婚宴のたとえ 2015年7月19日(日曜 朝の礼拝)

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婚宴のたとえ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。
22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」マタイによる福音書 22章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様が祭司長や民の長老たちに語られた、「ぶどう園の農夫のたとえ」を学びました。祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエス様が自分たちのことを言っておられることに気づき、イエス様を捕らえようとしました。しかし、彼らは群衆を恐れてイエス様を捕らえることができませんでした。群衆はイエス様を神様から遣わされた預言者だと思っていたからです。

 イエス様は、御自分を捕らえようとした祭司長たちやファリサイ派の人々に、また、たとえを用いてお語りになりました。それが今朝の「婚宴のたとえ」であります。

 1節から10節までをお読みします。

 イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が調いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」

 このたとえは前回学びました「ぶどう園の農夫のたとえ」に似ています。前回と同じように、たとえの意味を考えてみたいと思います。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」とありますように、「ある王」とは「神様」を、「王子」とは「神の独り子であるイエス様」を、「婚宴」は「イエス様において到来した神の国」を表しています。「天の国」とは「神の国」のことであり、「神の王国」「神の王的支配」のことであります。イエス様は「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言われ宣教を始められました(4:17参照)。イエス様は御自分において、天の国、神の国が到来したことを宣べ伝えられたのです(12:28参照)。そして、それは婚礼の喜びに譬えられる大きな喜びであったのです。9章14節以下に、「断食についての問答」が記されています。そこで、「なぜ、あなたたちの弟子たちは断食しないのですか」と問うヨハネの弟子たちに、イエス様はこうお答えになりました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろか」。それゆえ、イエス様において到来した神の国が「王子のための婚宴」に譬えられたことはまことにふさわしいことであるのです。

 続けてたとえ話の意味するところを見ていきますと、王が送った「家来たち」は、「預言者たち」を、「婚宴に招いておいた人々」とは「神の民イスラエルの人々」を指しています。このたとえ話を聞いている祭司長たちやファリサイ派の人々は、「婚宴に招かれていた人々」にあたるわけです。これらのことを踏まえて、ご一緒にイエス様が語られたたとえ話を見ていきたいと思います。

 このたとえ話を読んで、不思議に思うことは、王が催した王子のための婚宴に招かれていた人々が来ようとしなかったということです。王が催した王子のための婚宴に招かれれば、喜んで来そうなものですが、婚宴に招かれていた人々は、王から家来たちが送られて来ても、行こうとはしませんでした。そこで、王は別の家来を使いに出しました。今度は、語るべき言葉を授けて遣わしました。新共同訳聖書は訳出しておりませんが、元の言葉ですと、「食事」という言葉の前と「牛」という言葉の前に、「わたしの」という言葉が記されています。「わたしの食事の用意が整いました。わたしの牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」。王は招いておいた人々に、この食事が「わたしの食事」であること、そして、そこでは「わたしの牛や肥えた家畜」という御馳走がふるまわれることを告げるのです。しかし、招かれていた人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけました。天の国は神の独り子であるイエス様において到来しているにもかかわらず、イスラエルの指導者たちは預言者を通して語られた預言者の招きを無視するのです。このことは、2章の占星術の学者たちのお話に記されていたことでもあります。そこで、祭司長たちや律法学者たちは、ユダヤ人の王がベツレヘムで生まれるという預言者の言葉を知っておりながら、生まれたばかりのイエス様を拝みに行こうとはしませんでした。祭司長たちや律法学者たちは、ユダの地ベツレヘムから、神の民イスラエルの牧者が現れることを、占星術の学者たちに告げながら、自分たちはベツレヘムへ行こうとはしなかったのです。この祭司長たちや律法学者たちの姿勢、態度は、イエス様が大人になって、宣教を始められてからも変わりませんでした。彼らは聖書に記されている預言の言葉をよく知っておりながら、その預言が実現しても、無関心であるのです。そのことは、彼らが神様が与えようとしておられる天の国の祝福に関心が無かったことを表しています。それよりも彼らにって、畑や商売に出かけることの方が大切であったのです。ある注解者は、「彼らは神様ではなく富に仕えていたからだ」と記しておりました。イエス様は、山上の説教において、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われましたが、人々が王の招きを無視し、畑や商売に出かけたのは、イスラエルの指導者たちが、神ではなくて、富に仕えていたことを表していると言うのです。また、他の人々は無視するだけではなくて、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまいました。これは普通ではありそうもないことですが、たとえ話ですからそのまま受け止めたいと思います。前回学んだぶどう園のたとえ話においても、農夫たちが主人の僕たちを殺してしまったことが記されておりました。ここでも、招かれていた人々は、王の家来たちを殺してしまうのです。ちなみに、元の言葉では、「僕たち」と「家来たち」は同じ言葉(ドウルウス)であります。

 先程わたしは、王から遣わされた家来たちは預言者たちを指していると申しましたが、この預言者たちの中には、イエス様から遣わされた新約時代の預言者たちも含まれております。イエス様は少し先の23章34節で、律法学者たちとファリサイ派の人々にこう言われております。「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、在る者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。このイエス様の御言葉を念頭に置くとき、「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」と告げる家来たちが、旧約の預言者たちというよりも、イエス様から遣わされた新約の預言者たちであることが分かるのです。そうしますと、ここには福音書記者マタイの教会が置かれていた現実が映し出されていることも分かります。以前、ヨハネによる福音書を連続講解説教しましたが、その時に、ヨハネ福音書の特徴は、イエス様の時代とヨハネ福音書が書かれた時代とが重ねて記されている、いわゆる「二重のドラマ」であると申しました。そして、そのことは、マタイによる福音書においても言えることであるのです。すなわち、イエス様を信じないユダヤ人たちは、イエス様において到来した神の国へと招く、新約の預言者たちをも捕らえ、乱暴し、殺していたのです。家来たちを殺された王は怒りに燃え、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払いました。ここでイエス様はエルサレムの陥落を予告しておられるとも読むことができます。マタイによる福音書の執筆年代は80年頃と言われておりますから、この福音書が記されたとき、すでにエルサレムはローマの軍隊によって陥落しておりました。そして、それはイエス様とまたそのイエス様の遣わされた預言者たちを捕まえ、乱暴し、殺してしまった者たちへの神の怒りの裁きであったのです。

 町を焼き払ったら、婚宴はどうなるのかと私たちは考えるのでありますが、たとえ話ですから、細かいことは詮索しないようにしましょう。町を焼き払った後で、王は家来たちにこう言いました。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」。ここでは旧約の民イスラエルだけではなく、すべての人が婚宴に招かれております。このことは、神の民イスラエルの不従順を通して、神の救いが異邦人へと与えられることの予告とも言えます。とにかく、王は王子のための婚宴をたくさんの人たちで満たしたいわけです。そして、家来たちは、見かけた人は善人も悪人も皆集めてきたので、婚宴は客でいっぱいになったのでした。「善人も悪人も皆」とありますが、これは「無条件で」ということであります。花婿であるイエス様の婚宴には、無条件で、すべての人が招かれているのです。そして、その招きをいただいて、私たちはイエス様の婚宴のひな型とも言える礼拝をささげているのです。この礼拝堂はたくさんの人で一杯ではありませんが、しかし、神様の御心は、この礼拝堂がたくさんの人で一杯になって、イエス様の婚宴を祝うことであるのです。

 11節から14節までをお読みします。

 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 10節までは、イスラエルの指導者たちに語られた譬えでありましたが、11節以下は、婚礼の客である私たちキリスト者に対して語られている譬えであります。この譬えの背景にあるものは、いわゆる最後の審判であります。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」という言葉は、地獄の裁きを意味しているのです。こう聞きますと、私たちはショックを受けるのではないでしょうか?イエス様の婚礼の席についている私たちの中から、最後の審判において地獄に放り出される者が出て来るかも知れないからです。このことは、御言葉の教師であるわたしも例外ではありません。と言いますのも、イエス様は7章21節から23節でこう言われていたからです。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。このイエス様の御言葉を思い起こしますときに、外の暗闇に放り出された者が着ていなかった婚礼の礼服が何をいみするのかが分かってきます。婚礼の礼服、それは天の父の御心を行う生活、神の国にふさわしい実を結ぶ生活であるのです(21:43参照)。私たちはイエス様を信じて、神の国の中心的現れである教会の一員となったのでありますが、その私たちには、イエス様の父なる神の御心を行うことが求められているのです。今既に神の恵みの御支配に生きる私たちには、それにふさわしい実を結ぶことが求められているのです。そしてそれこそが、終末の裁きに耐えることのできる信仰であるのです。誤解のないように申しますが、私たちは自分の業によって、その実によって救われるのではありません。私たちはイエス・キリストへの信仰によって救われるのです。私たちはイエス・キリストへの信仰によって救われたのです。では、その私たちは、イエス・キリストの父なる神の御心を行わなくてよいのでしょうか?イエス様を信じているからと安心して、自分の欲望のままに歩み、罪を重ねていてよいのでしょうか?決してそうではありません。イエス様は、私たちに代わって神の掟を落ち度なく守ってくださり、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださいました。それは、私たちが救われた感謝から、自由な者として神の掟に従って生きる者となるためであります。私たちは罪赦されながらも、罪の残る者ですから、神様の掟を完全に守ることはできません。けれども、私たちにはイエス様がおられますから、何度でも罪を告白し、赦しをいただいて、神の掟に従って歩ませてくださいと願うことができるのです。しかし、このたとえ話に出て来る婚礼の礼服を着ていない人は、そのように願う者ではありませんでした。婚礼の礼服を着ていない男は、王から、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って着たのか」と言われても黙っていました。「黙っていた」ことは彼が意図的に婚礼の礼服を着なかったことを表しています。彼は礼服を着てくる時間がなかったとか、忘れてしまったというのではなくて、意図的に着て来なかったのです。つまり、彼は王が王子のために催した婚礼に集いながら、王と王子を軽んじていたのです。そのことが婚礼の服を着ようとしないことによって、天の父とイエス・キリストの御心を行わないことによって示されたのです。ですから、王は彼を外の暗闇へと放り出したのです。これは、私たちに対する警告であります。イエス様は私たちが、先に招かれていた人々と同じ罪を犯すことがないようにと警告しておられるのです。

 イエス様は最後に、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と言われました。これも私たちに対する警告の言葉であります。「招かれる人」とは、地上の教会に招かれる人であります。また、「選ばれる人」とは天上の教会に入れられる人のことであります。このイエス様の御言葉は、地上の教会に属する者が、必ずしも天上の教会に属する者ではないことを教えています。こう言われると、私たちは不安になってしまうわけですが、このイエス様の御言葉の意図は、招かれたことの恵みにあぐらをかいてしまうのではなくて、私たちが選ばれた人として善い業に励むことであります。選びは神様の選びでありまして、それは神様の主権に属することでありますから、究極的には私たちには分かりません。では、私たちは分からないから何もしなくていいかと言えば、そうではありません。私たちは、キリストによって救われた、神の子とされた者として、天の父の御心を行うことが求められているのです。そのようにして、自らの救いを確かなものとしていくことが求められているのです(ウ告白第18章「恵みと救いの確信について」を参照)。

 今朝は最後にペトロの手紙二の1章3節から11節までを読んで終わりたいと思います。新約の436ページです。

 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。だから、兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。

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