神、それは愛 2008年10月12日(日曜 朝の礼拝)
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神、それは愛
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙一 4章7節~12節
聖書の言葉
4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
ヨハネの手紙一 4章7節~12節
メッセージ
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キリスト教会の礼拝では、必ず聖書が読まれ、聖書に基づくお話しが語られます。それが礼拝の中心であると言ってもよいほどです。なぜなら、私たちは聖書が神の言葉であり、聖書を通して、神さまは私たちに語りかけておられると信じているからです。神さまは今も聖書を通して、御自分がどのようなお方であるかを私たちに示してくださるのです。先程お読みしていただいたヨハネの手紙一にも、神さまがどのようなお方であるかが端的に言い表されておりました。
神は愛だからです。
「神は愛である」。これがまず私たちがしっかりと胸に刻まなければならない聖書の教えであります。「神は愛である」。すばらしい御言葉であります。「神は愛である」。ふと口ずさみたくなるような御言葉です。けれども、もう少し踏み込んで考えますと、ここでの「愛」はどのような愛なのでしょうか。「愛」と聞いても、おそらくそれぞれに抱かれるイメージは異なるのではないかと思います。ある人は、親子や兄弟との愛を思い浮かべるかも知れません。またある人は、友達との愛を思い浮かべるかも知れません。またある人は、異性との愛を思い浮かべるかも知れません。これらの愛は、私たち人間が成長していく過程において体験し、必要としているところの愛と言えます。生まれたばかりの赤ちゃんに必要なのは、何よりも親の愛であります。その親の愛に育まれながら大きくなるにつれ、友達との愛に育まれ、異性との愛に育まれる。また、結婚して子供を授かれば、子供との愛に育まれるようになるわけです。このようなさまざまな愛に育まれながら、今の私たち一人一人があるのです。このような私たちが体験している愛から、私たちは「神は愛である」というときの「愛」についてもそれぞれにイメージを抱くのだと思うのです。しかしここでは、それを一度脇へ置いていただいて、神の愛について考えてみたいのです。
「愛することはすばらしい」ということは、誰でも言うことでありますし、そのことを否定する人はいないと思います。けれども、愛するとはどのようなことなのでしょうか。聖書は、神さまを知れば愛することがどういうことであるかが分かると言うのです。誤解してはならないのは、ここで「愛が神である」とは言われていないということです。人間の愛が、神のように崇めたてまつられるということではないのです。もちろん、私たち人間にも愛する心はあります。聖書は、わたしたち人間が神のかたちに似せて造られたと教えています。ですから、私たち人間に、愛する心があるのは当然のことなのです。神は愛である。それゆえ、その神に似せて造られた人間も愛する心を持っているわけです。けれども、私たちが自らを省みれば分かりますように、私たち人間の愛ははなはだ歪んだ愛となってしまっているのです。その理由についても、聖書は記しておりまして、はじめの人アダムが、神さまの掟に背いて罪を犯したことによると教えています。神のかたちに造られたアダムとエバは、神さまの掟に背くことによって、良い創造の状態から堕落してしまった。それによって、人の神のかたちは歪められ、同時に人の愛も歪んでしまったのです。ですから、「神は愛である」という言葉を、私たち人間の愛から思い描いてみても、神さまについて正しく理解することはできないのです。私たち人間の愛から出発して、「神の愛はこのようなものだ」と言うことはできないのです。しかしながら、人間の愛から神の愛を類推することは可能であります。私たちの知識や経験から神の愛を正確に捉えることはできなくても、そこに近付くことはできるのです。事実、聖書は、神さまが父や母以上に私たちを愛しておられることを至るところで教えています。例えば、詩編第27篇に次のような御言葉があります(9b-10)。旧約聖書の858ページです。
救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。
また、イザヤ書第49章で、主なる神はこう仰せになっています(14-15)。旧約聖書の1143ページです。
シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。
このように、聖書は、神が私たちの父や母以上の愛で私たちを愛してくださっていることを教えているのです。母親が自分の産んだ子を憐れむ心、それはおそらく人間の愛の最たるものであると思います。しかし、神さまは、たとえ母親が忘れることがあっても、わたしはあなたを忘れることは決してないと言われるのです。
ヨハネの手紙一に戻りましょう。新約聖書の445ページです。
「神は愛である」と言うとき、その愛の中に自分は含まれていないというのではなくて、まさに神の愛に自分が包まれているがゆえに、「神は愛である」と私たちも口にすることができるのです。なぜなら、この神の愛からだれ一人洩れるているものはいないからです。ここに私たち人間の愛と神さまの愛の違いが明白に表れています。先程、母親の愛についての聖書の御言葉を読みましたけども、母親が憐れむのは自分の産んだ子供であります。私たち人間は有限でありますから、私たちの愛の対象も限られているわけです。けれども、神さまは無限のお方であります。神さまの愛にここまでという限界はありません。なぜなら、神さまはすべての人をお造りになったお方であるからです。母親が自分のお腹を痛めて生んだ子供を愛するように、いやそれ以上にすべてのものをお造りになった神さまはすべてのものを愛しておられるのです。ですから、この神の愛から、だれ一人洩れることはないのです。神さまはすべての人を愛しておられる。その神の愛のしるし、神の愛の確証が、神の独り子イエス・キリストを遣わし、十字架につけるという出来事であったのです。
9節から10節まで、こう記されています。
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました」。これは今からおよそ2000年前に起こったクリスマスの出来事を指しています。今からおよそ2000年前、神の御子イエス・キリストが、聖霊によりて処女マリアの胎にやどり、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。これは神の御子が人となられるというまことに驚くべき出来事であります。そして、ヨハネはその目的を、「わたしたちが生きるようになるためです」と記すのです。こう聞いて、イエスさまが遣わされる前にも人々は生きていたではないかと思うかも知れません。そして、その指摘はある意味で正しいのです。しかしここでヨハネが「生きる」という言葉を、ただ息をして、動いているという生物学的な意味で用いていないことは明かです。ここでの「生きる」とは、何より神との交わりに生きるということです。神はすべてをお造りになられた命の命でありますから、この神との交わりに生きるとき、人は本当に生きていると言えるのです。ですから、「わたしたちが生きるようになるためです」という言葉は、「わたしたちが神との交わりに生きるようになるためです」という意味なのであります。神さまは、私たちが再び御自分との愛の交わりに生きることができるように、大切な独り子を世に遣わされたのです。そして、ヨハネは、「ここに神の愛がわたしたちの内に示されました」と語るのです。神さまの愛は、口先だけの愛ではありません。大切な独り子を世に与えるほどの愛なのです。そして、その愛は、私たちを永遠の命に生かす愛なのです。このように神さまの愛は、自己を犠牲にし、他者を生かす愛なのです。神さまの愛が、自己を犠牲にし、他者を生かす愛であることを知るとき、私たち人間の愛の歪みが見えてくるのです。なぜなら、私たちの愛は、自己犠牲をいとい、他者を真の意味で生かすことができないからです。自己犠牲とは、具体的に言えば、他者のために時間や労力やお金をささげることであると言えます。私たちは自分のためなら時間や労力やお金を惜しみません。しかし、他者のためには驚くほどそれらを用いようとはしないのではないでしょうか。私たち人間の愛はしばしば自分の利益のためであり、自己愛の延長に留まっているのです。けれども、神さまは、私たちがまだ敵であったときに、私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになったのです。
自分のことを話して恐縮ですが、わたしは、今ではイエス・キリストを信じ、神さまを愛しておりますけども、初めからそうであったわけではありません。わたしがはじめてキリスト教会の礼拝に出席したのは、20歳頃でありました。今でも覚えているのですが、わたしがまだ高校生だった頃、「俺は無神論者」という題の詩を書いたことがあります。内容は、その題名どおり、神などいるものかというものでした。しかし、そのような冒涜的な言葉を書き綴っていたときにも、神さまはわたしを愛してくださっていたのです。私たちが神さまを愛していなかったとき、愛するどころか神さまに反逆の罪を犯していたときに、神さまの方では、私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになっておられたのです。先程、はじめの人アダムが神の掟に背き、罪を犯したと申し上げましたが、アダムとエバは罪を犯したあと、エデンの園から追放されてしまいます。このことは、人間が神さまとの親しい交わりを失ってしまったことを象徴しています。なぜ、神さまはアダムとエバをエデンの園から追放されたのか。それはアダムとエバが罪に汚れた者となってしまったからです。神さまは聖なるお方、義なるお方でありますから、罪に汚れた人間と親しい交わりに生きることはもはやできませんでした。また罪を犯した人間にとっても、義なるお方である神さまの御前に出ることは、耐えられない恐るべきこととなったのです。しかし神さまは、義なるお方であると同時に愛なるお方であられます。それゆえ、神さまは独り子をお遣わしになり、本来私たち人間が受けるべき罪の刑罰をその独り子のうえに下されたのです。独り子を、私たちの、いや全世界の罪を償ういけにえとして、十字架のうえで屠られたのです。そして、ヨハネは「ここに愛があります」と断言するのです。ここにも、私たち人間の愛との違いがあざやかに表れています。わたしたち人間の愛は、自分にとって価値がある者を愛する条件付きの愛です。このことは、異性を好きになることを考えればすぐに分かります。かっこいいから、頭がいいから、お金をもっているから、運動ができるから。私たち人間の愛にはしばしばそのような条件が伴うのです。けれども、神さまの愛はそうではありません。神さまの愛は、対象そのものを愛する愛、無条件の愛です。あなたが何々だから愛するという「だからの愛」ではなくて、あなたの存在そのものを愛する愛であります。私たち人間が罪人であることを考慮に入れるならば、神さまの愛は「にもかかわらずの愛」と言えるのです。私たちが神を憎んでいたにもかかわらず、神は私たちを愛してくださったのです。そのように神の愛は、対象に左右されない自由な愛なのです。私たち人間は自分にとって価値のあるものを愛します。しかし、神さまは自由な愛によって価値を造り出すお方なのです。聖書は、神さまが私たちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになったと教えています。誤解を恐れずに言えば、神さまは、御子イエスよりも私たち一人一人の命を重んじてくださったのです。そしてそれは、私たちがこの神の愛をもって互いに愛し合って生きるようになるためであるのです。私たちが互いに愛し合って生きることができるように、神さまはイエス・キリストにおいて、わたしたちに御自身の愛を示してくださったのです。
よく、「人は愛されることによって、人を愛することができるようになる」と申します。この言葉が真実ならば、イエス・キリストにおいて神から愛されていることを知った私たちは、どれほど人を愛する者とされているのか分からないほどです。もちろん聖書が、「わたしたちも互いに愛し合うべきです」と語るとき、生まれながらの私たち人間の愛で愛し合うことを求めているわけではありません。「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから」とあるように、神の愛をもって互いに愛し合うことが命じられているのです。それは神の霊、聖霊によって与えられる賜物としての愛であります。
キリスト教会は、どの教会でも十字架を屋根に掲げています。それは私たちが十字架に神の愛の確かさを見るからです。たとえ、私たちがこの世で不幸と呼ばれる状態にありましても、神が愛であることは揺るぎません。神の愛は、私たちが健康であるとか、順調であるとかによって決まるのではないのです。私たちが神は愛であると思えばそうだという私たちの主観によるものではないのです。「神は愛である」。これは、歴史の中に起こったイエス・キリストの派遣と十字架という出来事に基づく真理なのです。独り子をお与えになったほどの神の愛を本当に知るとき、私たちは自分自身を愛さずにはおれなくなる。そして、人を愛さずにはおれなくなるのです。なぜなら、神の愛を知るとは、このわたしが愛されていることを知ると同時に、わたしと同じようにすべて人が神さまから愛されていることを知ることであるからです。そして、その神の愛を知った私たちが互いに愛し合うとき、イエス・キリストにおいて示された神の愛は全うされるのです。イエス・キリストの十字架において現された神の愛は、私たちが互いに愛し合うときはじめて、その目的を達成するのです。
皆さんは、「すべての人が愛し合うことができたらよいのに」と考えたことはないでしょうか。「誰とでも、親しく挨拶を交わし、心を通わせることができたらよいのに」と憧れたことはないでしょうか。神さまはそのような交わりを実現するために、御子イエス・キリストを遣わし、十字架につけ、そして死から三日目に復活させられたのです。「ここに愛がある」と胸を張って言うことができる交わりを十字架のもとにお造りになったのです。神さまに愛されていることを知った私たちは、今度はその神の愛をもってすべての人を愛するようになることを期待されております。イエス・キリストにおいて神の愛を知った私たちは、互いに愛し合うという愛の課題を共に負っているのです。しかし、それは決して重苦しい、投げ出したくなるような課題ではありません。なぜなら私たちは、イエス・キリストを信じた日から、神の愛に包まれ、育まれているからです。ですから、わたしは最後にこう呼びかけたいと思います。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」。