エルサレム会議 2007年9月09日(日曜 朝の礼拝)

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エルサレム会議

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 15章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
15:2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
15:3 さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。
15:4 エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。
15:5 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
15:6 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
15:7 議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
15:8 人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。
15:9 また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。
15:10 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
15:11 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」使徒言行録 15章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉の小見出しに「エルサレムの使徒会議」とあります。このエルサレムの使徒会議は、49年ごろのことであると言われます。そして、使徒言行録の文脈としては、第一回宣教旅行と第二回宣教旅行に挟まれるようにして記されています。パウロとバルナバが、アンティオキアへと帰って来て、「神が自分たちと共にいて行われたことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」とありましたように、パウロとバルナバの宣教によって、多くの異邦人が信仰へと入ったのでありました。そのように多くの異邦人キリスト者が起こされたことを背景として、エルサレム会議が行われたのです。

 エルサレム会議の発端、それは「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」ことでありました。このある人々は、ユダヤ人のキリスト者たちであります。彼らもイエスを主と信じる者たちです。その彼らが、アンティオキア教会の兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていたのです。アンティオキア教会は、ステファノの迫害によってエルサレムから散らされたヘレニストのユダヤ人によって立てられた教会であります。また、異邦人に福音を告げ知らせた最初の教会であり、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者からなる教会でありました。そのアンティオキアの兄弟たちに対して、ユダヤから下ってきた人々は「割礼を受けなければあなたがたは救われない」と教えていたのです。割礼を受けていない異邦人キリスト者が信仰生活をすでに営んでいる中で、このようなことを教えたのでありますから、そこに混乱が生じたことは容易に想像できます。そして、当然、パウロやバルナバも、彼らの教えを受け入れることはできませんでした。聖書ははっきりと「それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた」と記しています。この論争はどうも彼らだけでは決着がつかなかったようです。いつまでも平行線であったのでしょう。そこで、この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバたちを、エルサレムへ送ることにしたのです。この背景として考えられることは、「割礼を受けなければ救われない」と教えていたユダヤ人たちが、使徒たちの権威を借りて、そのように教えていたということです。ですから、パウロたちは、エルサレムの使徒と長老たちと協議する必要があったと考えられるのです。また、ここでパウロたちがエルサレムへと上ったのは、キリスト教会における、あるコンセンサス、意見の一致を得たいという願いがあったからだと思います。教会によって、何によって救われるかという教えがバラバラである。また教師によって異なるというのでは教会が立ち行かないわけですから、救いにおける共通の認識を確立したい、こう願ったのだと思います。そして、そのことは、異邦人に福音を告げ知らせ、教会を立て上げていくうえで、必要不可欠なことであったのです。

 3節に「さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリアの地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。」と記されています。フェニキアとサマリア、これらの地方はユダヤ人に取りまして、異邦人の地でありました。しかし、そこにも、キリストの教会が立てられていた。そしてそれは、ステファノの迫害によって、エルサレムから散っていたユダヤ人によって始められた教会でありました。彼らが異邦人が改宗した次第を聞いて大いに喜んだことは、彼らもその土地の人々、異邦人に福音を告げ知らせていたことを示しています。アンティオキア教会だけではない、フェニキアやサマリアの教会にもすでに多くの異邦人キリスト者たちがいたのです。ですから、これから行われるエルサレム会議は、キリスト教会全体に関わる、まさに最初の公会議であったと言えるのです。

 エルサレムに到着すると、パウロたちは、教会の人々、使徒たち、長老たちから歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告しました。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言ったのです。この「ファリサイ派から信者になった人」が、アンティオキアに下って来て、「割礼を受けなければあなたがたは救われない」と教えていた者たちと同じ人たちであったかは分かりませんが、その根っこにある考え方は同じであると言えます。ここで、わざわざ「ファリサイ派から信者になった人」とあります。ファリサイ派の人々は、福音書ではしばしばイエス様の論敵として登場して参りました。そのファリサイ派からも信者になった者たちがいたのです。ファリサイ派の人々、彼らはもともとまじめな人たちであります。神の掟が軽んじられる世にあって、まじめに神の掟を守ろうと心を砕いていた人たちです。その彼らが、キリスト者になってからも、神の掟である律法を重んじたことは、ある意味よく分かることです。割礼は、神の契約の民のしるしです。創世記の17章を見ますと、「あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしである」と言われています。そうであれば、異邦人たちも割礼を受けて、モーセの律法を守るべきだと彼らは主張したのです。

 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まり、議論を重ねました。ここにはいちいちどのような議論があったのかは記されていおりませんが、そうとう激しい議論が重ねられたのだと思います。その議論の後に、ペトロが立ってこう言うのです。

 「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは彼ら異邦人も同じことです。」

 ペトロは、ここで、10章に記されておりました。カイサリアのコルネリウスの出来事を念頭において語っています。ペトロがお昼頃、屋上に上るとある幻を見た。天から四隅をつるされた大きな布の中に、律法で食べることが禁じられていた汚れたものが入っている。そして、天から「ペトロよ、屠って食べなさい」という声が聞こえてきました。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことはありません。」そう言って断わりました。すると、再び天から声がして「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と言うのです。このようなことが三度もあった。そして、この幻の意味を考えていると、コルネリウスからの使いの者が訪ねてくるのです。「そして、ためらわず一緒に行きなさい」との聖霊の声に促されて、ペトロは、律法では禁じられていたにもかかわらず、異邦人であるコルネリウスの家に行くのです。ペトロは、「神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました。どんな国の人でも、神を恐れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と語り、「イエス・キリストこそすべての人の主であり、イエスを信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」と宣べ伝えたのでありました。そして、ペトロがまだ話し続けているにも関わらず、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったのであります。ペトロはそのありさまを見て、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言い、彼らにイエス・キリストの名によって洗礼を授けたのです。このことをペトロは、エルサレム教会にすでに報告済みでありましたけども、今朝の御言葉ではもう一度そのことを思い起こさせようとしているのです。

 ここで、ペトロが語っているのは、神の出来事であります。神が、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れてくださった。また神が、彼らの心を信仰によって清め、ユダヤ人と異邦人との間に何の差別もなさらなかったのです。これはペトロたちが体験した歴史的な事実であります。けれどもあえて、なぜ、神はユダヤ人と異邦人の間に何の差別もなさらなかったのかと問うならば、それは神が「人の心をお見通しになる」お方であるからです。エレミヤ書の17章に次のような御言葉があります。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。」

 この御言葉は、私たちの心を私たち以上に主が知っておられることを教えています。そして、主は「人の心は何もまして、とらえ難く病んでいる」と仰せになるのです。このエレミヤの言葉は、異邦人に対して語られた言葉ではありません。割礼を受け、モーセの律法を持つユダヤ人に対して語られた言葉です。割礼を受ける、包皮の一部を切り取るというこの儀式が意味することは、明らかに汚れからの清めです。それは、衛生的な面からも言えたかもしれませんが、むしろ精神的な、宗教的な意味合いにおいてでありました。それゆえ、エレミヤは、「あなたたちの心の包皮を取り去れ」とさえ語るのです(エレミヤ4:4)。申命記の30章6節にも次のように預言されておりました。「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。」

 「神が私たちの心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、神を愛して命を得ることができるようにしてくださる。」このモーセの言葉の延長線上に、エレミヤ書31章に記されている新しい契約の預言、またエゼキエル書36章に記されて新しい霊を与える預言があります。ここでは、エゼキエル書の36章25節から27節までを読みます。

 「わたしが清い水をお前たちに上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れと偶像から清める。わたしはお前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」

 ここでは、申命記が預言していた「心の割礼」が「新しい霊、神の霊が与えられる」ことによって実現されると記されています。そして、ペトロは、その預言が、自分たちユダヤ人だけではなく、異邦人のうえにも実現したと語っているのです。つまり、割礼という言葉をあえて用いるならば、キリスト者は神から聖霊を与えられることによって、心に割礼を受けた者たちであると言えるのです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、イエス・キリストを信じる者は、神から聖霊を与えられたことによって、心に割礼を受けた者たちであると言えるのです。神はそのようにして、「わたしはあなたの神であり、あなたはわたしの民である」という御言葉を実現してくださったのであります。つまり、ペトロがここで語っているように、神が備えてくださった救いの道筋は、ユダヤ人も異邦人も同じなのです。ユダヤ人用の救いの道があるわけでも、異邦人用の救いの道がある分けでもありません。主イエスが仰せになられた通り、「だれでも、わたしを通らなければ、父のもとへ行くことはできない」のです。イエス・キリストだけが、父なる神のもとへ至る道、救いに至る唯一の道なのです。

 「人の心をお見通しになる神」。それは、神の掟に従い得ない人の心を知っておられる神でもあります。ペトロが言っているように、モーセの律法は「先祖も彼らも負いきれなかった軛」であったのです。人は誰も神の掟を落ち度なく守ることはできない。それほど人の心は腐敗していることを神はご存じでありました。それゆえに、御自身の霊をお与えになる道をイエス・キリストにおいて切り開いてくださったのです。

 「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った人たちの問題はどこにあったのか。パウロたちが激しく対立せざるを得なかった理由は何であったのか。それは、割礼を受けること、またモーセの律法を守ることを、救いの条件としたことにあります。アンティオキアに下ってきた人々は、「モーセの慣習に従って割礼をうけなければ、あなたがたは救われない」と教えていたのです。しかし、ペトロは、それでは、あなたがたはモーセの律法を守ったから聖霊を与えられたのかと問うのです。そうではないことは明かであります。ペンテコステの日、ペトロはユダヤ人たちにこのように語ったのでありました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 今朝の御言葉でペトロが語っていることも同じことであります。ペトロはこう語りました。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、彼ら異邦人も同じことです。」私たちが救われたのは、割礼を受けているから、モーセの律法を守っているからではない。そうではなくて、ただ主イエスの恵みによるのだとペトロは語るのです。主イエスが、私たちに代わって、誰も負いきれなかった律法の軛を負ってくださった。そのイエスの恵みによって私たちは救われた。そして、その恵みは、ユダヤ人だけではない、異邦人にも与えられるのだ。その恵みをあなたたちは取り上げることができるか。神が聖霊を与え、御自分の民としてくださった。神が信仰によって彼らを清めてくださった。それなのに、あなたがたはその彼らに割礼を受けなければ救われないと教えるのか。それは神を試みること。神の恵みを軽んじることであると、ペトロは語るのです。ガラテヤ書に記されているパウロの言葉を用いれば、それはキリストの死を無意味にすることであるのです。

 私たちも、ユダヤ人からすれば、異邦人、まことの神を知らない者たちでありました。ですから、今朝の御言葉では、まさしく私たちのことが問題にされているのです。私たちは、聖霊を与えられて、その心を信仰によって清められた者たちであるのです。神は私たちを御自分の民、聖なる国民としてくださったのです。さらには、神の家族の一員としてくださったのです。その恵みを覚え、感謝に溢れるとき、私たちが神の掟に従う道筋が見えてきます。律法に従うこと、それは救いの条件では決してありません。けれども、律法(ここでいう律法とは十戒に代表される道徳律法のことでありますが)は私たちともはや関わりがなくなったのかと言えばそうではないのです。創立宣言に、「我らは律法主義者にあらず、また律法廃棄論者にあらず」と記されている通りであります。改革派教会の信仰告白である『ハイデルベルク信仰問答』は、第三部の「感謝について」の中で十戒について告白しています。「感謝について」という項目の中で、十戒を告白するのです。それはなぜか。それは、救われた感謝の生活においてこそ、律法はその正しい場所を持つからです。モーセを通して与えられた十戒も、もともとはそのようなものでありました。十戒を理解するうえで、決定的に大切なのはその序文であります。十戒の序文には次のように記されています。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から贖い出した者である」。神によって贖われた者の感謝の生活として、この十戒は与えられたのです。しかし、時が経つにつれて、彼らはその感謝を忘れました。神の恵みが見えなくなったのです。そして、ここに律法を守ることを救いの条件と考える、律法主義の道が生まれたのであります。けれども、それは間違いであります。なぜなら、そこには神への愛が失われてしまっているからです。神への愛、隣人への愛を失ったとき、律法を正しく守ることはできなくなります。そのことをはっきりと示したのが、イエス・キリストの十字架であります。イエス様を十字架につけた祭司長たちや律法学者たち、彼らは律法を守りました。おかしな言い方ですが、彼らはちゃんと律法を守ってイエスを処刑したのです。律法を守りながら、なぜメシアであるイエスを殺してしまったのか。律法を守りながら、なぜ神の御子であるイエスを殺してしまったのか。それは彼らが根本的なものを失っていたからです。神への愛、隣人への愛を失っていたからです。イエス様が、ユダヤの地を巡り歩きながら、教えられたことはそのことであります。あなたたちは、律法を事細かに守っているが、その根本にある神への愛、隣人への愛を忘れてはいないか。そうイエス様はファリサイ派の人々に問いかけ続けたのです。

 主イエスは、最も重要な掟は何ですかとの質問に対してこうお答えになったことがあります。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」

 神を愛し、隣人を愛する。これは先程も申し上げたように、神の掟の根底にあるものです。その掟に、私たちは従い得る者とされている。私たちを与えられている聖霊が、そのような歩みをさせてくださるのです。それはなぜか。それは私たちの心に神の愛が注がれているからです。主イエスは十字架につけられることによって、神の愛をはっきりと示してくださいました。そして、聖霊がその神の愛を私たちのうちで証ししてくださるのです。そのようにして、神は私たちが感謝と喜びをもって、神の掟に従ってゆく道を備えてくださいました。神から愛されたことを知るときに、人は神を愛することを学び始めます。そして、神を愛することを学んだとき、隣人を自分のように愛することができるようになるのです。なぜなら、その隣人も自分と同じように神から愛されている者だからです。その人のためにも主イエスは死んでくださったからであります。神を愛し、隣人を愛する。ここに、主イエスの恵みによって救われた私たちの生きる道があるのです。

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