聖霊の証し 2006年12月10日(日曜 朝の礼拝)

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聖霊の証し

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 5章17節~32節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、
5:18 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。
5:19 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、
5:20 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。
5:21 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。
5:22 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。
5:23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」
5:24 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。
5:25 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。
5:26 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。
5:27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
5:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
5:29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
5:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
5:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
5:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」使徒言行録 5章17節~32節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉には、使徒たちが再び捕らえられたことが記されています。4章1節以下に、ペトロとヨハネの二人が捕らえられ、牢に入れられたことが記されておりましたが、今朝の御言葉では、どうやら、全ての使徒たち、12人が捕らえられ、公の牢に入れられたようです。使徒たちを捕らえましたのは、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々でありました。そして、その動機は、「ねたみ」であったと記されています。前回学びましたように、使徒たちの手によって多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われておりました。信者たちは、ソロモンの回廊で集会を開き、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていったのです。この教会の成長に、祭司であるサドカイ派の人々は、ねたみを燃やした。彼らは、民衆の心が、使徒たちへと向けられていることを妬み、彼らを捕らえて公にの牢に入れたのです。

 しかし、そこで、思いもよらないことが起こります。主なる神が天使を使わし、使徒たちを牢から解放してしまうのです。主の天使は、使徒たちを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」と命じました。これは、私たちにとって、思いがけない言葉ではないかと思います。せっかく牢獄から解放されたのに、再び、神殿の境内に立って、命の言葉を告げよとは一体どういうことなのか。そもそも、使徒たちは、神殿で教えていたからこそ、捕らえられたわけです。それなのに、また、神殿の境内に立って、主イエスについて教えるなら、捕らえられるに決まっています。ですから、ここで、主が使徒たちを牢から解放したのは、使徒たちの身の安全が第一の目的ではなかったのです。もし、使徒たちの身の安全を第一とするならば、再び神殿の境内に立つようにとは言わなかったはずです。よって、天使の言葉からも分かりますように、使徒たちが解放された目的は、イエス様について教え続けるためであったのです。ここで、イエス様についての教えが「命の言葉」と言われています。あなたがたが宣べ伝えているのは、「命の言葉」であると言うのです。聞いて、受け入れる者に命をもたらす言葉であります。あなた方が宣べ伝えている言葉は、命の言葉である。それゆえ、彼らは、神殿の境内に立ち、民衆に語り続けなくてはならないのです。これを聞いた使徒たちは、はやばやと夜明け頃、境内に入って教え始めました。

 一方、大祭司とその仲間は、最高法院を召集して、使徒たちを裁こうとしておりました。ユダヤの最高法院は、祭司、長老、律法学者からなる71名の議員で構成されておりました。祭司であるサドカイ派の人々は、ねたみに燃えて使徒たちを捕らえたわけでありますけども、翌日に、最高法院を召集して、最高法院として、使徒たちについて話し合おうとしていたのです。この区別をちゃんとしておいた方がよいと思います。ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえたのは、最高法院全体ではなくて、その一部である祭司たち、サドカイ派であります。最高法院は、この祭司たちによって召集され、使徒たちについて話し合うことになったわけです。 

 そこで、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けますと、なんと使徒たちは牢におりませんでした。彼らは戻って来てこう報告します。

「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」

 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと使徒たちのことで思い惑ったと記されています。もし、鍵が壊されていたり、番兵が誰かに襲われて縛り上げられていたのであれば、これは、誰かが使徒たちを脱走させたと考えられます。しかし、鍵がしっかりとかかっており、戸の番兵が立っていたのであれば、これは、神の介入によって、つまり奇跡によって使徒たちがいなくなったと考えざるを得ないからです。彼らは、その神の介入を予感しつつ、どうなることかと思い惑ったのです。

 そのとき、人が来て「御覧ください。あなたがた牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げました。サドカイ派の人々を、使徒たちを捕らえて牢に入れることによって、彼らの働きを止めさせようとしたのでありますけども、主は天使を遣わし、彼らを牢から解放させました。そして、

使徒たちは、いつものように、いや、いつもよりも早くから、神殿で民衆を教えていたのです。使徒たちは、捕らえられることを少しも恐れず、堂々と神殿の境内に立ち、命の言葉を語り続けたのです。

 そこで、神殿守衛長は、下役たちを率いて、再度、使徒たちを捕らえるために出て行きます。しかし、彼らは民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしませんでした。石を投げつけるというのは、ユダヤの処刑方法でありますが、これは神を冒涜する罪に対する刑罰です。ルカによる福音書の20章に、イエス様が神殿の境内で民衆に教えていると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」と問うたことが記されています。それに対してイエス様はこう答えます。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」そこで、彼らはこう相談します。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」ここに、今朝の御言葉と同じ「民衆から石を投げつけられる」という恐れが出てきます。そして、それは、ちょうど民衆がヨハネを預言者と信じ込んでいたように、使徒たちを、主から遣わされた者と考えていたことを教えています。神殿守衛長たちは、民衆が使徒たちを神の権威を帯びる者として、預言者のように敬っていたことをよく知っていたのです。

 そのように、民衆が使徒たちの権威を認める中で、ただ祭司をはじめとする最高法院だけが、使徒たちによってなされた多くの徴と不思議な業に目をつぶり、彼らに与えられた権威を認めてようとはしないのです。

 守衛長たちが、使徒たちを引いて来て最高法院の真ん中に立たせると、議長である大祭司はこう尋問しました。

 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」

 かつて、ペトロとヨハネを捕らえたとき、決してイエスの名によって話したり、教えたりしてはならないと最高法院は命じておりました。最高法院は、ユダヤの最高機関でありますから、彼らは、神の名によって、神の権威によって、そのことを命じたのです。しかし、使徒たちは、その警告を拒み、いよいよ大胆に御言葉を語ることができるようにと主に祈り、そして、大いなる力をもって主イエスの復活を証ししていたのです。それが、今やエルサレム中に広がっていた。エルサレム中に満ちるまでになったというのであります。そして、困ったことに、彼らの教えは、あの男の血を流した責任を最高法院に負わせることと一つのことでありました。使徒たちは、「指導者たちが十字架につけて殺したイエスを神が復活させられメシアとなさった。自分たちはそのことの証人である。」と教えていたのですから、これがエルサレム中に広まり、多くの人がこのことを受け入れ、主を信じるならば、自分たちの存在そのものが危うくなるわけです。自分たちが処刑したイエスを神がよみがえらせ、メシアとなさったのであれば、最高法院は、そのメシアに逆らう者、しいては神に逆らう者となるわけであります。このような教えが広まれば、自分たちにあの男の血の報復が及ぶのではないか。つまり、民衆が反乱を起こし、自分たちに石を投げつけるのではないかと恐れたのです。

 これに対して、ペトロと他の使徒たちはこう答えました。

 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 ペトロをはじめとする使徒たちは、はっきりと「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言います。これは、かつて4章19節で言ったペトロの言葉よりも断定的な言葉となっています。4章19節で、ペトロは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と言いました。ここでは、まだ、最高法院の権威をいくらかは認める発言となっています。しかし、今朝の御言葉では、最高法院といえども、単なる人間なのです。それも、神と真っ向から対立する人間なのです。大祭司は「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と言いましたが、それに対して使徒たちは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」という言葉によって、最高法院の命令に従うつもりは全くないことを、再度明らかにしたのです。それは他でもない、私たちの先祖の神が、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させたからであります。言うまでもなく、ここでの「木」は十字架のことを指しています。ここで、ペトロは、旧約聖書の申命記21章の規定を念頭において語っているのです。そこには、「木にかけられた死体は、神に呪われたものである」と記されています。つまり、彼らは、イエスを、こともあろうに呪い殺してしまったのです。しかし、神はイエスを復活させられ、御自分の右に上げられた。このことによって、最高法院が神の御心とどれほど離れているのかが明かとなったのです。また、このことは、主の天使の言葉からも明かであります。最高法院は、「あの名によって語ってはならない」と命じましたが、主の天使は、「命の言葉を残らず民衆に告げよ」と命じるのです。最高法院の命令が、神の命令に背き、対立することが明らかになった以上、使徒たちは彼らに従うことはできないのです。

 ここでペトロが「わたしたちの先祖の神」と言っていることは意味深いことだと思います。「わたしたちの先祖の神」、つまり、使徒たちと最高法院のメンバーたちの神、イスラエルの唯一の神ということです。あなたたちが権威の拠り所としている神、あなたたちが神殿で仕えている神ということであります。その神があなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられたのです。ですから、これは最高法院のメンバーにも無関係なことではありません。いやむしろ、イスラエルの指導者である彼らこそが真剣に耳を傾けねばならない言葉なのです。

 当時のユダヤでは、いきなり刑罰を言い渡し執行するのではなくて、警告を与え、それでも聞かない場合は、再警告を与え、それでも聞かない場合、そこではじめて、刑罰を言い渡し執行しました。4章に、ペトロとヨハネが議会で取り調べを受けたことが記されておりましたが、その18節に「そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」とありますが、これがいわば、最高法院からの使徒たちに対する初めの警告であります。しかし、二人は、これに従うことを拒否しましたので、21節で「議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した」のです。これがいわば、再警告にあたります。ですから、今朝の御言葉で、使徒たちが最高法院に引き出されているのは、これは、彼らに刑罰を言い渡し、執行するためなのです。4章、5章と同じような記事が記されているので、なぜ、同じようなことが2回も記されているのかとと思うのでありますけども、しかし、深刻さから言えば、今朝の御言葉は前回とは比べられないほどに深刻な場面なのです。使徒たちを取り巻く危機というものは、明らかに大きなものとなっているのです。なぜなら、この議場において、使徒たちへの刑罰が言い渡され、執行されるはずであったからです。33節に、「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」とありますように、すべての使徒たちが処刑されてしまう恐れさえあったのです。そのようなことを考えますと、夜の間に主の天使が、使徒たちを牢から外に連れ出したこと。また、その天使が、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言ったことは、重要な意味を持っています。使徒たちに、主の天使による解放を通して、自分たちがどのような状態にあっても、主の守りの内にあることを教えられました。そして、自分たちの使命が「命の言葉を告げ知らせる」ことであることを改めて教えられたのです。このらのことを、再度、主から教えられ、彼らは最高法院の議場に立ったのです。そして、そこでも、堂々と「命の言葉」を語ったのです。つまり、使徒たちは、最高法院に対しても、悔い改めと罪の赦しの約束、イエス・キリストの福音を語ったのでありました。

 使徒たちが最高法院に対しても、命の言葉を語ることができたこと。これは、考えてみるとすごいことだと思います。何度も申していますように、最高法院はユダヤの最高機関であります。本来なら、普通の人である使徒たちとは関わりのない社会的に身分の高い人なのです。けれども使徒たちは、その人たちにも命の言葉を語ることができたのです。主は、使徒たちが捕らえられることを通して、最高法院にも、命の言葉を語り、悔い改めを迫られたのであります。

 31節のペトロの言葉は、少し分かりにくいかも知れませんが、要点を申し上げると、「神はイスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、イエスを御自分の右に上げられた」ということです。悔い改めも罪の赦しも天に上げられ、神の右に座しておれれる主イエスから与えられるものであるということです。このことは、悔い改めと罪赦しが聖霊の賜物であることを考えるならば、よく分かります。なぜなら、主の弟子たちに聖霊が注がれることは、主イエスが神の右に座し、父なる神から限りなく聖霊を注がれて、はじめて可能なことであったからです。私たちも、かつては真の神を知らず、イエス・キリストに背く者たちでありましたけども、聖霊によって、悔い改めと罪の赦しを与えられております。それは、イエス様が父なる神の右に座し、聖霊において今も働き続けてくださるからです。イエス様は、今も、悔い改めと罪の赦しを与えるために、御言葉を通して私たちの心に語りかけてくださるのです。

 そして、この御言葉こそ、主の天使が告げ知らせるようにと命じた「命の言葉」、イエス・キリストの福音であります。なぜ、イエス・キリストの出来事が、私たちに悔い改めを与えるのか。それは、イエス・キリストの十字架が、他でもないこの私の罪のためであったことを福音は教えているからです。神は、その独り子を給うほどに世を愛された。この私を愛してくださった。その神の愛を知るときに、私たちは悔い改めずにはおれない。罪から神へと立ち帰り、神に喜ばれる生涯を歩もうと決心せずにはおれなくなるのです。罪の赦しもそうであります。イエス様が、この私に代わって、呪いの死を死んでくださり、復活されたことを知るとき、確かに自分の罪は赦されていることを信じることができるのです。

 ペトロは、ここで、十字架に死に復活させられたイエス様が、「導き手、救い主として」神の右に上げられたと語りました。今朝は、使徒信条の解説で、ちょうどイエス様が天にあげられたことを学んだわけでありますが、イエス様が天へと上げられ、神の右に座したのは、私たちをも、天へと導くためでありました。イエス様ばかりではなくて、やがて、私たちも神の右に座し、この世界を神と共に統治することになるのです。それゆえ、ペトロはその第一の手紙で、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」と語りかけるのです。さらに言えば、私たちは、今すでに、イエスにあって、王とされ、神の右の座についているのです。ヨハネの黙示録1章6節に、「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」と記されています。また、エフェソの信徒への手紙2章6節には「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」と記されています。イエス様が天へと上げられ、父なる神の右に座しておられる栄光の姿は、私たちがやがてあずかり、いや、今すでにあずかっている栄光の姿でもあるのです。

 また、イエス様は、救い主として、つまり勝利者として天へと上げられ、父なる神の右に座られました。そこにおられるのは、裁き主としてのイエス様ではない、私たちのために執り成し、悔い改めへと招き、罪の赦しを与えたもう救い主としてのイエス様なのです。それゆえに、イエス・キリストの福音を聞いたならば、心をかたくなにしてはならないのであります。

 32節で、ペトロはこう言っています。

「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 イエス・キリストの復活と昇天を証しするのは、自分たちだけではない。聖霊もその証人であるとペトロは語ります。いわば、ここでペトロは神様を証人として持ち出しているのです。そして、これにまさる確かな証人はいないわけであります。命の言葉であるイエス・キリストの福音を証しするのは、私たち12人だけではない、私たちの内に住まう聖霊もそのことを証ししておられる。使徒たちのなした癒しの業、それは彼らの内に聖霊が働いておられることを証ししていたのです。この聖霊による証しが、すべての疑問や不信仰に決着をつけます。なぜなら、神の証しほど確かなものはないからです。

 聖霊が私たちに命の言葉を命の言葉として受け入れさせてくださるのです。イエス・キリストの言葉を、永遠に生きておられる、まことの命を持つお方の言葉として受け入れさせてくださる。そして、聖霊は、私たちが語る言葉をも、命の言葉として響かせてくださるのです。

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