全世界の罪を償うイエス 2013年2月17日(日曜 朝の礼拝)

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全世界の罪を償うイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 1章5節~2章2節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
2:2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。ヨハネの手紙一 1章5節~2章2節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 2月8日の金曜日に、私はインフルエンザにかかっていることが判明しまして、先週は急遽、岩永先生に礼拝説教をしていただきました。私が体調を崩したために、色々ご迷惑をおかけしたことを先ずお詫びいたします。また、このように講壇に立って、皆さんと共に主を礼拝できます幸いを主に感謝いたします。

 今朝はヨハネの手紙一の御言葉を読んでいただきましたが、このところは「罪の告白の勧告」で読まれる御言葉であります。私たちは主の日の礼拝ごとに、第1章9節から第2章2節までの御言葉を聞き、その御言葉に促されて、罪の告白をしているわけです。今朝は、この御言葉がそもそもどのような文脈で語られているのかをご一緒に学びたいと思います。

1.神は光である

 5節に次のように記されています。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」。ここでの「わたしたち」は、イエス様の使徒ヨハネを筆頭とする「わたしたち」であります。イエス様は今からおよそ2000年前の人物でありますが、その弟子であったヨハネがこの手紙を記しているのです。それで、この手紙は「ヨハネの手紙」と呼ばれているのです。1章1節に、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目でみたもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」とありますように、イエス様の姿を見て、その教えを聞いて、手で触れたヨハネがこの手紙を記しているのです。そのヨハネがイエス様から既に聞いていて、私たちに伝える知らせ、それは「神は光であり、神には闇が全くない」ということであります。神の御子であるイエス様は「わたしは世の光である」と言われましたけれども、そのことは、父なる神様にも言えるのです(ヨハネ1:18、8:12参照)。「神は光であり、神には闇が全くない」とヨハネが記すとき、その光と闇は物理的な光と闇を指すのではなく、ある象徴として用いられています。つまり、光は善の象徴であり、闇は悪、罪の象徴であるのです。ですから、「神は光であり、神には闇が全くない」というヨハネの言葉は、「神は善であり、神には悪が全くない」とも言い換えることができます。「神は光である、神には闇が全くない」。これこそ、イエス様がヨハネを通して私たちに教えてくださる神様の本質であるのです。

2.光の中を歩むなら

 6節に次のように記されています。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」。ヨハネはこの手紙を神様との交わりを持っている教会に宛てて記しております。ですから、この手紙の読者たちも神様との交わりを持っていたのです。しかし、ここでヨハネは、「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」と記すのです。ヨハネのこの言葉は、実は教会を惑わせていた偽教師たちを念頭において記されています。この手紙を読み進めて行きますと分かりますが、教会の中に、イエスがメシアであること、イエス・キリストが人となって来られたことを否定する偽教師たちが現れていたのです(2:22、4:2,3参照)。偽教師たちは、「自分たちは神との交わりを持っている」と主張しながら、平気で罪を犯していたようであります。そのような偽教師たちを念頭において、ヨハネは、「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」と記しているのです。このヨハネの言葉は、よく考えてみれば当然のことであります。「善である神様との交わりを持っていると言いながら、悪を行って生きているなら、その人は嘘をついている」。これはよく分かることであります。では、神との交わりを持っている者たちは、それならどのように歩めばよいのでしょうか?7節に次のように記されています。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」。「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩む」というとき、それは善である神様の御意志に従って生きることを意味しています(2:3参照)。善である神様の御意志に従って生きるとき、私たちは互いに交わりを持つようになります。私たちは独りで善である神様の御意志に従って生きることはできません。私たちが善である神様の御意志に従って生きようとするとき、必ず互いに交わりを持つようになるのです。なぜなら、神様の御意志の最たるものは、私たちが互いに愛し合うことであるからです。「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら」とヨハネが記しますとき、そこで問題となるのは、私たちには闇があるということであります。神には闇が全くないのですが、私たちには闇があり、神の御意志に背いて罪を犯してしまうのです。そのような私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩むことができるのでしょうか?そのように不安を抱く私たちに、ヨハネは「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」と語るのです。すなわち、光の中に歩むとは、私たちが互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められつつ、生きることであるのです。

3.罪がない、罪を犯したことがないと言うなら

 8節に次のように記されています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」。ここでもヨハネは偽教師たちを念頭において記しております。神との交わりを持っていると主張していた偽教師たちは、自分には罪がないとも主張していたようです。「神は光であり、神には闇が全くない」。そうであれば、その神と交わりを持っている自分たちにも闇が全くないのだ、つまり罪がないのだと彼らは主張していたのです。しかし、ヨハネは次のように記します。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」。神との交わりを持つこと、光の中を歩むことは、罪がないと言い張ることによって成り立つのではありません。むしろ、自分の罪を公に言い表すことによって成り立つのです。9節に次のように記されています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。私たちがこの地上で神との交わりに生きる、光の中を歩むために必要なこと、それは罪がないと自分を欺くことではなくて、自分の罪を公に言い表すことであるのです。そのとき、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださる。このことは、7節の「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」と合わせて理解する必要があります。神様は私たちの罪をどのようにして赦してくださったのでしょうか?それは愛する御子を十字架につけるという仕方によってでありました。イエス・キリストはローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれ、十字架にはりつけにされて処刑されたのですが、それは私たち罪人の身代わりの死であり、私たちの罪を償ういけにえとしての死であったのです。ですから、私たちがイエス・キリストの名によって自分の罪を公に言い表すならば、真実で正しい神様は、私たちの罪を赦し、私たちをあらゆる不義から清めてくださるのです。イエス・キリストは十字架において尊い血潮を流し、死んでくださいました。罪のないイエス・キリストが私たち罪人の身代わりに十字架について死んでくださった。それゆえ、私たちがイエス・キリストの名によって、自分の罪を公に言い表すならば、神様は私たちの罪を赦し、私たちをあらゆる不義から清めてくださるのです。

 10節に次のように記されています。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」。ここも、偽教師たちの主張を念頭において記されています。偽教師たちは「自分たちは罪を犯したことがない」と主張していたのです。しかし、ヨハネは、そのように言うなら、「それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」と記すのです。なぜなら、神様は聖書全体を通して、人間が神様の御前に罪人であると教えているからです。また、罪を犯したことがないと言う者は、イエス様の十字架の死を無意味なものとしてしまうのです。そのような者のうちに神様の言葉が宿っていないことは明かなことであります。罪を犯したことがないと言う者は、その言葉によって自分が神様を全く知らない、神様との交わりを持っていないことを暴露してしまっているのです。

4.弁護者、正しい方、イエス・キリスト

 ここまでヨハネは「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いている」「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることだ」と記してきました。そのように聞くと、罪を犯しても致し方ないのではないかと思うかも知れません。けれども、ヨハネは第2章1節でこう記します。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」。これまでヨハネは光の中を歩む者にも罪があり、罪を犯すこと、また、その罪をイエスの名によって公に言い表すとき、神はその罪を赦し、不義から清めてくださることを記しました。ヨハネは私たちが罪を犯さないようにという意図をもってこれらのことを書き記したのです。私たちの罪を赦し、私たちをあらゆる不義から清めるために、罪のないイエス・キリストが十字架において血潮を流してくださった。そのことを私たちが本当に知るならば、私たちは自分の罪を憎み悲しみつつ、罪を犯さないようにするはずです。しかし、そのような私たちでも罪を犯してしまう。そのような私たちの心を、ヨハネは天へと向けさせます。そして、こう言うのです。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」。記されておりませんが、ここではイエス・キリストの復活が前提とされています。私たちの罪のために十字架につけられ死んだイエス・キリストは、死から三日目に朽ちることのない栄光の体で復活されました。そして、神はそのイエス・キリストを御自分の右の座へと挙げられたのです。私たちが罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられる。私たちの罪のために十字架で死なれた正しい方イエス・キリストが、天で御父に私たちを弁護してくださるのです。そのようにして、私たちが罪を犯しても私たちは罪を赦され、光の中を歩み続けることができる。イエス・キリストの弁護は必ず私たちに罪の赦しをもたらします。それは、イエス様が私たちの罪、いや私たちの罪ばかりでなく全世界の罪を償ういけにえとして御自身をささげられたお方であるからです。ヨハネによる福音書を見ますと、復活したイエス様の手には十字架につけられた釘の跡があったことが記されています。このことは、私たちに十字架につけられた方が復活されたことを教えております。私たちを弁護するイエス様の手にも釘の跡があるのではないでしょうか?イエス様は、両手にある釘の跡を見せながら、「彼らのための罰をわたしはすでに十字架において受けました。ですから、彼らをお赦してください」と御父に私たちを弁護してくださるのです。

結.全世界の罪を償うイエス・キリスト

 イエス・キリストは、全世界の罪を償ういけにえとして十字架で御自身をささげてくださいました。そのことは、まだイエス様を信じていない人々のためにも、イエス様が十字架で死んでくださったことを教えています。教会を惑わせていた偽教師たちは、自分には罪がない、自分は罪を犯したことがないと主張していました。しかし、これは現代の多くの人々が主張していることではないでしょうか?なぜ、多くの人がイエス・キリストのもとへ来ようとしないのでしょうか?それは自分に罪がない、自分は罪を犯したことがないと思っているからです。そのように思って闇の中を歩んでいる自分のために、イエス・キリストが尊い血潮を流して死んでくださったことを知らないからです。神様は御子イエスを十字架につけてまで、私たちの罪を赦そうとされています。また、イエス様はその神様の御意志に従って十字架で死なれ、私たちに罪の赦しを与えてくださいました。ですから、一人でも多くの人に、自分の罪を認め、イエス・キリストを信じていただきたいと願います。

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