タラントンのたとえ 2015年10月25日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

タラントンのたとえ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 25章14節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」マタイによる福音書 25章14節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 24章で、イエス様は世の終わりについて、弟子たちに教えられました。聖書は、この世界とその歴史が神様の創造の御業によって始まったことを教えています。「初めに、神は天地を創造された」とありますように神様によって、世界とその歴史は始まったのです。そして、世界とその歴史は神様によって終わりを迎えるのです。神様は、イエス・キリストを栄光の人の子として天から遣わされることによって、この世界と歴史を終わらせ、新しい世界を来たらせるのです。その新しい世界が、14節で、「天の国」という言葉で言い表されています。ここでの天の国は、イエス様が栄光の人の子として来られることによって完成される天の国のことであります。天の国はイエス様において、今からおよそ2000年前に到来しました。その天の国を、イエス様は栄光の人の子として天から来られることによって完成してくださるのです。では、イエス様は、いつの日に、天から来られるのでしょうか?それは分かりません。私たちに求められていることは、イエス様がいつ来られてもいいように用意をしていることであるのです。イエス様は、そのことを、前回学びました「十人のおとめのたとえ」を通して教えられたわけです。

 今朝の「タラントンのたとえ」でも、イエス様は、弟子である私たちにどのように、御自分を待っているべきかを教えてくださっています。それはひと言で言えば、「託された務めに忠実である」ということです。結論を先取りして言うならば、主人であるイエス様の帰りを待つ僕である私たちには、託された務めに忠実であることが求められているのです。そのことをイエス様はタラントンのたとえを用いて、まことに生き生きと教えてくださるのです。

 ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けました。主人はそれぞれの僕の力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出ました。「タラントン」とは通貨の単位で、6000デナリオンに当たります。1デナリオンが一日の労働賃金に当たると言われますから、一タラントンは6000日分の賃金に当たります。仮に1日の労働賃現が5000円とすると、一タラントンは3000万円になります。一タラントンであっても、多額のお金であるわけです。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンもうけました。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけました。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておきました。これは今で言えば、金庫の中にしまっておいたということです(13:44参照)。さて、かなりの日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと精算を始めました。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出してこう言いました。「御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。他に五タラントンもうけました」。主人はこう言いました。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。次に、二タラントン預かった者も進み出てこう言いました。「御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました」。主人はこう言いました。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。ところで、一タラントン預かった者も進み出てこう言いました。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」。主人はこう答えました。「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントンを持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。

 このお話は譬えでありますから、その意味するところを確認したいと思います。旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた主人、これはイエス様のことであります。イエス様が天にあげられたことが「旅行に出たこと」に、また、イエス様が栄光の人の子として来られることが、「かなりの日が経ってから帰って来たこと」に、さらには、イエス様が弟子たちを裁かれることが、「僕たちと精算を始めた」ことに譬えられています。他方、主人であるイエス様から力に応じてタラントンを預かった僕たちは、イエス様を主と告白する弟子たち、私たちを指しています。また、「タラントン」は、私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って与えられている恵みのことであります(エフェソ4:7参照)。タラントンとは聖霊によって各自に与えられている賜物のことであります。この聖霊の賜物については、第一コリント書の12章に記されておりますが、ここでは、ローマ書の12章3節から8節までをお読みします。使徒パウロはローマ書の12章3節以下で次のように言っています。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人はすすめに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」。このように、私たちには、それぞれに主から賜物が、タラントンが与えられているのです。主イエスから預けられる賜物は、一人には五タラントン、一人には二タラントン、一人には一タラントンと違いがあります。しかし、私たちが忘れてはならないのは、一タラントンであっても、6000日分の労働賃金に相当する金額であるということです。イエス様のたとえ話から教えられますことは、主は私たちすべてにタラントをあずけてくださったということです。タラントを預けられなかった僕は一人もいないということであります。そして、それが一タラントンであっても、それは多額なお金であるのです。

 主人は旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産をあずけました。しかし、そもそも、なぜ、主人は僕たちに自分の財産をあずけたのでしょうか?それは、僕たちの働きを通して、財産を殖やすためであります。主人は僕たちが商売をして儲けるために、その元手として、それぞれの能力に応じて自分の財産を預けたのです。そのことは、主人が帰って来て、「精算を始めた」という言葉に暗示されています。五タラントンをあずかった僕も、また二タラントンあずかった僕も、この主人の意図をよく理解しておりました。ですから、彼らは、早速、それで商売をして、あずかったのと同じ金額をもうけたのです。五タラントン預かった僕も、二タラントン預かった僕も、主人が何を期待しているのかを知っており、それを忠実に実行したのです。それゆえ、主人は二人の僕にこう言うのです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。元の言葉では、「よくやった」という言葉が初めに記されています。このことは、主人が財産を殖やすために、僕に財産をあずけたことを示しているわけです。二人の僕たちは、この主人の期待に応えて、忠実にそれを実行したのです。ここで、主人は、「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」と言っています。この「少しのもの」とは、預けられたタラントンのことですが、天の国において預けられる「多くのもの」に比べればタラントンも少しのものであるのです。使徒パウロは、ローマ書の8章で、「アッバ、父よ」と呼ぶ聖霊を与えられている私たちが神の子であること、そして、神の子である私たちはキリストと共同の相続人であると記しています。私たちはキリストと共に、栄光の御国を、新しい天と新しい地を受け継ぐ者となるのです。そのとき、私たちは、何もせずに、ぐうたらしているのかと言えば、そうではありません。私たちは、キリストの僕として、新しい世界を治める者となるのです。そして、それは労苦の伴わない、喜びと言える労働であるのです。ですから、主人は、「主人と一緒に喜んでくれ」と言うのです。天国とは、主人から多くのものの管理を任され、主人と一緒に喜んで働くそのような世界であるのです。私たちは、天国に行ったらもう働かなくていいのではないかと期待するかも知れません。しかし、創世記の2章を見ますと、はじめの人アダムはエデンの園で働いていたことが記されています(創世2:15参照)。そもそも神様は、人を働く者として、この世界を治める者として造られたのです(創世1:28参照)。アダムの最初の違反によって、働くことは苦しみの伴うものとなりましたが、働くこと、そのものは主の祝福であるのです。それゆえ、私たちは主イエスと一緒に喜びつつ、天の国を管理することになるのです。私は、今、「私たちは主イエスと一緒に喜びつつ、天の国を管理することになる」と言いましたが、しかし、それは主人であるイエス様がお決めになることであります。なぜなら、私たちは、主人から預かったタラントンを穴に埋めてしまう「怠け者の悪い僕」になってしまう恐れがあるからです。五タラントンと二タラントンを預かった僕が、早速、商売をして、同じ金額のタラントンをもうけたのに対して、一タラントンあずかった僕は、出て行って、穴を堀り、主人の金を隠しておきました。この僕は、主人の期待に応えることなく、主人から預かったタラントンを用いることをしなかったのです。彼には一タラントンを用いて商売をして、儲けるという発想はなく、ただそのままにしておいたのです。なぜ、この僕は、先の二人の僕のように、商売をしてもうけなかったのでしょうか?それは、この僕が主人を厳しい方として恐れていたからです。24節にこう記されています。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、おそろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」。この僕は、タラントンを減らさないことだけを考えました。商売すれば、儲かるばかりでなく、損をすることもあるわけですから、地の中に隠しておいたのです。そして、それはこの僕が主人を、蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていたからなのです。そのような認識から、彼は恐ろしくなり、商売することができなかったのです。そのような僕に対して、主人はこう言います。「怠け者の悪い僕だ」。そして、僕が言うところの、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集める方として、この僕に、「それなら銀行に入れておくべきであった」と言うのです。主人は、この僕の言葉に従って、すなわち、蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められるお方として、裁かれるのです。そして、この男から一タラントンを取り上げ、十タラントン持っている者に与えたうえで、この役に立たない僕を外の暗闇に放り出すように命じられるのです。

 今朝の御言葉に出て来る三人の僕は、いずれも、「御主人様」「主よ」と呼ぶ者たちであります。しかし、本当に主人の僕であるかどうかは、主人が不在のときに、主人から託されたタラントンを主人の御心に従って忠実に用いるかどうかによって示されるのであります。私たち一人一人にタラントンが与えられているわけですが、それがどのようなタラントン、聖霊の賜物であるのか、今朝、それぞれによく考えていただきたいと思います。そして、その聖霊の賜物を、主イエスの御心を行うためにどのように用いればよいのかをよく考えていただきたいと思います。この最後の僕は、商売をして損するよりも、地の中に隠してそのままお返しした方がよいと考えたのでありましょうが、しかし、タラントンが聖霊の賜物であるならば、それは減ってしまうということはありません。ですから、私たちは、主イエスの御心を行うために、特に福音宣教と教会形成のために、それぞれに与えられている賜物、タラントンを積極的に用いたいと願います。そのようにして、主イエスから、「よくやった。忠実な良い僕だ」とのお褒めの言葉をいただく者でありたいと願います。

 

関連する説教を探す関連する説教を探す