すべての民を裁くイエス 2015年11月01日(日曜 朝の礼拝)

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すべての民を裁くイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 25章31節~46節

聖句のアイコン聖書の言葉

25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」マタイによる福音書 25章31節~46節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉には、イエス様が栄光の人の子として来られることとそれに続く裁きが記されています。イエス様は、父なる神様から裁きを行う権能を与えられた人の子として、すべての国の民を集め、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らを分けられるのです。「すべての国の民がその前に集められる」とありますように、イエス様の裁きの対象は、すべての国の民、全人類であります。また、イエス様は、ヨハネによる福音書の5章28節、29節で「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」と言われていますから、イエス様の裁きの対象は、すでに死んだ者たちをも含んでいます。イエス様が栄光の人の子と来られる時代に生きているすべての人とこれまで地上に生きていたすべての人が、まさしく全人類がイエス様の御前に集められ、裁きを受けるのです。それはまさしく世界と歴史の総決算とも言える最後の審判であります。そのような光景は、私たちの想像を超えているまことに壮大なものです。そもそも、そんなに人が集まれるのだろうか、物理的に無理があるのではないかと考えてしまいます。ですから、おそらく、何回かに分けて行われるのではないかと思います。あるいは、いくつかのグループごとに行われるのではないかと思います。今朝の御言葉は、イエス様が弟子たちに語られた教えであり、また、右側にいる人たちも、左側にいる人たちも、イエス様を「主よ」と呼んでおりますから、ここには、イエス様を主と告白する教会への裁きが記されていると読むのがよいと思います。イエス様は、羊飼いが羊と山羊を分けるように、私たちを右と左に分けられるのです。そのように言われますと、私は右に置かれる羊であろうか、それとも左に置かれる山羊であろうかと考えると思いますが、先ず右側に置かれた人の気持ちになって、イエス様の御言葉に聞きたいと思います。イエス様は右側にいる人たちにこう言われます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。このイエス様の御言葉を聞いて、右側にいる人たちは安堵したと思います。しかし、彼らには疑問に思うところがありました。それで、こう質問するのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」。おそらく、彼らはイエス様とお会いしたのはこれが初めてであったと思います。私たちもイエス様を直接、この目で見たことはありません。イエス様がどのようなお顔であるのかを知らないです。ですから、もし、私たちが、イエス様から「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせてくれた」と言われれば、「はて、それはいつのことであろうか」と疑問に思うと思います。そのような疑問に対して、イエス様はこう答えられます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。イエス様は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのはわたしにしてくれたことなのだ」と言われるのです。では、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは、誰のことでしょうか?これにはいくつかの解釈があるのですが、先ず考えられるのは、イエス様から遣わされた福音宣教者たちのことであります。と言いますのも、イエス様は10章40節から42節で、十二人の弟子たちにこう言われていたからです。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。ここで、イエス様から遣わされる弟子たち、福音を宣べ伝える者たちが、「この小さな者の一人」と呼ばれています。また、「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われておりますから、今朝の御言葉の「のどが渇いていたときにも飲ませ」とも対応します。またイエス様は、十二人を遣わすにあたって、「町や村に入ったら、そこでふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」と言われましたが、これは、「旅をしていたときに宿を貸し」と対応するわけです。このように、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」とは、イエス様によって遣われた福音を宣べ伝える弟子たち、今で言うところの牧師や宣教師を指しているのです。私も中会で教師として任職し、この教会に遣わされている牧師でありますが、私の生活も皆さんによって支えられているわけです。

 もう一つの解釈は、福音宣教者に限られず、「すべてのキリスト者」を指すという解釈です。その根拠としてあげられるのは、18章のイエス様の教えであります。そこでイエス様は、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と教えられました。

 また、「この最も小さい者」を、キリスト者であるかないかに関わらず、貧しく助けを必要としている人たちとも解釈する人もおります。しかし、ここでイエス様は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」と言われていますので、何よりもイエス・キリストを信じる者たちのことが言われていると思います(12:50、28:10参照)。つまり、ここでイエス様が問題とされていることは、福音宣教者を含めた主にある兄弟姉妹に対して、私たちがどのように振る舞ったのかということであるのです。イエス様は、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われましたが、このことは、使徒言行録9章でも教えられていることであります。使徒言行録の9章には、迫害者であったサウロ(パウロ)に、栄光の主イエスが出会ってくださったことが記されています。主は光の中から「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言われました。サウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、主は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えられたのです。サウロが迫害していたのは、キリストの弟子たちでありましたが、主イエスは、「あなたが迫害しているのはわたしだ」と言われたのです。それと同じように栄光の主イエスは、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われるのです。

 世の終わりの裁きにおいて、主にある兄弟姉妹に対する振る舞い、愛の業が問題となると聞きますと、それでは行いによって救われることになるのではないかと、いぶかる方もおられるかも知れません。しかし、ここで問題とされているのは、愛において働く信仰であるのです。王の右側にいる人も、また左側にいる人も、イエス様を「主よ」と呼んでいます。そのことから判断しますと、彼らはどちらもイエス様を信じる者、イエス様を愛する者なのです。そのイエス様の信仰、イエス様への愛が本物であったかが、主にある兄弟姉妹への愛の業によって証明されるのです。私はイエス様を信じている、イエス様を愛していると言っても、主にある兄弟姉妹が飢えていたとき食べさせず、喉が渇いたとき飲ませず、旅をしていたとき宿を貸さず、裸のとき着せず、病気のとき、牢にいたとき訪ねなかったならば、それは、主にしてあげなかったのと同じことであるのです。

 こういうことを考えたらいいと思います。私たちは自分がイエスを主と信じるキリスト者であることをどのように他の人に対して証明することができるでしょうか?私は洗礼を受けた。私は信仰告白をした。私は何十年も教会に通っている。使徒信条・十戒・主の祈りを暗唱している。教会役員である。いくつものことが言えると思います。では、栄光の主であるイエス様の前に、どのようにして、自分がキリスト者であることを証明することができるのか?「主よ、主よ」と呼ぶことでしょうか?御名によって預言し、奇跡を行ったことでしょうか?そうではありません。イエス様が求められる証拠は、私たちが主にある兄弟姉妹に対して行う愛の業であるのです。もちろん、主にある兄弟姉妹に限定しないで、すべての人に愛の業を行うことは大切なことであります(ガラテヤ5:10参照)。しかし、私たちがキリスト者であることのしるしとして求められていることは、主イエスによって愛されている者として、互いに愛し合うことであるのです(ヨハネ13:34,35参照)。

 ここに記されていることは、「愛の業」と言うには大げさかも知れません。飢えている人がいれば食べ物を差し上げる。のどが渇いている人いれば飲み物を差し上げる。ここに記されていることは、イエス様が、山上の説教の中で教えられた黄金律そのままであります。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。お腹が空いていれば、何か食べたいと思う。のどが渇いていれば、何か飲みたいと思う。その自分がしてもらいたいことを人にしなさいとイエス様は教えられたのでありました。そのイエス様の教えを、主にある兄弟姉妹の交わりにおいて実践したかどうか、そのことがここで問われているとも言えるのであります。先程、私は、ここで言われていることは、「愛の業」と呼ぶには大げさかも知れないと申しましたが、読み進めていくとそのように言えないことに気づかされます。それは最後に、「牢にいたときに訪ねてくれたからだ」とあるからです。これは、何か罪を犯して投獄されているのではありません。イエス・キリストの福音のゆえに投獄されているのです。そして、そのような者を訪ねることは自らの身に不利益や危険を招く行為であったのです。少し前に、水曜日の祈祷会で、テモテへの手紙二を学びました。テモテへの手紙二は、パウロがローマの牢獄の中で記した手紙でありますが、そこでパウロが嘆いていることは、皆が自分を見捨ててしまったということです。それほど、福音のために牢に捕らわれている人を訪ねることは大変なことであったということであります。

 今朝の御言葉を読みますときに、厳しいなあという印象を受けるのではないでしょうか?イエス様を信じるだけで救われると教えるガラテヤの信徒へ手紙の方が、よっぽど良いと思われるかも知れません。これは、いつかも月報の巻頭言に書きましたけれども、対象としている読者が異なることにその一つの原因があります。一般的にマタイ福音書はユダヤ人キリスト者に、ガラテヤ書は異邦人キリスト者に宛てて記されたと考えられているわけです。また、書き方の違いもあるわけです。マタイによる福音書は、イエス様の言行録でありまして、ガラテヤ書は手紙であります。ガラテヤ書も、後半では聖霊に導かれる良き生活について教えているわけですが、マタイ福音書では、それが凝縮したかたちで記されているのです。私たちに求められているのは、口先だけで「主よ、主よ」という信仰ではなく、主にある兄弟姉妹に対して、具体的になされる愛という実を結ぶ信仰であるのです。それは、私たちのうちに聖霊が働いてくださり、実を結んでくださるところの愛の業であるのです。

 今朝の御言葉を理解するための助けとなる御言葉が、ヨハネの手紙一の4章19節から21節に記されています。そのところを読んで今朝は終わりたいと思います。

新約の446ページです。

 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

 ここでの「神」を「イエス」と言い換えると、今朝の御言葉に記されていることと同じことが記されていることが分かります。イエス様を信じるとは、イエス様を愛することですが、イエス様を愛していると言いながら、イエス様の兄弟姉妹を愛さないならば、それは真実な信仰、主の裁きに耐え得る信仰とは言えないのです。

 このようにイエス様が前もって私たちに教えられるのは、私たちが主にある兄弟姉妹に対して、「自分がしてもらいたいことを、何でもしなさい」という教えを実行し、私たちが愛において働く信仰に生き、永遠の命にあずかるためであるのです。イエス様は、私たちを怖がらせようとして、あるいは絶望させようとして、このように言われているのではありません。イエス様は、私たちが主に愛されている者たちとして互いに愛し合うこと。そのことによって、祝福された者たちであることを確かにするようにと求めておられるのです。

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