目を覚ましていなさい 2015年10月04日(日曜 朝の礼拝)

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目を覚ましていなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 24章32節~51節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:32 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
24:33 それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
24:34 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
24:35 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
24:38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24:39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
24:40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
24:45 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。
24:46 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
24:47 はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
24:48 しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、
24:49 仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。
24:50 もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、
24:51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」マタイによる福音書 24章32節~51節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、苦難の日々の後に、イエス様が栄光の人の子として来てくださることを学びました。イエス様は、旧約の主の日の到来の預言と、人の子の預言を御自分に結びつけて、御自分が人の子として来ることによって、主の日は到来することを教えられたのです。主の日とは主なる神の裁きの日でありますが、その日、人の子であるイエス様は、大きなラッパの音を合図に天使たちを遣わし、天の果てから果てまで、御自分の選ばれた者たちを四方から呼び集められるのです。それゆえ、私たちはどこにいようとも、栄光のイエス様をあがめる驚くべき祝福にあずかることができるのです(二テサロニケ1:10参照)。

 イエス様は、世の終わりの徴について、また御自分が栄光の人の子として来られることにより主の日は到来し、世が終わることを教えられました。しかし、それがいつの日なのかは教えられません。「何年何月何日に私は来る」とは言われずに、「いちじくの木から教えを学びなさい」と言われるのです。いちじくの枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいていることが分かるように、世の終わりの徴を見たならば、人の子が戸口に近づいていることを悟りなさいと言われるのです。34節に、「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」とありますが、「これらのこと」には、イエス様が人の子として来られることも含まれています。また、「滅びない」とありますが、この言葉は「過ぎ去らない」とも訳すことができます(新改訳参照)。つまり、イエス様は、この時代、私たちが生きている世が、世の終わりの徴である偽メシアの出現、戦争の騒ぎや戦争の噂、飢饉や地震、さらには迫害と背教、偽預言者の出現と教会の衰退、福音宣教などの世の終わりの徴を経て、さらには神殿崩壊に象徴される苦難の日々の後の人の子の到来によって、過ぎ去るのだと教えられたのです。この時代は、人間の手によって終わりを迎えるのではなくて、イエス様が栄光の人の子として来られることによって終わりを迎えるのです。そして、そのことは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びなさい」と言われるほどに、確かなことであるのです。イエス様は、ここで、御自分の発言が、神の言葉と等しい確かな言葉であることを宣言しておられるのです。

 この世界は、イエス様が栄光の人の子として来られることにより過ぎ去るのでありますが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と言われます。これは父なる神様の主権によって終わりの日が来るということでありますね。終わりの日には、子であるイエス様が栄光の人の子として天使たちと共に天から来られるわけですが、それがいつであるかは、天使たちも子も知らされていない。父だけがご存じであると言われるのです。そして、イエス様は、御自分が来られるのはノアの時と同じであると言われるのです。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。全世界を覆い尽くす「洪水」については、創世記の6章から8章に渡って記されています。創世記の6章を見ますと、神様が人間の罪に対する裁きとして洪水を起こされたことが記されています。創世記の6章5節から8節にこう記されています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかり心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』しかし、ノアは主の好意を得た」。このように洪水はアダムの最初の違反によって堕落し、常に悪いことばかり思い計っている人間を地上からぬぐい去るために神様が起こされた裁きであったのです。しかし、神様はノアに目を留められ、恵みを与えられました。神様はノアに、「すべての肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている」ことを知らせ、生き延びることができるように箱舟を造るよう命じられたのです。しかし、多くの人々はそのことを知りませんでした。彼らは、神様の裁きなど考えることもなく、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたのです。神様の裁きなど考えることもなく、日常生活に明け暮れていたのです。彼らは、洪水が襲って自分たちをさらうまで、自分が神様に裁かれる存在であることに気づかなかったのです。イエス様は「人の子が来る場合もそれと同じである」と言われるのです。

 40節、41節に、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」とあります。これは、イエス様が人の子として来られるとき、天使たちを遣わして御自分の選ばれた人たちを四方から呼び集めることによって起こることであります。「連れて行かれる」とは天使によってイエス様の御前に連れて行かれることであります。また、「残される」とは滅びのうちに残されるということであるのです。畑で働いているときに、あるいは、臼をひいているときに、そのような日常の仕事に励んでいるその最中に、人の子は来られ、御自分の選びの民を御前に呼び集められるのです。ですから、イエス様はこう言われるのです。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。ここでイエス様は、世の終わりがいつであるかを知ろうとする人間の企てが不可能であることを断言しておられます。もし、「何年何月何日に世の終わりが来る」と言う人がいれば、その人は偽預言者であるのです。なぜなら、その日その時は、天使たちも子も知らない。ただ父だけが知っておられるからです。私たちには、自分の主であるイエス様がいつの日に帰って来られるのか分からないのです。それゆえ、私たちには、「目を覚ましていること」が命じられているのです。「目を覚ましている」とは、譬えでありまして、「私たちの主イエスが来られることを覚えて歩むこと」を指しています。私たちは畑にいても、臼をひいていても、主イエスが来られるということを覚えて歩むことが求められているのです。

 イエス様は、43節で、御自分を泥棒に、私たちを家の主人に譬えておられます。泥棒がいつやって来るかを知っている家の主人のように準備をするように、イエス様が思いがけないときに来ても用意ができているようにしていなさいと言われるのです。イエス様は、このように言われることによって、御自分が来られることを忘れてしまわないように警告しておられるわけです。そのような警告として、イエス様は、「忠実な僕と悪い僕」の話をされるのです。「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り初め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。イエス様は、「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか」と言われていますが、これは、今朝、私たち一人一人に問われている問いでもあります。「わたしは忠実で賢い僕であろうか」。そのような問いを抱きつつ、二人の僕について見ていきたいと思います。イエス様は、「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」と言われています。この僕は、主人が帰って来たときに、たまたま主人に言われたとおりにしていたのでなく、いつも主人に言われたとおりにしていたと考えるべきです。私たちは「イエスは主である」と告白する者たちですが、それは言い換えれば、「わたしはイエスの僕である」ということであります。日曜日の午前中だけではなくて、私たちは、いついかなる時も、主イエスの僕であるのです。その主イエスの僕としていつも歩んでいるならば、主がいつ来られても、主のお褒めにあずかることができるのです。しかし、主は遅い、主イエスはまだまだ来ないと考え、好き放題な生活を送り、快楽に溺れてしまうならば、主イエスは予想しない日、思いがけない日に来られ、その僕に厳しい罰を与えられるのです。私は先程、今朝の御言葉は、イエス様が来られる日がいつかを知ろうとする人間の企てが不可能であることを教えていると申しました。しかし、考えてみますと、なぜ、人は主イエスが来られる日を知りたいと思うのでしょう。それは、その日が分かれば、その直前にその備えをすればいいと考えるからです。イエス様がまだ来ない間は、好き放題の生活をして、イエス様が来られる前に、その備えをすればいいと考えるのです。しかし、そのような考え方はどこかおかしいのです。イエス様はその問題点を「偽善者」という言葉で言い表しました。「イエスは主である」と告白しながら、主人であるイエス様の言いつけを守らない。それは偽り者であると言うのです。そもそもイエス様は、どのようにして、私たちを御自分の僕としてくださったのでしょうか?それは、御自分の命を捨てて、私たちを罪から贖うという仕方によってでありました(マタイ20:28参照)。イエス様は、それほどまでに、私たち一人一人を愛してくださったし、また愛してくださっているのです。そうであれば、主イエスがいつの日に帰ってくるか分からなくても、主が言われたとおりにするのは当然のことなのです。ヨハネ福音書において、主イエスは、「わたしを愛する人は、わたしの掟を守る」と言われました(ヨハネ14:23)。主人に言われたことをしている僕は、何よりも主人を愛する僕であったのです。しかし、主人は遅いと思い、好き放題していた僕は、主人を愛してはいなかったのです。ですから、彼は主人の帰りが遅いことを期待し、主人のいいつけどおりではなく、自分がしたいことをしたのです。彼は自分自身を主人としていたのです。

 さて、私たちに与えられている主イエスのいいつけとは何でしょうか?それは、すべての民をイエス様の弟子とすること、彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、イエス様が命じられたことを守るように教えることであります。これが復活されたイエス様が弟子たちに命じられた最後のことです。そしてこれこそ、終わりのときの徴であるのです。イエス様がなかなか来られないという問題に対して、使徒ペトロはその第二の手紙でこう答えています。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。なぜ、主イエスはなかなか来られないのか?それは、私たちを通して、一人でも多くの人が福音を聞き、主イエスを信じ、主イエスが来られる備えをするためであります。私たちは、主の僕として、主の言いつけに従い、福音を宣べ伝えることが求められているのです。そのようにして、目を覚ましていることが求められているのであります。私たちが公に福音を宣べ伝える場、それは主の日の礼拝であります。私たちは、主の日の礼拝において、福音を証しし、宣べ伝えることによって、主イエスをお迎えする備えをしているのです。今朝は、これから聖餐の恵みにあずかりますけれども、聖餐式を通しても、私たちは、天におられる主イエスが、来てくださることを覚えたいと願います。

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