生きている者の神 2015年8月02日(日曜 朝の礼拝)

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生きている者の神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章23節~33節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
22:27 最後にその女も死にました。
22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。マタイによる福音書 22章23節~33節

原稿のアイコンメッセージ

 前回私たちは、ファリサイ派の人々がイエス様の言葉じりをとらえて、罠にかけようとしたことを学びました。今朝の御言葉では、その同じ日に、サドカイ派の人々がイエス様に近寄って来て尋ねたことが記されています。

 23節から28節までをお読みします。

 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」

 「復活はないと言っているサドカイ派の人々」とありますが、ファリサイ派の人々が復活を信じていたのに対して、サドカイ派の人々は復活を信じていませんでした。それは、彼らが神の御言葉と認めるいわゆるモーセ五書に復活のことが記されていなかったからです。旧約聖書の最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、伝統的にモーセが著者であると考えられていたことから、モーセ五書と呼ばれております。サドカイ派の人々は、モーセ五書だけを権威ある書物、聖書として受け入れていたのです。これはファリサイ派と大きく異なる点です。ファリサイ派の人々は、詩編や預言者も権威ある書物、聖書として受け入れておりました。そればかりか、ファリサイ派の人々は先祖の言い伝えをも聖書と同じように重んじていたわけです。そして、ファリサイ派の人々は、復活を信じていたのです。このことについては、使徒言行録23章8節にこう記されています。「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである」。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派の人々はこのいずれをも認めていた。それは、サドカイ派の人々がモーセ五書だけを権威ある書物とし、ファリサイ派の人々がモーセ五書だけではなく、詩編や預言者をも権威ある書物としていたからです。つまり、サドカイ派の人々が読む限り、モーセ五書には復活について何も教えられていなかったのです。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば、サドカイ派の人々は、霊魂は肉体とともに消滅すると信じていたのです(ヨセフス『ユダヤ古代誌』18:16)。彼らは、イエス様をファリサイ派と同じように、死者の復活を信じる者と見なしていたようです。それで、彼らはイエス様に復活について質問するのです。彼らは教えをこうためではなく、イエス様を言い込めるために、質問するのであります。

 ここでサドカイ派の人々は、申命記25章5節、6節に記されている、いわゆるレビラート婚の掟を持ち出しています。モーセの律法には、「ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と記されておりました。サドカイ派の人々は、もし死者が復活するならば、このモーセの掟と矛盾する事態が起こることを、七人の兄弟の例を持ち出して指摘するのです。「さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです」。ここでサドカイ派の人々が言いたいことは、もし復活があるならば、妻の取り合いになってしまう。だから、モーセの掟と矛盾する復活はないのだ、ということであります。このような問答は、サドカイ派の人々とファリサイ派の人々との間でよくなされていたと言われます。そして、ファリサイ派の人々は、このサドカイ派の人々の質問に、「最初の夫である長男の妻となると答えた」と言われています。しかし、イエス様は、ファリサイ派の人々のようには答えられませんでした。

 29節、30節をお読みします。

 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」

 復活はないと言って、このような議論を吹っ掛けてくるのは、「あなたたちが聖書も神の力も知らず、思い違いをしている」からだとイエス様は言われます。サドカイ派の人々は、この地上の生活が、復活した後も同じように営まれると思い違いをしているのです。そして、このことは、復活を信じていたファリサイ派の人々も同じでありました。しかし、イエス様は、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われるのです。天使とは、天において神様の御心を行う者たちのことであります。復活した者は、神様の御心を行う天使のようになり、もはやめとることも嫁ぐこともないのです。つまり、結婚は、この世に生きている間だけのことであるということであります。教会で結婚式を挙げますと、新郎、新婦がする誓約の中に、「死が二人を分かつまで」という言葉が出て来きます。結婚は死が二人を分かつまでの契約関係であるのです。そもそも、使徒パウロによれば、律法はこの世に生きている者だけに有効でありました。ローマ書の7章1節から3節までをお読みします。新約の282ページです。

 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。

 律法は人を生きている間だけ支配するものであるのに、サドカイ派の人々は復活の世においても、律法が人を支配すると考えました。彼らは、モーセの掟が復活の世においても人を支配すると考えていたのです。しかし、イエス様は、復活した者は、めとることも嫁ぐこともない、天使のようになると言われたのです。掟に従うという仕方で神の御心を行うのではなくて、天使のように神の御心を完全に行うことができる者とされると言われたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の44ページです。

 31節から33節までをお読みします。

 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

 イエス様は、ここで聖書から死者の復活について教えられます。もし、皆さんが、旧約聖書のどこに死者が復活することが記されていますかと問われるならば、どうお答えになるでしょうか?おそらく、イザヤ書26章19節やダニエル書の12章2節をあげられると思います。イザヤ書26章19節にはこう記されています。旧約の1100ページです。

 あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。

 また、ダニエル書12章2節にはこう記されています。旧約の1401ページです。

 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。

 このように、聖書には死者の復活についてはっきりと教えている個所があるのですが、これらはいずれも預言書でありまして、サドカイ派の人々は神の言葉としての権威を認めておりませんでした。それで、イエス様は、出エジプト記3章6節に記されている、モーセに語られた主の御言葉から死者の復活について教えられるのです。旧約の96ページです。出エジプト記3章4節から6節までをお読みします。

 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。「ここに近づいてはならない。足から履き物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

 イエス様は、モーセに語られた神様の御言葉、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という御言葉から、死者の復活について教えられるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の44ページです。

 イエス様は、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という聖書の御言葉を引用された後で、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われました。ここでイエス様は何を教えようとしておられるのでしょうか?結論から申しますと、アブラハムもイサクもヤコブも神様との関係において生きているということであります。神様は、「わたしはアブラハムの神であった、イサクの神であった、ヤコブの神であった」とは言われませんでした。神様は御自分がアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神である」と言われたのです。そして、そのことはアブラハムも、イサクも、ヤコブも神様との関係において生きているということを教えているのです。神が死んだ者の神ではなく、生きている者の神であるならば、アブラハムも、イサクも、ヤコブも神様との関係において生きているのです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも死んで墓に葬られたわけですが、その霊において神様の御前に生きているのです。そして、このことは彼らが肉体をもって復活することを教えているのです。この説教の初めの方で、使徒言行録23章8節から、サドカイ派は復活も天使も霊もないと言っていたことを確認しましたが、イエス様が教える死者の復活を信じるには、復活だけではなくて、天使も霊も信じる必要があるのです。イエス様によれば、神様と契約を結び神の民とされた人は、肉体は死んでも、霊において神様の御前に生きているからです。また、復活のとき、その人は天使のように神の御心を行う者とされるからです。先程、わたしは結婚の契約関係は「死が二人を分かつまで」であると申しました。しかし、神様との契約関係は、死を越えて続いていくのです。なぜなら、神様は天地万物を造られた力あるお方であるからです。神様は命を創り出す力を持っているからです。ですから、復活はないというサドカイ派の人々に対して、イエス様は、「あなたたちは聖書も神の力も知らない」と言われたのです。復活はないというすることは、神様は死に対して無力であるということであります。しかし、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であるならば、生きている間に神との契約関係に入った者は永遠に死ぬことはなく、必ず復活させられるのです。そして、その保証として、神様はイエス・キリストを死から三日目に栄光の体で復活させられたのです。それによって、神様は、イエス・キリストを信じる御自分の民が必ず復活することを示されたのです。人は誰でも、イエス・キリストを神の御子、救い主と信じることにより、神の契約の民となることができます。そして、神様はイエス様を信じる御自分の民を、世の終わりの復活の時に、天の御使いのように、御自分の御心を完全に行う者としてくださるのです。天の御使いのようになることが抽象的に思えるならば、イエス様のようになると考えればよいのです。私たちは、復活の時、イエス様と同じ栄光ある体で復活し、神の御心を完全に行うことができる者とされるのです(フィリピ3:21参照)。

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