キリストの尊い血によって 2021年4月18日(日曜 朝の礼拝)

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キリストの尊い血によって

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章13節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
1:14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、
1:15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
1:16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
1:17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。
1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
1:20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。
1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。
1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。ペトロの手紙一 1章13節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(3月21日)、私たちは、私たちがあずかっている救いが、旧約の預言者たちがあらかじめ証しし、福音宣教者たちが宣べ伝えている救いであることを御一緒に学びました。その救いは天使たちも見て確かめたいと願っているほどに、すばらしい救いであるのです。私たちがあずかっている救い、それは一言で言えば、「イエス・キリストにある神様との親しい交わり」であります。イエス・キリストを信じる私たちは、神の子とされ、神様を「アッバ、父よ」と呼ぶ、親しい交わりに生かされているのです。そのような、すばらしい救いにあずかっている者として、私たちは、この地上をどのように生きるべきであるのか。そのことを、ペトロは、今朝の御言葉で教えているのです。

 13節をお読みします。

 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

 ここで、ペトロが命じていることは、私たちが、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをひたすら待ち望むことです。「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み」とは、私たちがイエス・キリストと同じように復活させられて、義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐことになることです(1:3、4参照)。私たちは、イエス・キリストにあって、神様との親しい交わりを持っています。私たちは既に魂の救いを受けているのです(1:9参照)。しかし、そこに満足することなく、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み、完全な救いをひたすら待ち望みなさい、とペトロは言うのです。私たちが、イエス・キリストの現れるとき与えられる恵みをひたすら待ち望むならば、私たちは、心の腰に帯を締め、身を慎んで、イエス・キリストの再臨を待ち望むことができるのです。好き勝手なことをしながら待っているのではなくて、イエス様がいつ来られてもいいように、目を覚まして、イエス様の御心を行いながら、待ち望むことができるのです。

 14節と15節をお読みします。

 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。

 ペトロは、この手紙を小アジアに住むキリスト者たちに書き送っています。彼らは、異邦人でイエス・キリストを信じた者たちでありました(異邦人キリスト者)。ペトロは、イエス様を信じる前の彼らの生活を、「無知で欲望にとらわれていた生活」と言います。「無知」とは、まことの神様を知らないということです。まことの神様を知らずに、自分の欲望を第一として生きてきたのです。ペトロは彼らのかつての生活ぶりを第4章3節で、こう記しています。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像崇拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」。そのような無知で欲望にとらわれていた彼らが、イエス・キリストを信じて、神様に従順な子とされたのです。新共同訳は「従順な子となり」と訳していますが、元の言葉は、「従順な子として」と記されています(聖書協会共同訳参照)。私たちは、イエス・キリストを信じて、神様に素直に従う子とされました。ですから、無知であったころの欲望にひきずられてはならないのです。私たちは、従順な子として、召し出してくださった聖なる方に倣って、生活のすべての面で聖なる者となることが求められているのです。「召し出してくださった聖なる方」とは、父なる神様であり、主イエス・キリストのことです。ここでは、主イエス・キリストのことを考えたらよいと思います。「神様に倣って」と言われても、どこか抽象的に思えますが、「イエス様に倣って」と言われれば、具体的に考えることができます。イエス様は、神の御子でありながら、罪を別にして私たちと同じ人となられた御方であるからです。イエス様こそ、父なる神様に完全に従順な神の独り子であるからです。このイエス様に倣うことによって、私たちは生活のすべての面において聖なる者となることができるのです(一ヨハネ2:6参照)。

 16節をお読みします。

 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。

 ペトロは、私たちが生活のすべての面で聖なる者となる根拠として、旧約聖書の『レビ記』の第19章の御言葉を引用しています(レビ19:2)。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」。神様は、この御言葉を、エジプトの奴隷状態から導き出して、御自分の民とされたイスラエルに言われました。「あなたがたは、聖なるわたしの民とされたのだから、聖なる者として歩みなさい」と神様は言われているのです(申命7:6~11参照)。そして、同じことが、イエス・キリストを信じて聖なる者、神の民とされた私たちにおいても言えるのです(1:2参照)。私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪の奴隷状態から導き出されて、聖なる神の子供たちとされているのです。そのような者たちとして、イエス様に倣って、神の掟を守ることが、私たちに求められているのです。

 17節をお読みします。

 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活をすべきです。

 「あなたがたは聖なる者となれ」と言われる神様は、「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」でもあります。ペトロが、このように記すのは、私たちに甘えの心が生じないようにするためであると思います。「私たちは神様を父と呼んでいるので、大目に見ていただけるのではないか。あるいは、裁かれることがないのではないか」と考えてしまうのです。そのような私たちに、「あなたがたは裁き主である神様を父と呼んでいるのだから、むしろ、神様を畏れて生活すべきである」とペトロは言うのです。「この地上に仮住まいする間」とありますが、本国を天に持つ私たちにとって、この地上の生活は仮住まいの生活であるのです(1:1参照)。では、仮住まいの生活であるから、自分の欲望にひきずられて歩んでよいかと言えば、そうではありません。「旅の恥は掻き捨て」といった生活をしてはならないのです。私たちは、父なる神様の裁きの座に立つ者として、父なる神様を畏れ敬って生活すべきであるのです。

 「神様は、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる」と聞きますと、「では、私たちがイエス・キリストを信じている意味はどこにあるのか」と思われるかも知れません。もちろん、私たちは、イエス・キリストとの関係を抜きにして裁きを受けるわけではありません。神様が公平に裁かれる「人それぞれの行い」には、イエス・キリストを信じて、どのような信仰生活を送ったかが含まれているのです。ですから、私たちは裁き主である神様を、「父」と呼んでいるのです。私たちが裁き主である神様を「父」と呼んでいることは、私たちがイエス・キリストによって救われた者として裁きを受けることを意味しているのです。そして、そのことは、私たちが裁きによって滅びに定められることはないことを教えています(ヨハネ5:24参照)。私たちは、救われた者として、どのように生きたかが裁かれるのです。裁かれるとは、報いを受けることでもあります。私たちは父なる神の裁きを通して、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをいただいくのです。そのことを心に留めるとき、私たちは、イエス・キリストをいよいよ信じ、父なる神様を畏れ敬う生活へと導かれるのです。

 18節と19節をお読みします。

 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものによらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

 この手紙の宛先である小アジアに住むキリスト者たちは、まことの神様を知らない異邦人でありました。彼らはかつて、まことの神様を知らないで、欲望にとらわれて歩んでいたのです。そして、そのような空しい生活は、先祖伝来のもの、先祖代々受け継いできたものであるのです。このことは、日本に住んでいる私たちにも良く分かることではないでしょうか。今も多くの日本人が、先祖伝来のむなしい生活、神でないものを神として崇める生活を送っています。むなしい生活であっても、先祖伝来の習慣だからということで、捕らわれてしまっているのです。そのような日本社会において、なぜ、私たちがまことの神様を知ることができたのでしょうか。それは、何一つ罪のない御方であるイエス・キリストが十字架の上で、尊い血潮を流してくださったからです。ペトロは、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは」と記しています。「贖う」という言葉のもともとの意味は、「代価を払って奴隷を自由にすること」です。私たちは、先祖伝来のむなしい生活に支配され、奴隷となっていました。その私たちを自由にするために、イエス様は、金や銀を払ったのでありません。イエス様は、尊い命を代価として払って、私たちを自由にしてくださったのです(マルコ10:45参照)。「きずや汚れのない小羊のような」とありますが、それは、きずや汚れのない小羊を献げることが罪の赦しをもたらすと信じられていたからです。きずや汚れのない小羊の命が罪の赦しをもたらすならば、罪のない神の御子であるキリストの命が罪の赦しをもたらすことは当然であるのです。私たちが、裁き主である神様を父と呼び、畏れ敬って歩むことができるのは、キリストの尊い血潮によるのです。キリストの尊い血潮によって、私たちは、先祖伝来のむなしい生活から贖われて、まことの神様を父と呼び、畏れ敬う者たちとされたのです。

 20節と21節をお読みします。

 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

 ペトロが、「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていたました」と記すとき、そのキリストは、人となる前のキリスト、三位一体の神の第二位格である子なる神のことです。キリストは、聖霊によっておとめマリアの胎に宿ったときから存在したのではなく、天地創造の前から神様との親しい交わりにあったのです。「あらかじめ知られていた」とは神様に知られていたこと、神様との交わりの内にあったということです(ヨハネ1:1~3参照)。天地創造の前から神様と共におられたキリストが、人となって現れてくださいました。そのようにして、終わりの時代をもたらしてくださったのです。私たちは、人となられた神の御子、イエス・キリストにおいて、神様を知る者とされたのです。それは、より具体的に言えば、イエス・キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神様を信じるようにされたということです。ここで、ペトロは、「キリストによって信じています」と記しています。「キリストによって信じる」とは、「キリストの聖霊によって信じる」ということです。私たちは、死者の中から復活させられ、天にあげられたキリストの聖霊を与えられて、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神様を信じているのです。私たちの信じている神様は、キリストを十字架の死から復活させ、栄光を与えられた神様である。ペトロは、この神様に、あなたがたの信仰と希望がかかっていると記します。ペトロがこのように記すのは、この手紙の宛先である小アジアに住むキリスト者たちが、イエス・キリストを信じることのゆえに、苦しみを受けていたからです(2:12、3:16参照)。キリストを死者の中から復活させ、栄光を与えられた神様は、キリストのゆえに苦しむ者たちをも、復活させ、栄光を与えてくださいます。私たちが信じ、希望を置いているのは、そのような神様であるのです。

 22節と23節をお読みします。

 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって生まれたのです。

 「真理を受け入れて」とありますが、元の言葉を直訳すると「真理に従って」となります(聖書協会共同訳参照)。ここでの「真理」は、イエス・キリストのことです(一ペトロ1:2参照)。私たちは、イエス・キリストに従うことによって、清められ、偽りのない兄弟愛を抱く者とされているのです。私たちが偽りのない兄弟愛を抱く者とされたことは、私たちが神の言葉によって新しく生まれたことに由来します。私たちは、神の言葉によって、神様を父とし、イエス様を長兄とする兄弟姉妹として新しく生まれたのです。そのとき、神様は、私たちに神様とイエス様を愛する愛だけではなくて、主にある兄弟姉妹を愛する愛を与えてくださったのです。それゆえ、ペトロは、清い心で熱心に愛し合いなさいと命じるのです(「深く」は「熱心に」とも訳せる)。「あなたがたは、魂を清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようにされている。だから、清い心で熱心に愛し合いなさい」とペトロは言うのです。このペトロの言葉を読んで、私たちは、戸惑いを覚えるのではないでしょうか。コロナウイルスの影響によって、お茶の交わりさえ控えている現状にあって、どのように愛し合えばよいのかと思うのです。そのようなことを踏まえて、わたしは二つのことをお勧めしたいと思います。一つは、熱心に礼拝に出席するということです。私たちは熱心に礼拝に出席することによって、他の兄弟姉妹を励ますことができます。そして、もう一つは、熱心に兄弟姉妹のことを覚えてお祈りをささげるということです。礼拝に出席することと互いのために祈り合うこと。この二つのことは、現状においてもできる兄弟姉妹への愛の表現ではないかと思います。

 24節と25節をお読みします。

 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

 ここで、ペトロは、旧約聖書の『イザヤ書』の第40章の御言葉を引用しています。私たちが信じて救われた福音こそ、イザヤが預言していた「永遠に変わることがない主の言葉」であるのです。私たちは、永遠に変わることのない主イエス・キリストの福音によって新しく生まれたのです。そして、私たちは、永遠に変わることのない主イエス・キリストの福音を宣べ伝えているのです。

 ペトロは、16節で『レビ記』の第19章の御言葉を引用しました。また、24節と25節で、『イザヤ書』の第40章の御言葉を引用しました。このことは、意味があることだと思います。『レビ記』の第19章は、エジプトから導き出された民に語られた御言葉です。そして、『イザヤ書』の第40章は、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と語り出される、バビロン捕囚からの解放を告げる御言葉であります。ペトロは、『レビ記』と『イザヤ書』の御言葉を引用することによって、私たちがあずかっている救いが、エジプトからの脱出とバビロン捕囚からの解放に匹敵する救いであることを教えているのです。エジプトからの脱出とバビロン捕囚からの解放に匹敵する救いを、いや、それらに勝る、罪からの救いを、主イエス・キリストは十字架の贖いによって、成し遂げてくださったのです(イザヤ53章参照)。ですから、私たちは喜びと感謝をもって、聖なる神の子供たちとして、父なる神様を畏れ敬い、互いに愛し合って歩んでいきたいと願います。

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