イエスの嘆き 2015年9月13日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの嘆き

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 23章29節~24章2節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
23:30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
23:31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
23:32 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。
23:33 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。
23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
23:35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
23:36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
23:37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
23:38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
23:39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
24:1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
24:2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
マタイによる福音書 23章29節~24章2節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書23章の13節以下で、イエス様は、律法学者たちとファリサイ派の人々に「あなたたちは不幸だ」と、全部で7回語られております。ここで、「不幸」と訳されている言葉は、「わざわい」とも訳される言葉であります。イスラエルの指導者であった律法学者たちとファリサイ派の人々は、イスラエルの民にわざわいをもたらす存在となっていたのです。前回は、13節から28節まで、六番目の「あなたたちは不幸だ」という言葉まで学びました。今朝は、29節以下にある七番目の「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と言葉から学びはじめたいと思います。

 イエス様は、律法学者たちとファリサイ派の人々を偽善者と呼び、「あなたたちは不幸だ」と言われるのですが、それは預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしていたからでありました。律法学者たちとファリサイ派の人々は、預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりすることにより、自分たちが「もし、先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう」ことの証拠としたのです。そのようにして、彼らは預言者たちの墓を建て正しい人の記念碑を飾ることによって、自分たちが正しい者であるかのように振る舞っていたのです。しかし、イエス様は、その彼らの振る舞いを、「自分が預言者を殺した子孫であることを、自ら証明している」に他ならないと言われるのであります。なぜ、イエス様は、このように言われるのでしょうか?それは、律法学者たちとファリサイ派の人々が、預言者であり、正しい人であるイエス様の言葉じりをとらえ、罠にかけようとしていたからです(22:15参照)。その御自分に対する彼らの悪意を見抜かれて、イエス様は、「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と言われるのです。ここでイエス様は、「挑発」とも言える言葉を語っておられます。イエス様は、御自分が律法学者たちとファリサイ派の人々から死刑を宣告されることをご存じでありました。20章17節以下で、イエス様はエルサレムに上って行く途中、十二人の弟子だけに次のように言われておりました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」。このようにイエス様は、祭司長たちや律法学者たちによって、死刑を宣告されることを知っていたのです。そして、それは彼らが「先祖が始めた悪事の仕上げとして」することを知っておられたのです。預言者を殺してきたイスラエルの悪事が、預言者が証ししてきたメシアであるイエス様を殺すことによって完成されるのです。そのようにして、律法学者たちやファリサイ派の人々は、自分たちが「蛇」であり、「蝮の子ら」であることを証明してしまうのです。「蛇よ、蝮の子らよ」。このイエス様の御言葉の背景には、創世記の3章15節の、いわゆる原始福音があります。創世記の3章には、アダムとエバが蛇の言葉に惑わされて、禁じられた木の実を食べてしまったことが記されております。この蛇の背後には、神様の敵である悪魔がいたわけです。その蛇に、また蛇の背後にいる悪魔に、神様は、こう言われました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」。この悪魔の頭を砕く女の子孫こそ、アブラハムの子ダビデの子であるイエス・キリストであります。そのイエス・キリストに敵意を抱くことによって、律法学者たちとファリサイ派の人々は、自分たちが「蛇の子孫」、「蝮の子ら」であることを証明しているのです。それゆえ、イエス様は彼らに、「どうして、あなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と言われるのです。

 しかし、イエス様は、御自分に敵意を抱き、死を宣告する律法学者たちやファリサイ派の人々が地獄の罰を免れることができるように、「わたしは預言者、知者、学者をあなたたちにつかわす」と言われます。ここでは、イエス様が十字架の死から復活され、天に上げられてからのことが言われています。イエス様は、御自分に敵意を抱き、死を宣告した律法学者たちやファリサイ派の人々が地獄の罰を免れるように、預言者、知者、学者を彼らのもとへ遣わされます。イエス様が遣わす「預言者、知者、学者」とは、「キリストの弟子である福音宣教者たち」のことです。しかし、それでも、「あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へ迫害する」と言われます。このことは、使徒言行録やパウロの手紙を読みますと、その通りになったことが分かります。十字架の死から復活され、天へとあげられたイエス様は、預言者、知者、学者を遣わし、律法学者たちやファリサイ派の人々を悔い改めへと招こうとされるのですが、彼らはその中のある者たちを殺し、鞭打ち、迫害するのです。「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる」という裁きを彼らは自らに招くのです。「正しい人アベルの血」については、創世記の4章に記されています。そこには、アダムとエバの子であるカインが弟のアベルを殺してしまったことが記されています。カインは、神様から、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と問われたとき、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と言いましたが、神様は、カインがアベルを殺したことをご存じでありました。それゆえ、神様はカインにこう言われたのです。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」。神様は、アベルの血が報復を求めて、わたしに向かって叫んでいると言われたのです。また、聖所と祭壇の間で殺されたゼカルヤについては、歴代誌下の24章20節、21節に記されています。この所は、聖書を開いてお読みしたいと思います。旧約の701ページ。歴代誌下24章17節から22節までをお読みします。

 ヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。そのとき、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪悪のゆえに、神の怒りがユダとエルサレムに下った。彼らを主に立ち帰らせるため、預言者が次々と遣わされた。しかし、彼らは戒められても耳を貸さなかった。神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」

 このように、ゼカルヤは、「神様が自分の殺害の責任を追及してくださるように」と言って死んだのでありました。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の46ページです。

 35節で、イエス様は、「正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで」と言われております。これはヘブライ語の旧約聖書が創世記から始まり、歴代誌下で終わっていたことと関係があります。つまり、アベルは聖書に出て来る最初の殉教者であり、ゼカルヤは聖書に出て来る最後の殉教者であるのです。ですから、イエス様は、「地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる」と言われたのです。ここで注目したことは、ゼカルヤを殺したのが、「あなたたち」と言われていることです。イエス様を殺し、イエス様の弟子たちを殺し、鞭打ち、迫害するあなたたちが、ゼカルヤを殺したとイエス様は言われるのです。イエス様の弟子たちが宣べ伝える福音を受け入れず、その弟子たちを迫害することは、ゼカルヤを殺した先祖の子孫である、その先祖と似た者であることを表しているのです。ですから、イエス・キリストの福音を受け入れない者は、地上に流された正しい人の血に対する神の報復を受けねばならないのです。そして、それこそ、「地獄の罰」であるのです。イエス様は、「はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」と言われます。この「今の時代の者たち」とは、イエス様がこの御言葉を語られた時代であり、また、このイエス様の御言葉を聞く、あらゆる時代に当てはまります。現代に生きる私たちも、イエス・キリストを十字架につけたのが、わたしであり、その罪を悔い改めて、復活されたイエス・キリストを神の御子、救い主と信じないのであれば、地上に流された正しい人の血の報復を受けねばならないのです。この36節の御言葉は、今朝、私たちにもはっきり語られている警告の言葉であります。イエス様は、御自分を信じない者たちが、預言者を殺した「先祖」に連なる者であり、地獄の罰を免れることはできないと警告されるのです。 さて、イエス様は、このような警告の言葉を、どのようなお気持ちでお語りになったのでしょうか?それは、深い嘆きを持ってでありました。その深い嘆きが37節以下に記されています。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、雌鳥が雛をはねの下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられ荒れ果てる」。ここから、イエス様が何度もエルサレムを訪れたと考える人もおりますが、むしろ、ここでイエス様は、神の永遠の御子として発言されているのではないかと思います。旧約時代を通じて、子なる神であられるイエス様は、預言者を遣わし、イスラエルを御自分のもとへ集めようと何度もなされました。そして、最後に、自らが人となって、イスラエルの人々のもとへ来てくださったのです。子ろばに乗る王として、エルサレムに入られたのです。しかし、エルサレムに住む人々はイエス様のもとへ来ようとはしないのです。それどころか、預言者たちを殺したように、約束のメシアであるイエス様をも殺そうとするのです。その結果、神の家である神殿は、「おまえたちの家」となり、「見捨てられ荒れ果てる」と言われるのです。24章1節に、「イエスが神殿の境内を出て行かれる」とありますが、これは神殿が神の家ではなく、「おまえたちの家」となったことを象徴的に表しています。神の御子であるイエス様は、父の家である神殿に本来いるべきなのでありますが、そのイエス様が、神殿から出て行かれるのです。そして、イエス様は、「これらすべての者を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることのはない」と神殿の崩壊を予告するのです。では、彼らにはもう何の希望も残されていないのでしょうか?そうではありません。なぜなら、イエス様は、39節でこう言われているからです。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」。これが、イエス様の公の宣教の最後の言葉であります。24章、25章とイエス様の教えは続いていくのでありますが、それは弟子たちに対する教えでありまして、公の宣教としては、23章39節が最後の言葉となるのです。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」。これは、詩編の118編26節の御言葉であり、イエス様がエルサレムに入城する際に、その弟子たちが叫んだ言葉でありました。しかし、エルサレムの人々はそのように叫びませんでした。エルサレムの人々はイエス様を「主の名によって来られる方」として受け入れなかったのです。すなわち、「主から遣わされた自分たちの王」として受け入れなかったのです。その彼らが、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言うときが来ると、イエス様は言われるのです。このイエス様の言葉は、イエス様の再臨のときを指していると言われます。しかし、マタイ福音書を見ると、エルサレムの人々がイエス様を見るのは、これが最後ではありません。エルサレムの人々は、「ユダヤ人の王」として、十字架につけられたイエス様を見ることになるのです。では、39節の御言葉、「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」という言葉を私たちはどのように理解したらよいのでしょうか?それは、イエス様を神の御子、メシアとして見ることがないということであります。イエス様を「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言って、自分の王としてお迎えしなければ、イエス様の本当のお姿を知ることはできないのです。私たちは、十字架につけられたイエス・キリストを、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言ってお迎えするときにのみ、イエス様の本当のお姿、イエス様がどのようなお方であるのかを知ることができるのです。世の終わりの、イエス様の再臨を待つまでもなく、今、私たちが、イエス様を「主の名によって来られる方」として、祝福を持ってお迎えするならば、私たちは今、天国の祝福にあずかることができるのです。イエス様は、御自分を求める人々に、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われました。その幸いは、イエス様を「主の名によって来られる方」として迎え入れるすべての人に与えられる幸いであるのです。それは、エルサレムの人々にも、そして、律法学者たちやファリサイ派の人々にも開かれている幸いであるのです。

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