教会の姿勢 2006年12月31日(日曜 朝の礼拝)

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教会の姿勢

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 6章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、
6:6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。使徒言行録 6章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は、今年最後の日であり、今年最後の主の日の礼拝となります。 この1年間、主からいただいた恵みを覚えて、今朝も御言葉に聞いて参りたいと願います。6章1節にこう記されています。

 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。

 初代教会は、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合っておりました。よって、信者の中には、一人も貧しいものがいなかったのであります。しかし、今朝の御言葉には、日々の分配のことで、不和が生じたことが記されているのです。それは、ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人という教会を構成していた二つのグループの不和でありました。ギリシア語を話すユダヤ人とは、ギリシア語を日常語とする外国生まれのユダヤ人のことであります。ローマ帝国に離散していた、ディアスポラのユダヤ人が、エルサレムに帰って来ていたのです。また、ヘブライ語を話すユダヤ人とは、これはパレスチナの地方で生まれ育ったユダヤ人。ヘブライ語、より正確に言えばアラム語を日常語とするユダヤ人のことであります。どちらもユダヤ人でありますけども、ギリシア語とヘブライ語ですから、どうもコミュニケーションがうまくとれなかったようです。ギリシア語を話すユダヤ人は、もうほとんどヘブライ語、アラム語が分からなくなっておりました。また、ヘブライ語を話すユダヤ人も、多少はギリシア語が分かったと思いますけども、皆が皆、ギリシア語にそれほど堪能であったわけではなかったと思います。ですから、この二つのグループは、おそらく別々に集会を持っていたのではないかとさえ考えられるのです。ギリシア語を話すユダヤ人は、そのユダヤ人だけで、ギリシア語に訳された旧訳聖書を読み、礼拝をした。また、ヘブライ語を話すユダヤ人は、ヘブライ語で旧約聖書を読み、アラム語で礼拝をした。こう考えられているわけであります。これは、言葉が違う以上、致し方ないことであったと思います。そして、言葉、言語が違うことは、生まれ育った環境が違うということでもありまして、その考え方も違う所があったことを教えています。例えば、エルサレム神殿について、ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人では、少し異なった見方をしていたようであります。3章を見ますと、ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に上っていたことが記されておりました。また、使徒たちは神殿において集会を開き、そこで伝道しておりました。ヘブライ語を話すユダヤ人である使徒たちは、神殿を大切に考えていたことが分かるわけであります。けれども、ギリシア語を話すユダヤ人の代表的な存在であったステファノの説教をお読みいただくと分かりますように、そこでは、エルサレム神殿そのものが、あからさまに疑問視されております。これは、ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間に、言葉だけではなく、その考え方にも、違いがあったことを教えているのです。8章の1節に「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」とありますが、ここで迫害の対象となったのは、おもに神殿の権威を認めないギリシア語を話すユダヤ人であったと考えられております。ですから、神殿を重んじ、神殿に詣でることを日課としていた使徒たちを初めとするヘブライ語を話すユダヤ人たちは、エルサレムに留まることができたと考えられているのです。今朝の御言葉に記されていることは、日々の分配についての苦情でありますけども、おそらくその背後には、両者の様々な行き違いというものがあったのだと考えられるのです。ギリシア語を話すユダヤ人から出た苦情は、「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられている」ということでありました。やもめとは、何らかのかたちで夫を亡くした未亡人のことであります。当時の社会において、最も弱い立場にあった者、それがやもめでありました。社会からも軽んじられやすいやもめが、教会においても軽んじられていた。このことに、彼らは苦情を申し立てたのです。「ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た」とありますから、ヘブライ語を話すユダヤ人が、その奉仕にあたっていたのでしょう。そうするとですね、知らず知らずに、ヘブライ語を話す、つまり自分と言葉が通じるユダヤ人の方へと気持ちが向いて行ったということがあったのだと思いますね。悪意はなくても、言葉の通じない者たちよりも、言葉の通じる者にその思いが向かっていくことは考えられることであります。しかし、やもめが軽んじられることは、真のイスラエルと自負します教会にとって、見過ごすことのできない大きな問題でありました。旧約聖書において、やもめと孤児の世話をすることが、イスラエル共同体に命じられていたことであったからです。やもめと孤児をないがしろにしていないかどうかが、神の御心に従って歩んでいるかどうかのいわばリトマス試験紙とされたわけであります。例えば、イザヤ書1章23節、24節に、こう記されております(旧約1062頁)。

 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。それゆえ、主なる万軍の神/イスラエルの力ある方は言われる。災いだ/わたしは逆らう者を必ず罰し/敵対する者に報復する。

 イスラエルの社会が、堕落していくとき、そのほころびは、どこに現れてくるのか。それは、社会的に弱い立場にあったやもめや孤児たちに対してでありました。ですから、誕生したばかりのキリスト教会において、やもめが軽んじられていたことは見過ごすことのできない、いわば危険信号であったと言えるのであります。

 ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちが軽んじられている。この問題を使徒たちはすべての弟子たちと分かち合いました。そして、まずこう語るのです。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」

 この使徒たちの言葉は、彼らがその分配の責任を負っていたということを教えています(4:34、35参照)。もちろん、その代金を使徒たち自らが、配って歩いたわけではなかったと思います。使徒たちのもとに、その奉仕に当たるあるグループがおりまして、そのグループを通して、使徒たちが日々の分配を管理、監督していたと考えられるわけです。5章のアナニアとサフィラのお話しで、アナニアとサフィラがそれぞれ息絶えますと、若者たちが立ち上がって、死体を包み運び出したと記されておりましたけども、使徒たちのもとにあるグループがあったのではないかと考えられているのです。しかし、弟子たちの数が増えていく中で、使徒たちは、もうこれ以上、その奉仕の責任を自分たちが担うことは無理であると考えたのでありました。もし、それを続けて行くならば、神の言葉がないがしろされてしまう危険がある。十二人は、イエス様の復活の証人として遣わされた者たちでありました。その使徒としての本来の働きがないがしろにされてしまう危険があったのです。使徒である自分たちが神の言葉よりも食卓の世話を優先することは好ましくないと彼らは考えたわけです。この「好ましくない」とは、自分たちにの好みというよりも、主なる神にとって好ましくない。主なる神がそれをお喜びにならないということであります。それでは、使徒たちは、食事の世話を軽んじているのかと言えば、もちろんそうではありません。自分たちはできないけれども、彼らは新しい役員を立てることによって、この問題を解決しようとしたのです。使徒たちは続けてこう語っています。

 「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人を選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

 使徒たちが食事の世話を決して軽んじてはいなかったことは、この奉仕にあたる人の条件からも分かります。その奉仕を任せることができるのは、聖霊と知恵に満ちた評判のよい人でなければならないと使徒たちは考えました。ここに、のちのキリスト教会は、執事職の起源を読み取ってきたわけであります。執事は、ギリシャ語で「ディアコノス」と言いますが、それと同じ根を持つ言葉として「ディアコニア」という言葉であります。これは「奉仕、接待、働き」と訳されます。1節に「日々の分配」とありますが、ここで「分配」と訳されている言葉が、ディアコニアであります。また、4節に「御言葉の奉仕」とありますが、ここで「奉仕」と訳されている言葉もやはり同じディアコニアという言葉であります。このことから分かりますことは、教会には大きく二つのディアコニアがあるということであります。それは食卓のディアコニアと、御言葉のディアコニアであります。食事の世話も、また御言葉の奉仕も同じディアコニアであり、どちらも必要な神と人への奉仕なのであります。イエス様は「人はパンだけで生きる者だけではなく、神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」と仰せになりました。ここでイエス様はパンなどどうでもよいと言っているのではないんですね。このイエス様の言葉は人がパンによって生きることを前提としております。その前提があって、パンだけではなく、神の言葉が必要なのだと仰せになったのです。私たちは、先週、クリスマス祝会の時を持ちましたけども、そのことを思い起こしていただければ、食卓のディアコニアーと御言葉のディアコニアーのどちらも大切であることがお分かりいただけると思います。ですから、使徒たちが、ここで七人の奉仕者、執事を立てるように提案しましたのは、これは主の御心をより円滑に行うためでありました。必要とされる教会の奉仕を分担し、より専念するためであったのであります。食事の世話も、御言葉の奉仕も、どちらも大切なディアコニアでありますけども、使徒たちは「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と語ったのでありました。

 弟子たち一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせました。そして、使徒たちは、祈って彼らに手をおいて、この七人を食卓の奉仕へと任命したのであります。ここで、こぞって研究者が指摘していることは、この七人はすべてギリシア的な名前であるということです。ですから、この七人は全て「ギリシア語を話すユダヤ人」ではあったと言うのであります。他方、反対論もありまして、使徒たちの中にも、アンデレやフィリポといったギリシャ的な名前を持つ「ヘブライ語を話すユダヤ人」がいたわけですから、名前だけでこの七人がすべて「ギリシャ語を話すユダヤ人」であったと結論することはできないと言うのです。しかし、私はこの七人のうちの半数、またそれ以上が「ギリシア語を話すユダヤ人」であったと考えてよいのではないかと思います。もともと、この七人を立てるきっかけとなりましたのは、ギリシア語を話すユダヤ人から苦情が出たためでありました。彼らのやもめたちが軽んじられている、その問題を解決するためであったわけです。ですから、分配の奉仕者、またそれを管理、監督する者の中に、「ギリシア語を話すユダヤ人」が多く選ばれたたことは、大変配慮のある選出ではなかったかと思うのです。

 また、私たちがここで注意したいことは、これは使徒たちが一方的に命令したことではなくて、提案しているということであります。いわば、ここに最初の会員総会の姿を見ることができるのです。そして一同は、その提案に賛成いたしまして、ステファノを初めとする七人を選んだのであります。さらに、この七人は、使徒たちの前に立たされて、いわば使徒たちによって試問されたのちに、祈りをもって按手を受け、任職したのであります。手を置くということは、これは旧約聖書にも見られた儀式であります。按手を授ける者の権威と賜物が、按手を授けられる者に受け継がれていく、このことを表す儀式であります。この七人は、使徒たちから按手を受けることによって、主の職務へと任命されたのです。私たちの教会も、新たに教会役員を立てます時に、まず選挙をいたしますね。その選挙によって選ばれた役員候補者が、先に召された役員たちによって試問され、按手を受け、任職するわけであります(詳しくは政治規準第23章を参照)。ですから、ここに、初めて教会役員が立てられた、その姿をも見ることができるのです。

 このように、新しい役員が立てられることによって、使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に専念することができ、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていったのでありました。そして、驚くべきことに祭司も大勢この信仰に入ったのであります。祭司が属していたサドカイ派は、復活を否定していたはずでありますけども、その祭司さえもイエス・キリストの復活を信じ、この方をメシアであると受け入れたのであります。それほどまでに、教会の交わりはイエス・キリストの命に溢れていたのであります。

 さて、今朝の説教題を「教会の姿勢」といたしました。今朝の御言葉によって教えられております教会の姿勢、それは何よりも御言葉を重んじる教会の姿勢であります。使徒たちは、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と語り、また「わたしたちは祈りと御言葉の奉仕に専念することにすることにします」と語りましたけども、それは使徒たちだけではなくて、一同が賛成したとありますように、教会の一致した姿勢でありました。6章の1節、7節で、「弟子」という言葉が出てきますけども、実は使徒言行録において、信者が「弟子」と呼ばれるのはここが初めてであります。この「弟子」とは、これは言うまでもなくイエス・キリストの弟子ということであります。教会は、主イエス・キリストの弟子の群れである。そのようにも言うことができるのです。その弟子たちの群れである教会が、第一に重んじたことそれは師であり、先生である主イエスの御言葉でありました。また、教会が主イエスの御言葉、神の御言葉を第一とするのは、彼ら自身が、御言葉によって救われ、その御言葉によって生かされている者たちであったからです。ローマの信徒への手紙10章17節に、「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と書いてあるとおり、神は、御言葉によって今も救われる者を起こし、御自分の民を守り、導かれるのであります。このために、私たちは、御言葉の教師の育成する神学校や研修所の働きを祈りと経済的な援助をもって支えているわけでありますね。また、教会は、御言葉を語る教師を招聘し、その働きをあらゆる面で支えているわけであります。牧師に何よりも皆さんが期待することは何でしょうか。それは、礼拝においてしっかり御言葉を語っていただきたいということではないでしょうか。これは実は牧師も同じなわけですね。牧師が願っていること、礼拝おいて御言葉を語りたい。神様の言葉を神様の言葉として語りたいということであります。そのために当然祈りは不可欠であります。また、「教会の祈り」として、皆さんのことを覚え祈っていく。まだイエス様を知らない方のために祈っていく。この世界のために祈っていく。そのことももちろん大切な務めであります。それゆえに教会は、牧師が祈りと御言葉の奉仕に専念できるように、配慮しているわけであります。感謝なことに、わたしはその配慮を十分いただいていると思っているわけであります。年報の作成や宗教法人の関係は長老さんがしてくださっていますし、また、教会会計の管理、聖餐式の準備、休まれた方への週報の郵送などは、執事さんたちがしてくださっております。また、役員だけではなくて、信徒の方お一人お一人が、教会学校教師会や伝道委員会に参加され励んでくださっています。会堂やトイレの掃除をしてくださり、説教題を書いてくださり、お花を飾ってくださり、庭のお手入れをしてくださったりと色々なことをしてくださっているわけです。もし、これらのことを私一人でやりなさいと言われればこれは大変なことでありますね。それこそ、祈りと御言葉の奉仕に専念することができなくなるわけであります。また、私が祈りと御言葉に専念できるのは、そのために時間を用いることができるからでありまして、これが世の仕事をしながらでは、これは文字通り専念することができないわけです。ですから、今、皆さんからあらゆる支えをいただいて、祈りと御言葉に専念することができることはとても幸いなことであると思っております。しかし、これは決して当たり前のことではないのですね。牧師が何でもやらなくちゃいけない教会もあるわけであります。そして、それを当然のように考える教会も残念ながらあるわけであります。

 しかし、今朝の御言葉から教えられますことは、それぞれがそれぞれの務めを忠実に果たしていくこと、その大切さであります。これは教会規定を見れば詳しく書いてあるわけでありますね。教師は教師として、長老は長老として、執事は執事として、その与えられた任務に忠実で果たしていく。そして、そこで忘れてはならないことは、その働きを通して、皆が同じ主に仕えている、奉仕しているということであります。役員ばかりではなくて、信徒の方もそうであります。洗礼を受け、また信仰告白をしたときに誓約した6項目に忠実であること、それによって同じ主に仕えていくのであります。

 また、ここで教えられておりますもう一つのことは、神の御言葉の奉仕からすべての奉仕が始まっていくということであります。神の御言葉への奉仕が貧しい者への奉仕、食卓の奉仕という愛の業を、形づくっていくのです。私たちは、神様の御心、イエス・キリストの教えを抜きにして愛の業を行っていくのではありません。いわゆる、人間は素晴らしいというヒューマニズムに基づいて、私たちは互いに愛し合おうと励んでいるのではありません。何よりも、神様がこの私を愛してくださった。いや私ばかりではなくて、私の隣りにいる兄弟姉妹をも愛してくださった。この神の愛に捉えられまして、一人の兄弟姉妹をも軽んじることなく教会は歩んでいくのであります。いわば、イエス様を中心にして、そのイエス様を取り囲むように教会の交わりは作られていくわけです。教会が神の言葉を第一とし、その神の言葉に従って歩んで行きますときに、教会の健全な成長があるわけであります。先程、私は教会から十分な配慮を今いただいていると感謝を述べましたけども、それは、やはり、これまで教会でご奉仕してくださいました先輩の先生方、嘉成先生、今井すすむ献先生、矢内先生が神の言葉を語って、この群れを養ってくださったからであります。私はときどき、牧師館のお風呂に入っておりますときに、このお風呂に矢内先生も、今井先生も入っていたのだなぁと変なことを考えることがありますけども、そんなことよりも、皆さんこそが、先輩の先生方が、心を込めて育んでこられた遺産であり、宝であるわけであります。私自身のことを考えますと、十分な時間をいただきたながら、十分な奉仕ができていないのではないかと恐れを抱くわけでありますが、しかし、ぜひそのような者のために祈っていただきたいと願うのであります。私たちはこれからも、牧師を通して語られる神の言葉に養われて、成長し、成熟していきたい。それぞれに与えられた主からの務めを忠実に果たすことによって、キリストの体である一つの教会を、この地に立て上げて行きたいと願うのであります。

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