永遠の王イエス 2007年7月29日(日曜 朝の礼拝)

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永遠の王イエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 13章26節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。
13:27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。
13:28 そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。
13:29 こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。
13:30 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。
13:31 このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。
13:32 わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。
13:33 つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/と書いてあるとおりです。
13:34 また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、/『わたしは、ダビデに約束した/聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』/と言っておられます。
13:35 ですから、ほかの個所にも、/『あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしてはおかれない』/と言われています。
13:36 ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。
13:37 しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。使徒言行録 13章26節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 前回に続いて、パウロの説教から御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。前回も申し上げましたが、16節から41節にわたるパウロの説教は、呼びかけの言葉に着目して、3つに区分することができます。はじめの呼びかけは、16節の「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」であります。2番目の呼びかけは、26節の「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち」であります。3番目の呼びかけは、38節の「だから、兄弟たち」であります。この16節、26節、38節の呼びかけに着目して、パウロの説教を3つに区分することができるのです。そしてその主題は、16節から25節までの第一区分が「救い主の約束」であり、26節から37節までの第二区分が「救い主の到来」であり、38節から41節までの第三区分が「救いへの招き」であると言えるのです。前回は、第一区分の「救い主の約束」について学びましたので、今朝は、第二区分の「救い主の到来」について学びたいと思います。

 パウロは今、ピシディア州のアンティオキアの会堂で、説教をしております。そこには、「兄弟たち」と呼ぶことができる、パウロと同じ、イスラエルの民、「アブラハムの子孫たち」がおりました。また、その中には、「神を畏れる人たち」、割礼を受けてはいないが、聖書の教えに同調していた異邦人たちがいたのです。その人々にパウロはこう告げるのです。「この救いの言葉はわたしたちに送られました。」この救いの言葉、これは23節の「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主を送ってくださったのです。」という言葉を指していると考えられます。旧約聖書サムエル記下の7章には、いわゆるダビデ契約が記されています。そこで神は、ダビデに、「あなたの身からでる子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」と約束してくださいました。そして、その約束は、ダビデの子孫からいつしかメシア、救い主がお生まれになるとの希望の約束としてイスラエルの民全体に共有されていたのです。神はその約束を実現するために、ダビデの子孫から救い主イエスを送ってくださった。これが、わたしたちに送られた救いの言葉であります。そして、その救いの言葉は、昔の人々ばかりではなく、つい最近現れた、洗礼者ヨハネも告げていたことだとパウロは語るのです。洗礼者ヨハネ、この人は民衆から預言者と目される人でありました。そのヨハネが生涯を終えようとするとき、こう告げたのです。「わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。」

 ヨハネは、「あなたたちが期待しているような者ではない」と言っていますが、これは「わたしはメシアではない」ということですね。「あなたたちが期待している者」それは救い主、メシアのことでありますから、「わたしはメシアではない」とヨハネははっきりと告げたのです。そしてその方、つまりメシアは「わたしの後から来られる」と告げたわけであります。旧約聖書の最後に、マラキ書という書物があります。これは紀元前4世紀頃に記された書物でありますが、その最後にこう記されています。

「見よ、わたしは/大いなる恐れるべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を打つことがないように。」

 ここで、マラキは、主の日の到来、つまりメシアの出現に先立って、預言者エリヤをあなたたちに遣わすと約束しております。そして、このエリヤこそが、洗礼者ヨハネであったわけです(マタイ11:14)。洗礼者ヨハネは、メシアの到来に先立ち、イスラエルの民全体に悔い改め、メシアを迎え入れる備えをせよと宣べ伝えたのです。それは同時に、救い主はわたしの後から来られるという福音でもあったのです(ルカ3:18)。それでは、人々は、メシアとして来られたイエスを迎え入れたかと言うと、そうではありませんでした。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。私は先程、26節の「救いの言葉」は、23節を指すと考えられると申しましたが、この27節との繋がりから考えるならば、この「救いの言葉」は、イエス様ご自身であるとも理解できます。ヨハネによる福音書の冒頭で、イエス・キリストが「言」と呼ばれているように、また、ヘブライ人への手紙の冒頭で、神は「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」とありますように、ダビデの子孫としてお生まれになった神の御子、イエス・キリストご自身が、「救いの言葉」そのものであると言えるのです。しかし、エルサレムに住む人々やその指導者たちは、その言葉に聞こうとはしませんでした。そしてパウロは、指導者たちがイエスを認めなかったのは安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解しなかったからだというのです。イエスを理解しなかったことと、預言者の言葉を理解しなかったことは、一つのことであるわけです。細かいことを言うようですが、ここで「預言者の言葉」と訳されているのは意訳でありまして、直訳すると「預言者の声」となります。これは、礼拝において、預言者の書が読まれるとき、それはあたかも預言者自身がそこで語っているかのように理解されたということであります。これは私たちが礼拝の中で、聖書が読まれるのを聴く時も忘れてはならないことであります。礼拝において聖書が読まれる。それは生ける神が聖書の言葉を通して、今私たちに語りかけてくださっているわけでありますね。聖書を神の言葉と信じますときに、それは今も私たちに語りかけてくださる、生きて働く言葉、力ある言葉として信じているということであります。神は、安息日ごとに読まれる預言者の声を通して、来るべきメシアの到来を予告してきたわけです。しかし、指導者たち、イスラエルの民を代表します最高法院は、その預言者の言葉を理解できなかった。そのことがイエスを認めなかったことによって、あらわとなったということであります。教える立場にある者が、実は聖書の言葉をまったく理解していなかったそのことが、神から遣わされたイエスを罪に定めることによって暴露されてしまったわけです。しかし、ここでパウロは不思議なことを言っています。指導者たちは、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解しなかったゆえに、イエスを罪に定めてしまいました。しかし、パウロはそのことによって、預言者の言葉が実現したのだと語るのであります。指導者たちが、預言者の言葉を実現させてやろうなどと考えてイエスを罪に定めたのではありません。そうではなくて、彼らは御言葉への無理解から、イエスを罪に定めてしまった。しかし、神はその指導者の無理解、不信仰を用いられて預言の言葉を実現してくださったというのであります。

 指導者たちは、イエスをどうしたか。彼らは、死にあたる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めたのであります。「死にあたる理由は何も見いだせない」これは、死刑に処せられたイエスに何の罪もなかったことを表しています。イエスは、何の罪もなかったのに、ピラトによって死刑に処せられました。イエスは死にあたる理由は何も見いだせなかったのに、十字架につけられたのです。ここでもパウロは不思議なことを言います。29節です。「こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。」

 パウロは、何の罪もないお方であるイエスが、死刑に処せられたのは、「イエスについて書かれていることが実現するためであった」と語るのです。パウロは、「人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」と語ります。木とは、イエスがはりつけにされた十字架のことですが、ユダヤ人にとって、「木から降ろし、墓に葬られる」という表現は、その死が神による呪いの死であったことを教えています。旧約聖書の申命記21章22節にはこう記されています。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」(~23a)

 パウロが、「人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」と語るとき、人々はイエスの遺体を神に呪われた者として、律法にしたがって扱ったことを教えているのです。

 これまでパウロが語ってきたことを整理しますとこのようになります。神は約束に従って、ダビデの子孫から救い主イエスを遣わしてくださった。しかし、エルサレムに住む人々や指導者たちは、安息日ごとに読まれる預言者の声を理解せず、イエスを何の罪も見いだせないのに、ピラトの手に渡して、十字架につけて殺してしまった。ユダヤ人にとって、十字架は、木に上げられるという呪いの死でありました。ですから、神から遣わされたイエスは、こともあろうに、神の民の手によって、神の呪いの死を死なれたことになるのです。これで神の計画は失敗してしまったかのように見えます。神は御自分の約束に誠実であられ、独り子を、ダビデの子孫として遣わしてくださいました。しかし、人々はそれを受け入れなかった。受け入れないどころか。神の名によって、呪い殺してしまったのです。しかし、パウロは、そこで不思議なことを言うのです。「こうして、イエスについて書かれていることが実現した」と言うのであります。イエスについて書かれていること、これはもちろん、旧約聖書に書かれていることであります。このとき、パウロの頭にあった旧約聖書の預言の言葉は何か。それはイザヤ書53章の「主の僕の苦難と死」の預言であります。以前学びました使徒言行録の8章には、フィリポとエチオピアの宦官のお話しが記されておりました。そこで、フィリポは、このイザヤ書53章から、イエスについての福音を告げ知らせたのでありました。何よりイエス様ご自身が、主の晩餐の席においてこう言われたのでありました。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」

 ここでイエス様が引用されたのは、イザヤ書53章12節の御言葉であります。イエス様ご自身が、自分はイザヤ書53章に預言されている主の僕であると仰せになったのです。パウロは、その主イエスのご理解を継承し、イザヤ書53章の預言を成就する者として、イエスについて述べているのです。そしてそれは、パウロが、使徒たちを中心とするエルサレム教会から受けたものであったのです(一コリント15:3)。ここで、改めてイザヤ書53章の預言の言葉を読んでみたいと思います。旧約聖書の1149ページ。イザヤ書52章13節から53章の12節までをお読みします。

 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしたちの聞いたことを、だれが信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/私たちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 長くお読みしましたが、パウロは、このイザヤ書の預言が、主イエスにおいて実現したと語るのです。そのようにして、何の罪もない方が、呪いの死を死なれた、事実を理解したのであります。そして、その理解が正しい理解であることは、神がイエスを死者の中から復活させてくださったことによって確かなこととされたのです。イザヤ書53章は、「主の僕の苦難と死」ばかりではなく、「主の僕の復活と栄光化」についての預言でもあります。10節の3行目に「彼は、子孫が末永く続くのを見る」とあります。また、11節の前半に、「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する」とあります。死んでしまった者が、子孫を末永く見ることも、それを知って満足することもできませんから、ここでは主の僕の復活が預言されているわけです。また、この預言の最初、52章13節には、「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」とあります。これは栄光化、昇天と神の右の着座を預言していると言えるのです。神はイエスを死者の中から復活させてくださった。それによって神は、指導者たちに認められず、木にかけられたイエスこそが、イザヤ書が預言する主の僕であることを証しなされたのです。神はイエスを復活させることにより、イエスが何の罪もないお方であることを証しなされたのであります。

 使徒言行録に戻ります。新約聖書の239ページです。

 復活したイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にも渡って姿を現してくださいました。そして、その人たちは今、民に対してイエスの証人となっているのです。さらに、パウロは語ります。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせていると。イエスの出来事、それはエルサレムに住む者ばかりではない、すべてのイスラエルの民に、このピシディア州のアンティオキアに住むあなたたちにも関わることなのだと。何より神はイエスを復活させることによって、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったからであります。神がイエスを復活させることにより、実現してくださった御言葉としてパウロがあげているのは、詩編第二編の御言葉であります。33節。「つまり、神はイエスを復活させて、わたしたちの子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。」

 詩編第二編は、王の即位の歌であります。ダビデの王家に王が即位するとき、この歌が歌われたのです。即位する王に対して、唯一の真の王であるイスラエルの神ヤハウェは、今日からお前はわたしの子だと言われるのです。イスラエルでは王の即位をそのように言い表したのであります。この詩編第二編は、王の即位の詩編でありますけども、イスラエルの歴史において、王が与えられたのは、ある限られた時代のことでありました。パウロの時代からすれば、イスラエルに王が与えられていたのは、はるか昔であります。しかし、イスラエルに王が与えられなくなってからも、この詩編の言葉は歌われ続けたのです。そうするとどうなるのか。そうするとこの詩編は、主がいつしか王を与えてくださるというメシア預言として歌われるようになるわけです。かつて神がダビデを立ててくださったように、いつしか私たちにダビデの子孫から王を与えてくださる。その神の約束の言葉として読まれ、聞かれるようになったのであります。そして、パウロは、神はイエスを復活させることによって、その約束を果たしてくださったと語るのです。さらにパウロは、復活したイエスがもはや朽ち果てることはないと告げるのです。34節。「また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した/聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』と言っておられます。ですから、ほかの個所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない』と言われています。」

 初めに引用されているのは、イザヤ書55章3節からの引用であります。そして、次に引用されているのは、ペンテコステの説教において、ペトロも引用した詩編16編10節であります。ここで言われていることはどういうことか。それは、神はダビデに約束した聖なる、確かな祝福を与えるために、朽ち果てることのない聖なるお方を王としてお与えになられたということです。旧約聖書に列王記という書物があります。その名のとおり、そこには、代々の王の名が上げられておりますが、それを読んで分かることは、どのような王が支配するかによって、イスラエルの歩みが大きく左右されるということです。良い王様、つまり神を畏れる王ならば、イスラエルも主の祝福を受けるけども、悪い王様、偶像崇拝をするような王様になれば、イスラエルの民も堕落し、悲惨を味わわなければならないわけでありますね。ですから、一番いいのは、良い王様に、できるだけ長く治めてもらうということです。しかし、神はそれよりもさらに良いことをしてくださったのです。神はダビデに約束した聖なる、確かな祝福を御自分の民に与えるために、御子イエスを復活させ、朽ちることのない、永遠の王としてお与えになられたのです。ヘブライ人への手紙が、イエスが永遠の大祭司となられたと語るように、パウロはここで、イエスが朽ちることのない、永遠の王として即位してくださったと言っているのです。そのようにして、神は詩編第二編の言葉を最終的に実現してくださったのであります。

 ダビデは、神の御心に適う理想的な王でありました。しかし、そのダビデも、やがては眠りにつき、先祖の列に加えられ、朽ち果てたのであります。しかし、神が復活させたイエス・キリストは、朽ち果てることがありませんでした。イエスは、昨日も、今日も、いつまでも変わらない、永遠の王として父なる神の右に座しておられるのです。イエス・キリストは、永遠の王として、あらゆる悪魔の働きを滅ぼし、私たちを守り、導いてくださるのです。

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