ただ一人の教師 2015年8月30日(日曜 朝の礼拝)

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ただ一人の教師

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 23章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
23:6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
23:7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。マタイによる福音書 23章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様がファリサイ派の人々に、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」と問われたことを学びました。このイエス様の問いに対して、誰一人ひと言も言い返すことができず、その日からはもはやあえて質問する者はありませんでした。イエス様の言葉じりをとらえて、罠にかけることなど不可能なことが分かったからです。イエス様がエルサレムに入城されてから、いくつもの問答が記されておりましたが、イエス様は真理に基づいて神の道を教えることにより、御自分に敵対する者たちを黙らせてしまわれるのです。今朝の御言葉はその続きであります。

 23章1節から4節までをお読みします。

 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」

 ここでイエス様は、群衆と弟子たちに、律法学者たちやファリサイ派の人々についてお語りになっています。では、この場に、律法学者たちとファリサイ派の人々がいなかったかと言えば、そうではありません。次週学ぶことになる13節以下を見ますと、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」とありますから、この場に律法学者たちとファリサイ派の人々もいたのです。イエス様は、律法学者たちとファリサイ派の人々がいる場で、群衆と弟子たちに、彼らについてお語りになるのです。イエス様は先ず彼らが与えられている権威をお認めになります。「律法学者たちとファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている」ことを認められるのです。「モーセの座に着いている」とは「律法を教える立場にある」ということであります。「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」と言われるのです。律法学者たちとファリサイ派の人々が教えているのは、神の掟である律法でありますから、神の民であるイスラエルには、すべて行い、また守る義務があるのです。しかし、イエス様は、「彼らの行いは、見倣ってはならない」と言われます。なぜなら、彼らは「言うだけで、実行しないから」です。人には、「ああしなさい、こうしなさい」と教えるのですが、それを自分で行ってはいないのです。このイエス様の御言葉を読んで、「本当かなぁ」と私は正直思いました。律法学者たちとファリサイ派の人々、彼らは律法を守ることに熱心な真面目な人たちであります。だからこそ、彼らはイスラエルの人々に影響力を持つ、指導的立場にあったわけです。では、なぜ、イエス様は、「言うだけで、実行しないからである」と言われたのでしょうか?それは、イエス様が律法を神様の御前に完全に行っているかどうかを問題とされているからです。律法学者たちとファリサイ派の人々は、人間の基準からすれば、神の掟を熱心に守る真面目な人たちでありました。しかし、神様の基準からすれば、彼らは神の掟を行なわない者たちであるのです。イエス様は、「ダビデの子についての問答」において、御自分がダビデの子以上のもの、すなわち神の子であると言われました。その神の子であるイエス様の基準からすれば、律法学者たちとファリサイ派の人々は、律法を行っていなかったのです。

 4節に、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」とありますが、「背負いきれない重荷」とは、「神の掟である律法」のことであります。イエス様は、「律法学者たちやファリサイ派の人々はモーセの座に着いているゆえに、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」と言われました。しかし、それは神の掟を完全に守ることのできない罪人にとって、背負いきれない重荷を担うことであったのです(使徒15:10参照)。律法学者たちやファリサイ派の人々にできることは、その背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せることでありました。彼らは、それを動かすために指一本貸そうともしないのです。より正確にいえば、「できない」のです。彼らは、人々が律法を行うために何の助けをも提供することができないのです。

 5節から10節までをお読みします。

 「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」

 ここには、イエス様が、律法学者たちやファリサイ派の人々が「言うだけで実行しない」と言われる理由が記されています。つまり、彼らは律法を実行していたとしても、その動機は神様への愛と隣人への愛からではなく、「すべて人に見せるため」であったのです。イエス様は、22章40節で、律法全体と預言者は、全身全霊をもって神を愛することと自分のように隣人を愛することの二つの掟に基づいていると言われました。それは言い換えれば、神への愛と隣人への愛から神の掟を行うのでなければ、本当に行ったことにはならないということです。神様は、心の思いを見抜かれるお方ですから、その動機を問題とされるのです。律法学者たちとファリサイ派の人々、彼らは神の掟を守ることに熱心な真面目な人たちでありました。しかし、神の子であるイエス様はその彼らの心の内にある動機を問題とされるのです。「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」とありますが、これらは律法に基づいて行われていたことでありました。出エジプト記の13章9節に、「あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない」とありますが、当時の人々は、聖句を書いた紙を入れた小箱を額と左の二の腕に帯で結び付けて祈りをささげていたのです。律法学者たとファリサイ派の人々は、その小箱を大きくして目立つようにした。そのようにして、自分がいかに信心深いかをアピールしたわけです。また、主なる神は、イスラエルの人々が御自分の命令を思い起こして守るために、衣服の四隅に房を付けるよう命じられました(民数15:38、39参照)。律法学者たちやファリサイ派の人々は、その房を長くすることにより、自分たちがいかに信心深いからをアピールしたのです。イエス様は、彼らは「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれることを好む」と言われますが、ここで「先生」と訳されている言葉は、「ラビ」という言葉で、元々の意味は、「わたしの偉大な方」という意味であります。彼らは自分たちが信心深い、偉大な者として重んじられることを愛したのです。彼らは神を重んじて神様の掟を行ったのではなく、自分が人から重んじられるために神の掟を行ったのでありました。それゆえ、イエス様は、彼らについて「言うだけで、実行しない」と言われたのです。

 このような律法学者たちやファリサイ派の人々を反面教師として、イエス様は弟子たちに、私たちにこう言われます。「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」。ここでの「先生」も元の言葉では「ラビ」「わたしの偉大な方」という言葉であります。教会の交わりにおいて、人から「ラビ」「わたしの偉大な方」と呼ばれてはならない。それは私たちにとって偉大な方、師は一人だけであり、あとは皆兄弟姉妹であるからです。また、イエス様は、「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」と言われます。ここでの「父」は、『先生』と『教師』という言葉に挟まれて用いられていることから分かるように、教える者に対する尊称であります。ここでの「父」は男親のことを指しているのではなく、教える者のことであるのです(使徒7:2、22:1参照)。イエス様は教会の交わりにおいて、教える者を父と呼んではならない。なぜなら、「あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」からと言われるのです。さらに、イエス様は、「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われます。これまで、イエス様は弟子たちの間で、人を「ラビ」と呼んではならない、人から「父」と呼ばれてはならないと言われました。これはそのような習慣がない私たちにとっては簡単なことでありました。しかし、「『教師』と呼ばれてもいけない」という言葉を、私たちはどのように受け止めればよいのでしょうか?といいますのも、牧師は御言葉の教師であるからです。このイエス様の言葉は、御言葉を教える務めとしての教師を否定しているのでしょうか?そうしますと、エフェソ書の4章などで教えられているパウロの教えとの整合性はどうなるのか?という問題も出て来ます。なぜなら、パウロはそこで、天にあげられたキリストが、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」と記しているからです(エフェソ4:11)。結論から申しますと、ここでの「教師」は、教会に立てられている職務としての教師ではなく、神の民を教え、導く究極的な教師のことが言われているのです。そして、その教師とは、神の掟を完全に行い、人々に神の掟を守ることができるようにしてくださる、そのような教師であるのです。言うだけで行わない教師ではなく、言ったことを行われる教師、また、背負い切れない重荷を人に負わせるだけではなく、それを自ら担い、御自分の軽い荷を与えられる教師であります(11:30参照)。御自分の聖霊を私たちに与えることによって、神への愛から私たちが神の掟を守ることができるようにしてくださる教師です。そのような私たちのただひとりの教師として、イエス様はこう言われるのです。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 これは、20章26節、27節でも教えられていたことでありました。ここでイエス様は、私たちのただひとりの教師として、御自分の弟子たちの交わりがどのような交わりであるのかをもう一度教えられるのです。なぜなら、私たちのただひとりの教師であるイエス様が、私たちに仕えてくださり、十字架の死に至るまでへりくだられたからです。イエス様はそのことを行われる方として、また、行われた方として、私たちに、このようにお命じになるのです。十字架の死に至るまでへりくだり、神様によって高められ、栄光をお受けになったお方として、このように言われるのであります。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。ここにキリストの弟子たちの群れである私たち教会のモットー、座右の銘が教えられているのです。

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