私の記念として行いなさい 2021年5月02日(日曜 朝の礼拝)

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私の記念として行いなさい

日付
説教
村田寿和 牧師

聖書の言葉

11:17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
11:18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
11:19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
11:22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。コリントの信徒への手紙一 11章17節~34節

メッセージ

序.久しぶりの主の晩餐

 今朝の礼拝では、およそ1年振りに、主の晩餐の礼典にあずかろうとしております。4月号の『月報』の巻頭言にも記しましたが、まことの教会のしるし(マークス)は、御言葉の説教と礼典の執行であります。宗教改革者ジャン・カルヴァンは、『キリスト教綱要』で次のように記しています(4:1:9)。「神の言葉が真摯に説教されまた聞かれる所、聖礼典がキリストの制定に従って執行されるとみられる所、そこに神の教会があることは何ら疑うべきではない」。このカルヴァンの言葉を読むとき、主の晩餐の礼典を1年以上も行うことができなかったことは、教会にとって、危機的な状況であったことが分かります。私たちは、今朝、個包装のウエハースとポーションタイプのぶどう液を用いて、主の晩餐にあずかれることを、主に心から感謝したいと思います。

 今朝は、主の晩餐にひさしぶりにあずかるということで、『コリントの信徒への手紙一』の第11章から御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1.コリント教会の問題

 はじめに、コリントの信徒たちが、どのようにして主の晩餐にあずかっていたのかを確認したいと思います。コリントの信徒たちは、主イエス・キリストの復活を祝って、週の初めの日の夜に、信者の大きな家に集まって、主の晩餐にあずかっていました。この手紙が記された紀元55年頃、週の初めの日である日曜日は休日ではありませんでした。ですから、その日の仕事を終えてから、夜に集まっていたのです。また、当時は、私たちが礼拝をささげているような教会堂はありませんでした。教会と聞くと、十字架を高く掲げた建物を思い浮かべますが、そのような建物はありませんでした。コリントの信徒たちは、裕福な信者の大きな家に集まって、主の晩餐にあずかっていたのです。私たちは、主の晩餐の礼典で、一欠片のパンを食べ、少量のぶどう汁を飲みます。しかし、コリントの教会において、主の晩餐はまさしく食事でありました。皆が食べ物を持ち寄って、主イエスにささげて、主イエスからふるまわれる食事として食べたのです。そして、その最後に、私たちがあずかるような儀式としての主の晩餐(聖餐式)にあずかっていたようであります。

 主イエス・キリストの復活を祝う主の日の夜に、一緒に集まって、主の晩餐を食べる。このことは、主イエスに結ばれた者としての一致をもたらすものです(10:17「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」参照)。しかし、コリントの教会では、主の晩餐の集まりが、仲間割れを引き起こしていたのです。その仲間割れとは、自由人の信者と奴隷の信者との間の仲間割れであります。ギリシャの町コリントは、その人口の20パーセントが自由人であり、80パーセントが奴隷であったと言われています。自由人の信者は、裕福で時間も自由になりますから、自分たちだけで主の晩餐を始めてしまう。しかし、奴隷の信者は、貧しく、時間も自由になりませんから、教会に行ったときには、食べる物が残っていない。そのような状況において、自由人の信者と奴隷の信者との間に、「食べ物のうらみ」が生じていたのです。パウロは、19節から21節で、こう記しています。「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりさせるためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです。なぜなら、食事のとき各自が自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者がいるという始末だからです」。このような状況で、儀式としての主の晩餐(聖餐式)にあずかることができないのは明かであります。そして、このようなことは、貧しい信者に恥をかかせる行為であるのです。貧しい奴隷の信者は、主イエスからいただく食事を期待して、教会に来るわけです。しかし、奴隷の信者がそこで目にするのは、自由人の信者が既に食べ終わっており、自分たちの食べる物がないという光景でありました。それは、貧しい人々に恥をかかせる行為であるのです。貧しい人々ばかりでなく、主の晩餐の主人であるイエス様に恥をかかせる行為であるのです。貧しい人々は、主イエスがふるまってくださる食事を期待して、教会に来たのですから、そこで食べる物がないとなれば、それは主イエスに恥をかかせることになるのです。そのようなコリントの信徒たちに、パウロは、主の晩餐の制定の御言葉を、もう一度書き送るのです。

2.主の晩餐の制定の言葉

 パウロは、十二使徒を基とするエルサレム教会から伝承を受けた、主イエス・キリストの使徒として、主の晩餐の制定の御言葉を記しています。主イエスが十字架の死に引き渡される夜の食事、それは、イスラエルがエジプトからの脱出を祝う過越の食事でありました。旧約聖書の『出エジプト記』の第12章に、エジプトでの最後の災い、エジプトの国中の初子が死んでしまうという災いが記されています。その夜、主はエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、すべての初子を撃たれました。しかし、イスラエルの初子は死ぬことはありませんでした。神様は、イスラエルの人々に、小羊の血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗るように前もって命じておられました。そして、「家の入り口に塗った小羊の血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」と約束しておられたのです。エジプトの国中の初子が死んでしまうという大いなる災いによって、イスラエルの人々は奴隷の家エジプトから脱出することになります。過越の食事は、その主の救いの御業を祝う食事であるのです。その過越の食事の席で、イエス様は、主の晩餐の礼典を制定されたのです。過越の食事に代わるものとして、また、過越の食事を完成するものとして、主の晩餐の礼典を制定されたのです。

 主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

 主イエスは、十字架の死に引き渡される前夜に、パンとぶどう酒を用いて、御自分の十字架の死がどのような死であるのかを解き明かされました(イザヤ53章参照)。主イエスは感謝の祈りをささげて、パンを裂きました。このパンを裂く行為は大切であります。私たちは、聖餐式において、パンが裂かれるのを見て、イエス様が十字架のうえで、私たちのために肉を裂いてくださったことを想い起こすのです。イエス様は、裂いたパンを、「あなたがたのためのわたしの体である」と言われます。私たちが聖餐式であずかるパンは、「私たちのためのイエス様の体である」のです。ですから、私たちはパンを食べるとき、イエス様が私たちの罪のために、肉を裂き、死んでくださったことを感謝して、食べるべきであるのです。イエス様は、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。「わたしの記念として」とは、「わたしを想い起こすために」という意味です。私たちは、主の晩餐にあずかることによって、イエス様が私たちを罪から贖うために死んでくださったことを想い起こすのです。イエス様は、信仰の薄い私たちのために、目で見て、手で触れて、舌で味わうことができる主の晩餐の礼典を制定してくださいました。私たちは、主の晩餐にあずかることによって、確かに、イエス様が私たちのために十字架の上で肉を裂き、死んでくださったことを味わい知ることができるのです。

 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

 杯の中には赤いぶどう酒が入っていたのでしょう。その杯をとって、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われるのです。このイエス様の御言葉は、古い契約が雄牛の血によって立てられたことを背景としています。旧約聖書の『出エジプト記』の第24章に、主なる神とイスラエルの民が、モーセを仲介者として契約を結んだお話しが記されています。そこで、モーセは、雄牛の血の半分を祭壇に振りかけ、その半分をイスラエルの民に振りかけて、こう言いました。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(24:8)。このことを踏まえて、イエス様は、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われたのです。また、「新しい契約」については、旧約聖書の『エレミヤ書』の第31章に記されています。このところは、実際に開いて、読みたいと思います。旧約の1237ページ。『エレミヤ書』の第31章31節から34節までをお読みします。

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 このエレミヤが預言した新しい契約を、イエス様は、十字架の血潮によって結んでくださったのです。イエス様は、私たちに代わって神様の掟を完全に守られ、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださることによって、新しい契約を結んでくださったのです。そして、イエス様は、十字架の死から復活されて、天へと上げられ、私たちに聖霊を遣わすことによって、私たちをも新しい契約の祝福にあずかる者としてくださったのです。私たちは、イエス様によって結ばれた新しい契約に生きる者として、主を知る者とされているのです。また、神様からすべての罪を赦されているのです。主の晩餐において少量のぶどう汁を飲む私たちは、主イエスの血潮によって立てられた新しい契約の祝福に、確かにあずかっているのです。私たちは、少量のぶどう汁を飲むことによって、自分たちが新しい契約の祝福にあずかっていることを、目で見て、手で触れて、舌で味わい知ることができるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の315ページです。

3.私の記念として行いなさい

 26節をお読みします。

 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 主の晩餐において、パンを食べ、杯から飲むとき、そこで示されるのは、主イエス・キリストの十字架の死であります。主イエス・キリストが私たちのために十字架の上で肉を裂いてくださった。主イエス・キリストが私たちのために、十字架の上で血を流して新しい契約を結んでくださった。その主イエス・キリストの死を、私たちは主の晩餐において告げ知らせるのです。そして、そのような主の晩餐を、私たちは、主イエス・キリストが再び来られるときまで続けて行くことが命じられているのです。主の晩餐は、主イエスが、御自分の教会に対して、「わたしの記念としてこのように行いなさい」とお命じになった礼典であるのです。

 では、私たちは、主の晩餐の礼典に、どのような姿勢であずかるべきでしょうか。今朝は、最後にそのことをお話しして終わります。

 27節から29節までをお読みします。

 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりするものは、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。

 主イエスは、パンを裂いて、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」と言われました。また、杯を取り、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われました。しかし、そのことを忘れて、飲み食いするならば、それは主の晩餐にあずかったことにはなりません。むしろ、主の体と血に対して罪を犯すことになるのです。ですから、私たちに求められることは、自分をよく確かめること、自分を吟味することであります。この自己吟味について、『ウェストミンスター小教理問答』は、問97で次のように告白しています。「主の晩餐にふさわしく参加したい人には、次の事が求められています。すなわち、主の御体をわきまえる自分の知識・キリストを糧とする自分の信仰・自分の悔い改めと愛と新しい服従について、自己吟味することです。それは、ふさわしくないままで来て、その飲み食いによって自分にさばきを招くといけないからです」。私たちは、このような自己吟味をしてパンを食べ、杯から飲みたいと願います。そのとき、私たちは、霊的に養われ、キリストのあらゆる祝福を分け与えられて、恵みの内に成長させていただけるのです。

 パウロは、29節で、「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」と記しています。この「主の体」は、「パン」のことではなくて、「教会」のことであります(12:27参照)。教会と訳される言葉(エクレーシア)は、「召し出された者の集い」という意味です。私たちが自分を吟味するというとき、どうしても個人化してしまうと思います。しかし、そのような私たちの目をパウロは、イエス・キリストの体である教会へと向けさせるのです。私たちが主の晩餐に共にあずかるということは、私たちがイエス・キリストの十字架の死と復活の命に共にあずかる者であることを示しています(私たちが聖餐式において、一斉に食べ、一斉に飲むことの意味)。主の晩餐は教会という共同体に与えられている。このことを弁えるならば、コリントの教会で、自由人である信者が、奴隷の信者を待たずに、自分の晩餐を始めてしまうことはなかったはずです。しかし、彼らは、教会が主の体であること、主の十字架の死と復活の命に生かされている聖餐共同体であることを弁えていなかったのです。私は、今、「聖餐共同体」という言葉を用いました。教会は、主の晩餐によって建て上げられていく聖餐共同体でもあるのです。その主の晩餐に、私たちは、これから、あずかろうとしているのです。

お祈りいたします。

主イエス・キリストよ。

あなたは、私たちを罪から贖うために、十字架の上で、肉を裂き、死んでくださいました。また、あなたは、私たちのために、十字架の上で、血を流して、新しい契約を結んでくださいました。どうぞ、そのことを私たちが想い起こしつつ、信仰と悔い改めをもって、あなたの体であるパンを食べ、あなたの血であるぶどう汁を飲むことができますように。そのような主の晩餐によって、私たちをキリストの死と命に共にあずかる、一つのキリストの体として形づくってくださいますように。

主の御名によってお祈りいたします。

アーメン。

(主の2021年5月2日 主の日の礼拝)