イエス様を裏切ったユダの変わりに、使徒としてマティアが加えられたというお話しが記されておりました。そこで、ペトロは、使徒としての資格についてこう述べています。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天へと上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人となるべきです。」

 このことから、使徒とは、その時代限りの、特別な職務であったことが分かるのです。主イエスは、地上を歩まれたとき、弟子たちの中から12人を使徒としてお選びになりました。そしてそれは、イエス様が十字架に死に、復活し、天へと上げられてから、御自分の全権を委託して遣わすためであったのです。使徒たちの働きが求められたのは、イエス様が天へと昇られてからですね。そのために、イエス様は、弟子たちを3年間教育されたわけであります。使徒とは、言ってみれば全権大使であります。また、古風な日本語で言えば、名代であります。主イエスによって遣わされた使徒たちの発言は、主イエスが語ったかの如く権威をもって受け入れられたのです。イエス様が仰せになったように、「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れる」。つまり、主イエスが遣わされた使徒たちを受け入れる人は、主イエスを受け入れる者であるのです。

 また、長老たち、これは神が霊的な賜物を与えて、立てられた者たちであります。使徒言行録の20章には、パウロが「エフェソの長老たちに別れる告げる」場面が記されていますが、そこで、パウロは長老たちにこう語っています。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」

 長老は、御子イエスの血によって贖われた神の教会の世話をするために、神によって立てられた者たちです。そして、その職務を全うするための賜物をも聖霊が与えてくださるのです。

 私たちはこの使徒たちと長老たちからなるエルサレム会議から、教会がどのような物事を判断し、決めていくべきかを教えられるのであります。教会も、多くの人が集う、この地上の組織でありますから政治が必要とされます。秩序をもって歩まなくてはならないわけです。教会政治のタイプとして大きく3つのものがあります。それは、監督主義政治、会衆主義政治、長老主義政治の3つであります。ここで詳しくお話しすることはできませんけども、大まかに言えば、監督主義政治とは、一人の人に全権がゆだねられている政治です。例えば、最終決定権を牧師が握っている。それを監督主義政治と言います。また、会衆主義政治とは、何でも教会員みんなで話しあって決めていく。これは、毎月、会員総会を開いて決めるようなものです。そして、長老主義政治、これは私たちが採用している政治形態でありますが、神が召してくださり、会衆が選んだ長老たちの会議が行われ、そこで教会の営みが決められていく。この長老たちの中には、宣教長老である教師も含まれます。そして、その会議において、教師も長老も同じ権能を与えれているのです。教師と長老、それは職制が異なりますから、職制権能は異なりますけども、会議における権能、議会権能は同じであるのです。ですから、会議において、教師も長老も同等なのです。では、なぜ教師が議長をするのかと言えば、それはその会議全体が、御言葉の支配に置かれることを願っているからです。ですから、御言葉の教師が、長老会、小会の議長をするようにと政治規準は定めているわけです。

 私たちの教会は、長老主義政治を採用しておりますけども、その理由を、創立宣言は次のように記しています。「1つ教会政治に関して言えば、長老主義が聖書的教会に固有なる政体なりと信ずるをもって、わが日本基督改革派教会はこれを純正に実施せんと願うものなり。監督制、会衆制等は法皇制と共に人間の見地からすれば各々長所を具えるといえども、教理の純正と教会の聖潔とを守るには長老制にしかず、我らは単に伝承主義的にこれを固執するにあらず、健全なる理性の判断によりてもこれは最良の政治様式なりと言わざるべからず。旧日本基督教会は少なくとも法規上これを採用せるものなりき。」

 ここで言われていることは、長老主義が聖書的教会に固有なる政治形態と信じ、これを純正に実施することを願うその決意。また監督制、会衆制、法皇制と人間の見方からすればそれぞれ長所はあるけども、しかし、教理の純正と教会の聖潔を守るには長老制が最善であることは、歴史(伝承)と健全な理性によっても支持される、と言うことです。「長老主義が聖書的教会に固有なる政体なりと信ずる」と語るとき、その背後にあるのは、使徒言行録の15章に記されているエルサレム会議であることは確かなことです。初代教会は問題が起こったとき、どのように解決したのか。そして、その問題をどのように乗り越えて行ったのか。聖書は、使徒たちと長老たちが集まって会議をして決めたと教えているのです。私たちの教会でも、毎月一回、長老たちの会議、小会が執り行われます。その起源はどこにあるのかと言えば、このエルサレム会議にあると言えるのです。もちろん、今、使徒と呼ばれる者はおりません。また、この時代と違って、神様の啓示は66巻からなる旧新約聖書によって完結し、すでに表されております。私たちは聖書を通して、神様の御意志を知ることができるわけです。ですから、現代の長老の会議が、この28節とまったく同じ意味で、「聖霊とわたしたち」は決めましたとは言えません。使徒時代以後の教会会議は、誤りを犯しうるし、また実際に多くの会議が誤りを犯してきたわけです(ウ告31:4)。しかし、その決議が、神の言葉、聖書の教えと一致しているならば、私たちはそれを尊敬と従順をもって受け入れねばならないのです。また、それが単に、御言葉と一致しているからという理由からだけでなく、その決定が神に立てられた、按手を受けた長老たちの会議の決議であるがゆえに、わたしたちはそれを尊敬と従順をもって受け入れなければならないのです。このことは、私たちの信仰規準であるウェストミンスター信仰告白にちゃんと告白されています。第31章は、教会会議、「地方会議と総会議」についての告白でありますが、その第3項にはこうあります。教会会議の「決定や制定は、神の御言葉に一致しているならば、それが神の御言葉に一致しているためだけでなく、それを下した権能のためにも、尊敬と従順をもって受け入れられなければならない。その権能は御言葉において命じられた神の規定だからである。」

 御言葉に一致しているならば、神の民である教会はそれを尊敬と従順をもって受け入れねばならない。これは当然のことですね。しかし、ここではそれだけではなくて、それが神によって権能を与えられた長老たちの会議によって決定されたがゆえにも、尊敬と従順をもって受け入れなくてはならないと告白されているわけです。

 今日の御言葉の最初、22節を見ますと、「そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロとバルナバと一緒にアンティオキアへ派遣することを決定した。」とあります。

 ここでは、使徒たちと長老たちの会議で決めた事柄が、教会員全体に報告され、共有されております。そして、さらにそのことをアンティオキアの教会とも分かち合うために、二人の人を選んでアンティオキアへと派遣することに決定したのです。これは、25節によれば、満場一致で決定したことでありますが、そこに当然、全会衆が使徒たちや長老たちの決定に賛成したことも含まれていると考えられます。全会衆は、その決議が御言葉と一致し、また主が立ててくださった使徒たちや長老たちが決定したことであるがゆえに、その決議を尊敬と従順をもって受け入れたのです。ある人は、今日の御言葉は、教会会議で決定した事柄が、どのようにして教会全体に、会員一人一人に広がっていくかを教えている最もよいテキストだと語っています。教会会議には、各個教会の長老たちの会議、小会ばかりではなくて、その地方にある教会の代表者からなる中会、さらには、全国の各個教会の代表者からなる大会という会議があります。小会、中会、大会と段階的な会議によって、日本キリスト改革派教会は一つの教会として運営されているわけです。このエルサレム会議も、アンティオキア教会の代表者とエルサレム教会の代表者からなる会議でありましたから、いわば中会、あるいは大会であったとも言えます。その中会や大会の決定をどのように教会員に伝え、それを浸透させるか。それは大変難しいことではないかと思います。会員一人一人が、中会の決議や大会の決議を自分たちのこととして受け入れてもらうにはどうすればよいか。それは多くの牧師があなたを悩ませることでありましょう。私などは、その点ではのんきなのかも知れません。中会の略報を皆さんに印刷して配り、それに基づいて出席した長老に報告してもらっておりますが、もっと工夫が必要なのかも知れません。あるいは、大会で、反対声明文を出す。昨年も「教育基本法『改正』に反対する声明」を出しました。これには、月報にも少し書きましたが、議場において、多くの議論が重ねられました。しかし、一端決議されると、それが会員一人一人にどれだけ強く意識されるのか。それを自分たちの反対声明文としてどれだけ受け入れてもらえるのか。そのときも、わたしはその抗議声明を印刷して、皆さんのメールボックスに入れておきましたけども、果たしてそれだけでよかったのか。少なくとも、報告のときに時間をとって読みあげた方がよかったのではないか。こう思わされたのであります。しかし、一方、反省ばかりではなくて、月報に掲載される小会報告を読みあげることはやはり意味のあることだと思わされましたし、また60周年記念宣言「終末の希望についての信仰の宣言」を、礼拝後に読んだのは良かったとも思わされるわけです。使徒たちと長老たちからなる教会会議の決議をどのように教会員に浸透させるのか。そのことに、エルサレム教会が大変心を砕いていることを今日の御言葉から教えられるのです。使徒たちと長老たちはそれを全教会員に説明し、主にあって思いを一つにしました。そして、アンティオキア教会には、パウロとバルナバだけを帰すのではなくて、ほかに二人の人を伴わせたのです。それが、バルサバと呼ばれるユダとシラスでありました。彼らは兄弟たちの中で指導的な立場にいた者たちでありました。おそらく、この二人は、会議に出席していた長老ではなかったかと思います。そうでなければ、会議の決議を詳しく説明することはできなかったでしょう。エルサレム教会は、ただ手紙だけを送りつけただけではなく、その会議に出席したユダとシラスを派遣し、その決定について詳しく口頭でも説明したわけであります。

 彼ら一同は、見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて、手紙を手渡しました。おそらく、それを皆の前で、代表者が読み上げたのでしょう。それを聞いた者たちは、「励ましに満ちた決定を知って喜んだ」と記されています。特に、28節、29節の「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像にささげられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。」この言葉を聞いたとき、ホッとしたと思います。ある人々が、ユダヤから下ってきて、使徒たちの権威によって「モーセの慣習に従い、割礼を受けなければあなたがたは救われない」と教えはじめた。そして、その教会には、割礼を受けているユダヤ人キリスト者と、割礼を受けていない異邦人キリスト者がいたわけです。そのような教会の中で、このような教えが使徒の名によって語られたときどうなったか。そこで当然考えられることは、主にある一致が乱されたということです。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間に、気まずい雰囲気が生じた。私たちも自分に置き換えて考えてみればよく分かるのではないでしょうか。「モーセの慣習に従い、割礼を受けなければ救われない」と言われて、ここにいるどれだけの人が、教会に連なり続けることができるか。24節の「動揺させた」という言葉は、「破壊する」とも訳せる言葉です。それほど、アンティオキアの教会は危機的状況に置かれていたのであります。救われるには、主イエスの信仰だけではなくて、プラスアルファーが必要であるという教えが、どれほど危険なものであるかは、パウロが記したガラテヤの信徒への手紙を読めば分かります。それは、教会を立て上げるものではなく、教会を破壊してしまう教えなのです。主イエスの恵みによってのみ、人が救われるのでなければ、それはもはや福音とは呼べないのです。

 この手紙では、ユダヤから下ってきた者たちが、使徒たちとは関わりのない者と言われているのに対して、パウロとバルナバが「わたしたちの愛する」者と呼ばれ、「わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たち」と言われています。このように語ることによって、パウロとバルナバとエルサレムの使徒や長老たちが一致していることが強調されているわけです。そして、この主にある一致は、手紙を届けたユダとシラスの語る言葉を通して改めて確認されたのです。ユダとシラスは預言する者であったとあります。これは、今でいえば、説教する者であったということです。エルサレムから来た、ユダとシラスの説教を聞いて、アンティオキアの教会員は励まされ、力づけられました。それはなぜか。それは彼らが語る福音が、自分たちが聞いていた福音と同じ福音であったからです。つまり、「私たちが救われるのは、行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるのだ」という福音を、エルサレムから来たユダとシラスを通しても聞くことができたのです。人はただ主イエスの恵みによって救われる。ユダヤ人であっても、異邦人であってもそれは同じである、そのことを彼らは使徒たちの手紙を通して、またユダとシラスの語る説教を通してはっきりと知ることができたのです。

 33節に「兄弟たちから送別の挨拶を受けて」と記されています。これは直訳しますと「平安をもって」という言葉です。その送別の挨拶はどのような言葉であったか。それは「平安に」という言葉であります。「不安」な気持ちで、ユダとシラスを迎え入れたアンティオキアの人々が、今や「平安」に彼らを送り出すのです。主の祝福をもって彼らを送り出すのであります。この手紙に記されている決議は、「聖霊とわたしたち」は決めましたというように、聖霊のお働きによるものでありました。そして今日の御言葉は、聖霊の働くとき何が起こるのかをよく教えています。それは、教会を立て上げ、教会に一致を与え、平和をもたらすということです。エルサレム会議の決議、それは、そのような結果から言っても、聖霊の導きであったことが分かるのです。聖霊とはまさしく、教会に一致を与え、教会を立て上げる霊であります。そして、私たちはその聖霊の御支配を祈り求めて、長老主義政治を採用しているのです。長老主義政治に熟達することによって、聖書的教会をこの地上に建て上げることを宣言した教会、それが私たち日本キリスト改革派教会なのです。

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