偽善者は不幸だ 2015年9月06日(日曜 朝の礼拝)

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偽善者は不幸だ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 23章13節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
23:14 (†底本に節が欠落 異本訳)律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
23:15 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
23:16 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
23:17 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。
23:18 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
23:19 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。
23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
23:21 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
23:22 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
23:23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。マタイによる福音書 23章13節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉でイエス様は、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と何度も言われています。これはちょうど、山上の説教の冒頭に記されていた「幸い」の反対であります。イエス様は、「心の貧しい人々は、幸いである。なぜなら、天の国はその人たちのものだからである」と山上の説教を語り出されました(5:3)。そのイエス様が、今朝の御言葉では、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。なぜなら、人々の前で天の国を閉ざすからだ」と言われるのです。前回学びましたように、イエス様は、群衆と弟子たちに、律法学者たちやファリサイ派の人々についてお語りになりました。しかし、今朝の御言葉では、律法学者たちやファリサイ派の人々に、「あなたたち偽善者は不幸だ」と言われるのです。ここで、「不幸」と訳されている言葉は、「ウーアイ」という言葉でありまして、元々はうめきの声でありました。これを新改訳聖書、口語訳聖書では「わざわいだ」と訳しています。私は、「不幸」と訳すよりも「わざわいだ」と訳した方がよいのではないかと思います。「不幸」と訳しますと、それはその人だけに留まるような印象を受けますが、「わざわい」と訳すと、その人だけに留まらず、他の人々にも影響を及ぼす印象を受けるからです。「律法学者たちとファリサイ派の人々」、彼らはイスラエルの指導者たちでありました。指導者が与えられていることは、本来、喜ばしいことでありますが、しかし、その指導者たちがイスラエルの民にわざわいをもたらすものとなっていたのです。ここで、イエス様は、律法学者たちとファリサイ派の人々を「偽善者」と読んでおります。「偽善者」と訳されている言葉は元々は「仮面をかぶって演じる役者」を意味しておりました。そこから、心にもないことを行う者を「偽善者」と呼ぶようになったのであります。彼らは自分が重んじられることを願いながら、あたかも神を重んじているかのように振る舞っておりました。心では自分の栄光を求めつつ、あたかも神の栄光を求めているかのように信心深い者として振る舞っていたのです。それゆえ、イエス様は、律法学者たちとファリサイ派の人々を「偽善者」と呼ばれたのです。イエス様は人の心を見る神の御子として、彼らの偽善をあばかれるのです。なぜ、イエス様は、「わざわいなるかな、あなたたちは。偽善者である律法学者たちとファリサイ派の人々よ」と言われるのでしょうか?それは、彼らが「人々の前で天の国を閉ざすから」です。彼らは、「自分が入らないばかりか、入ろうとする人も入らせない」のです。ここでの「天の国」は、イエス様において到来した天の国、神の国のことであります。イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、福音宣教を始められましたが、イエス様において天の国、神の国は、この地上に到来したのでありました。イエス様がありとあらゆる病や患いを癒されたこと、また、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されたことは、イエス様において神の国が来ていることのしるしであったのです。イエス様は、12章28節でこう言われておりました。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。この御言葉は、いわゆるベルゼブル論争の中で語られたものであります。イエス様が悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を癒されたの見て、群衆は皆驚き、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いました。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を出せはしない」と言ったのです。ファリサイ派の人々はイエス様が神の霊によって悪霊を追い出しているにもかかわらず、それを悪霊の頭ベルゼブルに帰するのです。このように、彼らはイエス様を信じようとしないのです。そればかりか、他の人々をもイエス様を信じないようにするのです。このことは、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城したときにも言えることであります。イエス様は、ゼカリヤ書の預言を実現するエルサレムの王として、子ろばに乗ってエルサレムに入られました。イエス様の前を行く者も後に従う者も「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、いと高きところにホサナ」と叫びました。しかし、律法学者たちとファリサイ派の人々は、その叫びに声を合わせることはしませんでした。むしろ、子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて、腹を立て黙らせようとしたのです。このように、彼らはイエス様を信じないことによって、また、信じようとする人を妨げることによって、人々の前で天の国を閉ざしてしまうのです(ヨハネ5:39、40参照)。では、彼らが伝道に熱心ではなかったと言えば、そうではありません。イエス様は、15節で、「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分よりも倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」と言われているからです。「天の国に入らない」ということは、言い換えれば、「地獄に行く」ということです。地獄とは、神様の御前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるところであります(二テサロニケ1:9参照)。イエス様を信じないで天国に入ろうとしない律法学者たちとファリサイ派の人々が、改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩いても、その改宗者は彼らより倍も悪い地獄の子になってしまうというのです。私はこのところを読んで、キリスト教の異端の一つであるエホバの証人のことを思い起こしました。エホバの証人は、イエス・キリストが永遠の神の御子であることを否定する、また、三位一体の神を否定する間違った教え、異端であります。彼らはイエス・キリストを神の永遠の御子であることを否定し、神はエホバ(正確にはヤハウェ)のみであると主張します。これでは、天の国に入ることはできないわけです。しかし、彼らは改宗者をつくることに熱心でありますね。しかし、それは地獄の子、地獄に行く者が増えるだけであるのです。

 16節で、イエス様は、「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ」と言われます。律法学者たちとファリサイ派の人々は、盲人の案内者、無知な者の導き手であると自負しておりました(ローマ2:19参照)。しかし、イエス様は、彼らを「ものの見えない案内人」と呼ぶのです。もちろん、ここで「見えない」と言われているのは、肉眼の視力のことではありません。ここで「見えない」と言われているのは、神の真理が見えない霊的な視力、心の目のことであります。ここには、誓約についての彼らの教えと、それに対するイエス様の反論が記されておりますが、ここに彼らの教えがどのようなものであったのかがよく示されていると思います。彼らは「誓い」について、いろいろなことを考え、いろいろな規則を加えていたわけです。「神に誓ったことはかならず果たせ」。これが律法に記されている原則でありますが、彼らは、「主の御名をみだりに口にしてはならない」という掟に基づいて、直接神の名を呼んで誓うことはしませんでした。それで、彼らは神殿にかけて誓ったり、祭壇にかけて誓ったりするようになったわけです。さらに、神殿の黄金にかけて誓ったり、祭壇の上の供え物にかけて誓ったりするようになったわけです。そのようにして、誓いの中に、果たさねばならない誓いと果たさなくてもよい誓いというそのような区別といいますか、逃げ道を考え出したのです(15:6「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」参照)。このような議論は、ばかばかしく思えるかも知れませんが、律法学者たちやファリサイ派の人々は、こういうことを真剣に議論したわけです。それは、彼らが律法を守ることによって、天の国に入ることができると考えていたからであります。「神に誓ったことはかならず果たせ」という神の掟を、現実の自分たちの生活において、どのようにしたら守ることができるか。そのような観点から、このような細々とした規則を作り出したのです。しかし、イエス様からすれば、そのような彼らは「ものが見えていない」のです。なぜなら、神殿にかけて誓うものは、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うことになるからです。

 23節には、律法学者たちとファリサイ派の人々が、「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」ことが記されています。律法には、「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す」と記されています。彼らはこの掟を、薄荷、いのんど、茴香といった薬草にも当てはめて、几帳面に十分の一を献げていたのです。しかし、彼らは律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしておりました。このイエス様の御言葉の背後には、ミカ書6章8節の御言葉があると言われております。そこにはこう記されています。「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」。律法学者たちとファリサイ派の人々は十分の一の献げ物を薬草にまで当てはめておりましたが、主が人に求めておられる正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むことをないがしろにしていたのです。しかし、イエス様は、「これこそ行うべきである」と言われるのです。イエス様は、続けて、「もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが」と言われておりますが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実を行う者として、十分の一の献げ物をすることがここで求められているのです。十分の一の献げ物は、嗣業の土地を持たない祭司の生活のために、また寡婦や孤児といった社会的弱者のために用いられました。ですから、十分の一を献げることは、主が求めておられる正義、慈悲、誠実を具体的に行うことであるのです。新約時代に生きる私たちには、十分の一の献げ物は掟ではありませんが、聖書が教えるところの献金の目安であります。私たちはそれぞれの収入の十分の一を目安として、喜びと感謝をもって献金をささげたいと思います。そのようにして、すべてが主の恵みであることを確認し、主を畏れることを学ばせていただきたいと願います(申命14:22、23参照)。

 イエス様は、律法の中の最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしながら、十分の一の献げ物を几帳面に守っている彼らに対して、「あなたたちはぶよ一匹さえ漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」と言われます。「ぶよ」も「らくだ」も律法によれば、汚れた生き物でありました。汚れた生き物は食べてはならないわけです。それで、彼らはぶどう酒にぶよが落ちた場合、それを布で漉して、ぶよを取り除いて飲んだのです。しかし、イエス様はその彼らがぶよよりもはるかに大きいラクダを飲み込んでいると言われるのであります。

 25節、26節で、イエス様は律法学者たちが人の目に映る外側だけはきれいにするが、その内側の心は強欲と放縦に満ちていることを非難なされます。「杯や皿の外側をきれいにする」ことは、元々は、祭司がその身に汚れを受けないようにしていたことだと言われます。ファリサイ派の人々はそれを日常生活に取り入れていたのです。そのようにして、彼らは自分たちの外側を信心深く装っておりました。しかし、イエス様は、その内側、彼らの心が強欲と放縦で満ちていることをご存じでありました。それゆえ、「まず、杯の内側をきれいにせいよ。そうすれば、外側もきれいになる」と言われるのです。

 27節で、イエス様は律法学者たちとファリサイ派の人々が「白く塗った墓に似ている」と言われます。神の掟によれば、死は汚れたものであり、墓も汚れたものでありました。「墓に触れた者はすべて七日の間汚れる」と掟には記されています(民数19:16)。時は、過越の祭りの季節でありましたから、巡礼に来た人たちが、墓に触れることがないように、墓は石灰によって白く塗られました。それは端からみると美しいわけですが、しかし、その内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。それと同じように、律法学者たちとファリサイ派の人々は、外側から人には正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちているとイエス様は言われるのです。人の目から見るならば、彼らは神の掟を守っているのですが、しかし、その心の中では神の掟に背いているのです。それゆえ、イエス様は、律法学者たちとファリサイ派の人々を、「偽善者」と呼ばれたのです。

 今朝の御言葉を、私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか?これは、イエス様を信じない律法学者たちやファリサイ派の人々に言われたことであって、自分には関係がないと思われたのでしょうか?おそらく、そうではなかったと思います。イエス様の激しい非難の言葉、裁きとも言えるような言葉を聞いて、息苦しくなったのではないでしょうか?少なくとも、私はこの説教を準備しながら、「もう勘弁してください」と何度も思いました。心を御覧になるイエス様から、「外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」と言われれば、立つ瀬がないわけです。では、私たちは、自分たちを律法学者たちとファリサイ派の人々と同一視すればよいかと言えば、それも間違いであると思います。なぜなら、私たちは、イエス様を「生ける神の子、メシア」と信じ告白する者たちであるからです。私たちはイエス様にあって天の国に入れられ、また入ろうとする人に天の国を開く鍵、イエス・キリストの福音をゆだねられているからです(16:19、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」参照)。その私たちが今朝の御言葉を読んで、どのような祈りをささげることができるか?それは、イエス様に、御言葉と聖霊によって私たちの心を清めてくださり、私たちが心から、神の掟を守ることができるようにしてくださいという祈りであります。ウェストミンスター小教理問答は、その問82で、私たちが神の戒めを「日ごとに思いと言葉と行いにおいて破っています」と告白しています。神様は心を御覧になりますから、「言葉と行い」だけではなく、「思いと言葉と行いにおいて」と言われているわけです。私たちが偽善者となってしまうようなことがあるとすれば、それは、思いにおいて犯す罪を問題としなくなったときでありましょう。「思いにおいて犯す罪」を問題にしなくなるとき、私たちは神の目を忘れるのです。そして、人の目に正しい者のように振る舞うことを身に着けるのです。しかし、神様は心を御覧になられるお方です。イエス様が山上の説教で教えられたことはそのことでありました。イエス様は、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と言われました。また、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われました。これらの言葉で、イエス様が教えてくださったことは、神の掟は心の思いをも裁かれるということでありました。しかし、律法学者たちやファリサイ派の人々は、そこまで深く考えなかったわけです。それは彼らが神の掟のレベルを人間が守れるように引き下げていたからです。しかし、神様は私たちの心の罪をも裁かれるのです。それゆえ、私たちは自分が本来ならば地獄の子であることを認めざるを得ないのです。そして、そのことを認めざるを得ないからこそ、神の御子であり、罪からの救い主であるイエス・キリストを信じざるを得ないのです。私たちが立ち戻るところ、それはイエス・キリストの十字架のもとにしかないのであります。そのような者たちとして、私たちは十字架のもとに集い、礼拝をささげているのです。

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