神の前で 2007年5月13日(日曜 朝の礼拝)

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神の前で

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 10章17節~33節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:17 ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、
10:18 声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。
10:19 ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。
10:20 立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」
10:21 ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。
10:22 すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」
10:23 それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。
10:24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。
10:25 ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。
10:26 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」
10:27 そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、
10:28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。
10:29 それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」
10:30 すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、
10:31 言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。
10:32 ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』
10:33 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」使徒言行録 10章17節~33節

原稿のアイコンメッセージ

 前回は、1節から16節までを学びましたので、今朝は、17節から読み進めていきたいと思います。

 前回お話ししたことですが、ペトロは、昼の12時頃、祈るために屋上に上がると、我を忘れたようになり、一つの幻を見ました。それは、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るという幻でありました。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っており、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」との声がしたのです。ペトロは、驚いて言いました。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」その布の中には、律法で食べることを禁じられていた物が入っていたのです。ペトロはこれまでユダヤ人として神が定めた食物規定に従って歩んできました。いわば、ペトロは何が清い物で、何が汚れている物であるかの区別をちゃんと身に付けていたのです。それゆえペトロは、「主よ、とんでもないことです」と意義を申し立てたのです。すると、また声が聞こえてきました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」

 イスラエルの神が定めた律法、レビ記の11章を見ますと、食べてよい生き物と食べてはならない生き物が定められています。そこでは、食べてはならない動物が、汚れていると言われているのです。これは、前回も説明しましたように、その根拠はよく分からないのですが、神様がそのように定められたゆえに、食べてはならない、汚れているということでありました。その神様が定められた食物規定に従うことによって、イスラエルの民は、日常生活においても、自分たちが主の民であることを証しするよう求められていたのです。しかし、その掟を定められた神御自身が、ここでは、「わたしが清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」とペトロに仰せになるのです。つまりそれは、レビ記の規定を定められた神ご自身が、その規定を廃棄され、すべてのものを清いとされた。すべてのものを食べてよいものとされたということを教えているのです。こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた、と記されています。それは、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」ということが神の確固とした御意志であるということです。ペトロは、この幻はいったい何だろうかと、一人で思案に暮れていたのです。その意味するところを一人で考え込んでいたのであります。そして、ちょうどその時、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家に到着するのです。彼らは、門口に立って、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねました。しかし、ペトロは、その言葉を聞いてもすぐ降りては行きませんでした。ユダヤ人であるペトロにとって、異邦人の訪問を受けるだけでも、信仰のチャレンジであったのです。けれども、そのペトロに、聖霊はこう告げるのです。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」

 この言葉に促されて、ペトロは人々の所へ降りて行き、自分がペトロのことであることを明かし、ここに来た理由を尋ねたのです。すると、彼らはこう言いました。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話しを聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」

 それを聞いたペトロは、もうカイサリアに出発するには遅すぎたので、その人たちを迎え泊まらせたのでありました。

 ペトロは、異邦人であるコルネリウスからの使いから、事情を聞くことによって、先程の幻の意味を理解したようであります。それは、28節でペトロがこう告げているからです。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くないとか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。」

 ここで、「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられています」とありますが、これは先程の食物規定と深く結びついています。交際、交わりの中心は食卓の交わりでありました。異邦人が食する物の一部は、ユダヤ人にとって汚れた物とされておりました。ですから、異邦人の食卓にあずかるならば、それはどんなものがでてくるか分かったものではない。料理の中で自分たちにとって汚れた物が使われているかも知れない。それゆえ、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられていたと言えるのです。食卓の交わり、これは教会においても中心的な交わりでありました。初代教会は、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であったと言われています。特に、パンを裂くことは、聖餐を表す言葉でありまして、当時の聖餐は食卓の交わりと一体的になされておりました。ですから、すべてのものが神によって清められたということは、ユダヤ人と異邦人の食卓の交わりを妨げてきた壁がいまや、神によって取り除かれたということを意味しているのです。それゆえ、ペトロは、ためらうことなく、異邦人であるコルネリウスの家を訪ねることができたのです。

 さて、翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけました。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った、と記されています。これは、11章12節によると、6人の兄弟たちでありました。この兄弟たちは、後にペトロが体験したことの証人となります。次の日、一行はカイサリアに到着しました。カイサリアについては何も述べませんでしたが、カイサリアは、小ローマと呼ばれるほど、ローマ風の都市でありました。そこは、ローマ総督の駐在地であり、そこには皇帝礼拝の神殿や劇場、競技場などがあったのであります。そのカイサリアにペトロは到着したのです。他方、コルネリウスは親類や親しい友人たちを呼び集めて待っておりました。この人々も、おそらくコルネリウスと同じ神を畏れる者たちであったと思います。割礼を受けてユダヤ教に改宗してはいませんけども、天地を造られた唯一の主なる神を畏れ敬う者たちであったのです。コルネリウスは、主から賜った恵みを自分と家族だけに留めておくことはしませんでした。コルネリウスは、いつも祈りに覚えていたであろう多くの人々をも、救いにあずからせたいと呼び集めて待っていたのです。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ、と記されています。ここで、「拝んだ」と訳されている言葉は、「礼拝する」とも訳される言葉であります。ですから、ここでコルネリウスは、ペトロをまるで神であるかのように拝んでしまったとも言えるのです。ある人は、このコルネリウスを姿を見て、やはりコルネリウスは異邦人であったと述べています。信仰心あつく、一家そろって神を畏れていたコルネリウスであっても、ユダヤ人なら決してしなかったであろう間違いを、ここでしてしまっていると言うのです。しかし、私は事はそれほど単純ではないと思います。確かに、新共同訳聖書の訳によれば、「拝んだ」とありますから、ここでコルネリウスがペトロをあたかも礼拝しているように読むことができます。しかし、ここで「拝んだ」と訳されている言葉は、「うやうやしく挨拶する」という意味もあるのです。いわばコルネリウスはここで、ペトロに最高の敬意を表していると言えるのであります。そのことは、コルネリウスにとって、当然のことであったと思うのですね。なぜなら、ペトロは、コルネリウスとその家族の者すべてを救う言葉を神から委ねられていた者であったからです。また、28節で、ペトロが言っているように、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることが律法で禁じられているということは、コルネリウスも知っていたことでありました。おそらく、コルネリウスに取りましても、主の天使のお告げがなければ、ユダヤ人であったペトロを自分の家に招くということはしなかったと思います。そのようなことは律法で禁じられていたことを知っていたのですから。しかし、主の天使のお告げのゆえに、コルネリウスは、ペトロのもとに使いを送り、親類や親しい友人まで呼び集めてペトロの到着を待っていたのです。そのコルネリウスが、ペトロの姿を見たとき、おもわずひれ伏してしまったのはそれほど不自然なことではないと思います。本来、来るはずのない人が来てくれたのでありますから、コルネリウスは、大喜びで、ペトロを迎えに出て、足もとにひれ伏して挨拶をしたのです。しかし、ペトロは彼を起こしてこう言いました。「お立ちください。わたしもただの人間です。」これは、「わたしもあなたと同じ人間です」という意味です。自分の足もとにひれ伏すコルネリウスを、ペトロが起き上がらせ、そのようなことはしないでください。私もあなたと同じ人間なのだからと言うのです。そして、話しならがら家に入っていたのであります。もうここに一つの奇跡が起きております。これまで、交際しなかったユダヤ人と異邦人が肩を並べて語りあっているのです。ペトロは、自分は神の民であるから、あなたたち異邦人とは違う。また、自分はあなたたちから敬意を表されて当然だなどと言ったのではありません。ペトロは、ひざまずくコルネリウスに、「お立ちください。わたしもただの人間です」と言うのです。ここで、明らかにペトロの姿勢が変えられています。神から、どんな人をも清くない者と言ってはならないことを教えられたペトロの姿をここに見ることができるのです。

 ペトロは大勢の人が集まっているのを見て、「なぜ、自分を招いてくれたのか」と尋ねます。すると、コルネリウスはこう答えたのです。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」

 ここで、記されていることは、10章1節から8節に記されていることを言い直したものであります。つまり、ペトロを招いたのは、主の天使のお告げによるものであるということです。そして、このことは、ペトロが、ヤッファの屋上において聞いた聖霊の声と一致するものでありました。そこで霊はペトロに、「わたしがあの者たちをよこしたのだ」と告げました。その聖霊の言葉が、コルネリウスの言葉を聞くことによって、ペトロの中で繋がったのだと思います。それゆえ、ペトロは、口をひらき、「神は人を分け隔てされないことが、よく分かりました」と語り出すのです。そして、コルネリウスたち一同は、主がペトロを使わしてくださったがゆえにペトロを前にしながら、自分たちは今、神の前にいると言うのです。ペトロがこれから語ろうとする言葉が、主が語るようにとお命じになった言葉であるがゆえに、ペトロを前にして、私たちは今、神の御前にいると言うのであります。ここに、私たちは神を礼拝する民の姿を見ることができます。神を礼拝する者に求められること、それはこの神の御前にいるという意識であります。もうだいぶ前になりますが、中高生会をしておりまして、皆でお祈りをすることになりました。そして、ある方のお祈りの番になったとき、なんてお祈りしていいか分からないと言われました。私はまずその人に、足を組むのをやめなさいと言いました。これから神様に祈りをささげようとしているのに、足を組んでお祈りすることはふさわしくないと考えたからです。何をどう祈るかということよりも、その姿勢そのものをまず正さなければいけないと考えたからであります。34節から、ペトロは説教を語り出すわけでありますけども、「神の御前にいる」ということは、特に説教を聞くときに求められる態度であります。なぜなら、説教は、人を通して語られる神の言葉であるからです。それゆえ、そこには聴く者の信仰が求められるのです。説教を聞くとうこと自体が、信仰を必要としていると言えるのです。もし、信仰をもって聞かなければ、今、私がお話ししていることも、空しいおしゃべりでしかありません。それこそ、若造が分かったことを言うなっということになってしまいます。けれども、その私の背後に、主イエスを見るならば、それは私の言葉であると同時に、神の言葉であると言えるのです。私たちは、説教者を召し、立てられた主なる神を礼拝しているのであります。それゆえ、どんなに優れた説教者であったとしても、その説教者自身を崇めてしまってはならないわけであります。また説教者は、自分自身の栄光を求めて説教をしては決してならないわけであります。しかし、説教者は同時に、自分が主なる神によって立てられた器であることも忘れてはならないのです。そして、その説教者の言葉に耳を傾ける者たちも、主なる神が、その説教者を通して、語りかけてくださっていることを忘れてはならないのであります。これは確かに信仰的な事柄です。そして、その信仰的な事柄を可能としてくださるのは、私たちの心に働いてくださる神の霊、聖霊にほかならないのです。聖霊が、ペトロに、「わたしがあの者たちをよこしたのだ」と言われたように、聖霊は、私たちの心にも信仰による確信を与えてくださるのです。そして、それは御言葉を通してであるのです。私の説教は、聖書のお話しばかりしているのですが、それは、御言葉を通して、聖霊の確信が与えられると信じているからであります。どんなに感動的なお話しをしても、それが神の言葉となるわけではありません。神の言葉である聖書に基づいた説教がなされ、それが聖霊のお働きによって、信仰を持って聴かれるときに、神の言葉として受け入れられる。聖霊のお働きによってはじめて、人の語る言葉が神の言葉としてその人の心に響き渡るのです。そして、そこには、説教を語る者が神によって立てられ、神の導きによって語っているという信仰がどうしても必要なのであります。今朝の御言葉で言えば、「今わたしたちは皆、神の前にいるのです」という思いがどうしても必要なのです。そして、そのことは、説教を聞く者に先だって、何より説教を語る者に必要とされることなのです。ペトロが、ひれ伏すコルネリウスに「お立ちください。わたしもただの人間です」と語り得たのはなぜか。それは何より、ペトロ自身が、主の御前に生きる者であったからであります。このペトロの言葉は、「わたしも同じ人間です」とも訳し得ると申しました。ペトロは、誰を前にしてわたしもあなたも同じ人間であると言ったのでしょうか。人の目からすれば、ペトロとコルネリウス、この二人は決して同じ人間ではありません。ペトロは、ユダヤ人であり、イエス・キリストの使徒でありました。また、コルネリウスは、ローマ人の百人隊長であり、イエス・キリストとの関わりから言えば、求道者のような存在であったのです。しかし、そのコルネリウスに対して、ペトロは「わたしも同じ人間です」と語り、立ち上がらせ、肩を並べて歩きだすのです。それゆえ、ペトロがコルネリウスに「わたしも同じ人間です」と語り得たのは、神の御前においてであったことが分かるのです。礼拝の心ぞなえをしていたのは、ペトロの説教をこれから聞こうとしていたコルネリウスたちだけではありません。説教者であるペトロ自身が、主の幻を通しまして、神の御前にすべてが人が同じ人間であること、神の御前にはどのような人も汚れている者はいないという信仰を与えられていたのです。それゆえ、私を拝んではならない。神を共に拝もうとコルネリウスを立ち上がらせるのです。礼拝とは、神が神として拝まれ、神にだけ賛美が献げられ、神の御栄光が最も端的に表される場であります。その礼拝の場で、説教者その人自身を拝んでしまったらどうなるか。それこそ、神様の御栄光を奪うことになってしまうわけです。それゆえ、ペトロはコルネリウスを即座に立ち上がらせたのでありました。

 先日、ある方が、私に「先生の言葉は何でも神様の言葉として受け入れます」と仰いました。これは、少し冗談まじりに言われたことだと理解しておりますけども、わたしはすぐに言いました。「わたしの説教をそのように受けとめてくれるのはよいけども、講壇から降りたらそのように受けとめる必要もなし、またそれは間違いである」と。急なことだったので、何だか言葉足らずな返答になってしまいましたけども、今朝の御言葉を通して、私たちが、どのように礼拝にのぞみ、また説教を聞けばよいのかがよくお分かりいただけたと思います。説教が御言葉に基づいて、生きた神の言葉として語られ、それが信仰をもって受けとめられるとき、そこに真の礼拝が成り立つのです。もちろん、真の礼拝とは、霊と真理からなる礼拝でありまして、聖霊のお働きとイエス・キリストのとりなしによるものであります。しかし、その礼拝にあずかるわたしたち一人一人に、神の御前にいるという敬虔、パイエティーが求められるのです。信仰者としての私たちの姿勢が問われるのであります。そして、それは主の日の礼拝だけではありません。私たちのすべての生活においても言えることなのです。私たちは、いついかなるときも、生活の全領域において、神の御前に生かさているのです。私たちは、週の初めの日ごとに、神を共に崇め、神の御前に生きる信仰の姿勢を正してゆきたいと願います。

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