ぶどう園の農夫のたとえ 2015年7月12日(日曜 朝の礼拝)

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ぶどう園の農夫のたとえ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章33節~46節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
21:34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
21:35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
21:36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
21:37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
21:38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
21:39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
21:40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
21:41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
21:42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
21:43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
21:44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
21:45 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、
21:46 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。マタイによる福音書 21章33節~46節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、「権威についての問答」と「二人の息子のたとえ」について学びました。イエス様は、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問う祭司長や民の長老たちに、「ところで、あなたたちはどう思うか」と言われて、二人の息子のたとえを話されました。そして、今朝の御言葉でも、「もう一つのたとえを聞きなさい」と言われて、祭司長や民の長老たちにたとえを話されるのです。

 33節から40節までをお読みします。

 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前より多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」

 ここでイエス様はぶどう園の主人と農夫たちのお話をされていますが、これはたとえ話でありますから、その意味するところを考えていきたいと思います。このイエス様のたとえ話は、旧約聖書のイザヤ書5章に記されている「ぶどう畑の歌」を背景にしています。旧約聖書の1067ページ。イザヤ書5章1節、2節をお読みします。

 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを堀り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。

 また飛んで7節にこう記されています。

 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。

 このような旧約聖書の御言葉を背景にして、イエス様のたとえ話を読むとき、「家の主人」が「神様」のことであり、「ぶどう園」が「神の民イスラエル」であることが分かるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の42ページです。

 私たちは今、家の主人が神様であり、ぶどう園が神の民イスラエルであることを確認しました。ぶどう園を借りた農夫たちは、イスラエルの指導者たちを指しています。ですから、このたとえ話を聞いている祭司長と民の長老たちは「農夫たち」に当たるわけです。また、主人が送った僕たちは、神様から遣わされた預言者たちを指しており、最後に主人が送った息子は、このたとえ話をされているイエス様御自身を指しています。このような対応関係を念頭に置くとき、ここに記されているのは神とその民イスラエルの指導者たちの物語であることが分かるのです。しかし、祭司長と民の長老たちは、そのことに気がつかずないでこう答えました。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」

 もし、農夫たちが自分たちのことであると気づいていたら、彼らはこのようには答えなかったでしょう。しかし、彼らはこの時そこまで考えられませんでした。むしろ、主人の立場に身をおいて、この農夫たちをどうすべきかを言ったのです。そのようにして、彼らは自分自身を裁いてしまったのです(サムエル下12章参照)。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」。この祭司長や長老たちの言葉を受けて、イエス様はこう言われました。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 ここで、イエス様は、旧約聖書の詩編118編22節、23節を引用しておられます。イエス様はこの詩編の預言が御自分において実現すると理解しておられました。「家を建てる者」とはイスラエルの指導者である祭司長や長老たちのことであります。そして、その家を建てる者に捨てられた石こそ、イエス様であるのです。この後、イエス様は最高法院によって裁かれ、メシア不適格として捨てられます。ローマの総督ポンテオ・ピラトに引き渡され、十字架に磔にされるのです。しかし、神様はそのイエス様を墓の中から三日目に栄光の体で復活させられ、神のイスラエルである教会の隅の親石とされるのです。そのようなお方として、イエス様は、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言われるのです。このイエス様の御言葉を、41節の祭司長と長老たちの言葉と結びつけて考えるとき、「ぶどう園」が「神の国」を意味していることが分かります。「神の国」とは「神の王国」、「神の王的支配」のことであります。イスラエルの民は神を王とする、神の王的御支配にあずかる神の民とされておりました。そのしるしとして、神様はイスラエルに十戒をはじめとする律法を与えられたのです。しかし、祭司長と長老たち、また律法学者たちは律法を守っておりませんでした。なぜなら、彼らは神を愛するからではなく、自分のために守っていたからです(6:2、9:13参照)。先程の「ぶどう園の農夫のたとえ」で言えば、彼らがぶどう園で働いていたのは、自分たちを信頼してぶどう園をゆだねてくださった主人のためではなく、自分たちの利益のためであったのです。ですから、彼らに譬えられる農夫たちは収穫を主人に渡そうとはしないわけです。農夫たちが主人の恵みに感謝して、主人のために働いていたならば、主人から送られてきた僕たちにひどい仕打ちをすることはなかったはずです。しかし、農夫たちは自分たちのために働いていたので、主人から送られてきた僕たちにひどい仕打ちをし、収穫を自分たちのものにしようとしたのです。そればかりか、主人の跡取り息子を殺すことによって、ぶどう園を自分たちのものにしようとしたのです。これは、この後、祭司長や長老たちが神の御子であるイエス様を十字架につけることによって実現するわけですが、そのような彼らから、神の国が取り上げられるのは当然のことであります。なぜなら、神の国は、神の御子イエス・キリストにおいて到来したからです(3:17、12:28参照)。祭司長と長老たちは、神の独り子イエス・キリストを殺すことによって、自分たちが神様の王的支配に背く者たちであることを暴露してしまうのです。

 イエス様は、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言われました。「神の国にふさわしい実を結ぶ民族」とは、一つの特定の民族を指しているのではなくて、様々な民族からなるキリストの教会を指しています。そして、ここにはイエス様の弟子であるユダヤ人も含まれているわけです。ですから、神の国を取り上げられる「あなたたち」は民族としてのユダヤ人ということではなくて、イエス様を信じないユダヤ人のことを指しているのです。イエス様が、「神の国は・・・・・・それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言われるとき、「それにふさわしい実」とは何でしょうか?それは預言者たちの言葉を信じて、神の御子であるイエス・キリストを信じ従うことであります。イエス・キリストにおいて到来した神の王的御支配を受け入れ、従っていくことです。私たちは、「イエスは主である」と告白し、神様を礼拝しておりますが、それこそ、イエス・キリストにおいて到来した神の国にふさわしい実であるのです。そして、その実は、私たちが自分の力で結ばせる実というよりも、聖霊なる神様が私たちの内に結んでくださる実であるのです(一コリント12:3参照)。使徒パウロは、ガラテヤ書の5章22節で、「霊の結び実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記しておりますが、聖霊はイエス・キリストを信じる私たちの内にそのような実を結んでくださるのです。

 王である神様の御意志は、預言者たちによって、そして最後に御子イエス・キリストによって示されました。このことは「ぶどう園の農夫のたとえ」が教えていることですし、ヘブライ人への手紙がその冒頭に記していることでもあります。そこにはこう記されています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。この御子に聞き従うことが、神の国を受け継ぐ者となるために、決定的に大切なことであるのです。なぜなら、神様は御子イエス・キリストを御自分の代理人として、権威のある者として遣わされたからです。それゆえ、イエス・キリストに聞き従わない者たちは、自らに裁きを招くことになるのです。そのことが44節にこう記されております。「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。「この石」とは、家を建てる者の捨てた石であり、主が隅の親石となされた石のこと、すなわちイエス様のことであります。ここでイエス様は、御自分がつまずく者や逆らう者を裁かれる裁き主であると言われています(イザヤ8:14,15、ダニエル2:34,35,44,45参照)。神の御子であるイエス様を殺してしまうという企ては、自らに裁き(滅び)をもたらす企てであるのです。ここまで言われて、祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえが自分たちのことであることに気づきました。気づいて彼らはどうしたでしょうか?自分たちはとんでもないことをしようとしていると悔い改めたでしょうか?そうではありませんでした。祭司長たちやファリサイ派の人たちは、イエス様が自分たちのことを言っていると気づいて、イエス様を捕らえようとしたのです。イエス様が話されたたとえを実行しようとしたのです。これは何を意味しているのでしょうか?一つの理解は、イエス様は今朝の御言葉を、祭司長や律法学者や長老たちに悔い改めを迫る言葉としてではなく、裁きの言葉として語っているということです。私たちは、21章18節以下で、イエス様が葉ばかりで実のないイチジクの木を枯れさせたことを学びました。そのようにして、イエス様は御自分を来たるべきメシア、救い主として受け入れないイスラエルを裁いてしまわれたわけです。そのようなイスラエルを裁くお方として、イエス様は御自分を捕らえ、殺そうとしているイスラエルの指導者たちを裁かれるのです。

 祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエス様を捕らえようとしましたが、できませんでした。それは群衆を恐れたからであります。群衆はイエス様を預言者だと思っていたからです。つまり、指導者たちではないイスラエル人々は、イエス様に神の権威を認めていたのです。群衆はイエス様に神の権威を認め、その教えに喜んで耳を傾けました。しかし、指導者たちは、イエス様に神の権威を認めるがゆえに、イエス様を捕らえ、殺してしまうのです。ここに、イスラエルというぶどう園を委ねられた指導者たちのおぞましい罪が浮き彫りとなります。農夫たちは、主人の息子と知らずに、殺してしまったのではありませんでした。農夫たちは、主人の息子と知りつつ、主人の息子であるからこそ、殺してしまうのです。そして、その彼らの心には、「跡取りである息子を殺して、彼の相続財産を自分たちのものにしよう」とする貪欲があったのです。しかし、この理屈は無茶苦茶でありますね。大切な愛する息子を殺されて、黙っている父親はおりません。しかし、彼らがそのような無茶苦茶な理屈を立てることができたのは、彼らが主人がいないかのように考えていたからです。そして、ここに最も恐るべき、驚愕すべき彼らの罪が明らかとなります。すなわち、彼らは神に権威を与えられたイスラエルの指導者でありながら、生けるまことの神を信じていないのです。これがイエス様が指摘しておられる祭司長や律法学者や長老たちの罪の真相であるのです。

 ヘブライ人への手紙4章12節に次のような御言葉があります。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。今朝の御言葉は、まさにこのような神の御言葉であると思います。そして、それは私たちにも向けられている神の御言葉であるのです。私たちは、本当に生ける神を信じているのか?復活して今も活きておられ、やがて来られるイエス・キリストを信じているのか?そのことが私たちにも問われているのであります。そして、生けるまことの唯一の神を信じる者として、十字架と復活の主イエス・キリストを信じる者として、ふさわしい実を結んでいくことが私たちに求められているのであります。

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