ぶどう園で働くことができる恵み 2015年5月03日(日曜 朝の礼拝)

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ぶどう園で働くことができる恵み

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 19章12節~20章16節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。
19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。
19:26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。
19:27 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
19:28 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。
19:29 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
マタイによる福音書 19章12節~20章16節

原稿のアイコンメッセージ

 前々回、学んだことではありますが、イエス様は、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言う弟子たちを見つめて、「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」と言われました。このことは、イエス様が見つめておられる弟子たちこそ、神様によって救われた者たちであることを示しています。弟子たちは、神様によってイエス様に従う者とされたのです。そのことをペトロが正しく理解したかは分かりませんが、ペトロはイエス様にこう言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」。ここでペトロは12弟子を代表して発言しています。それで、イエス様は12弟子一同に、こう言われたのです。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」。イエス様は、何もかも捨てて御自分に従って来た12弟子に、「十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と言われます。しかし、それは、「新しい世界になり、イエス様が栄光の座に座るとき」であるのです。また、イエス様は、御自分のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は、その百倍を受けると言われました。新共同訳聖書は、「百倍もの報いを受ける」と翻訳していますが、元の言葉には、「報い」という言葉は記されていません。イエス様は「百倍を受け」と言われたのです。そして、さらには、「永遠の命を受け継ぐ」と言われたのです。永遠の命を受け継ぐとは、永遠の命を持つ神様との全き交わりに入るということであります。金持ちの青年は、イエス様に、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいでしょうか」と尋ねましたが、その答えがここに記されているのです。すなわち、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てでも、イエス様に従って行くこと、そのような者が永遠の命を受け継ぐのであります。イエス様のために捨てたものの百倍を受けることも、永遠の命を受け継ぐことも、元の言葉ですと未来形で記されています。ですから、これらも新しい世になってイエス様が栄光の座についたとき、受けるもの、また受け継ぐものであるのです。では、この地上ではまったく、受けることができないか、また受け継ぐことができないかと言えばそうではありません。なぜなら、神様は、イエス様を十字架の死から三日目に復活させられ、御自分の右の座へと上げられたからです。まだ新しい世にはなっておりませんが、イエス様は今既に、父なる神の栄光の座に座っておられるのです。ですから、不完全なかたちでありますが、イエス様がここで言われていることは今既に実現しているのです。イエス様は、御自分に従って来た12弟子に、「十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と約束されましたが、その約束は、イエス様が父なる神の右に座し、聖霊を遣わされた日に不完全ではありますが実現いたしました。彼らは神のイスラエルである教会を治める者、教会に仕える者となったわけです。また、「イエス様の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍を受ける」という約束も、教会という交わりにおいて不完全ではありますが、実現しています。私たちは神の家族の一員とされ、たくさんの主にある兄弟姉妹を受けているからです。また、「永遠の命を受け継ぐ」という約束も、不完全ではありますが、すでに実現しています。私たちは、イエス・キリストを通して神の霊である聖霊を与えられ、神様を「アッバ、父よ」と呼び、祈ることができる父と子との愛の交わりに生きる者たちとされているのです。ここで、イエス様が受けるようになる、受け継ぐようになると言われていることを、完全ではありませんが、私たちはすでに受け、また受け継いでいるのです。それゆえ、私たちは信仰の薄い者たちでありましても、何を捨てでも、イエス様に従って行くことができるのです。今朝は、この後、聖餐の恵みにあずかりますけれども、聖餐はまさしく天の祝宴の先取りであります。イエス様は、私たちが受けるべきものにしっかりと目を注いで、御自分に従うことができるように、洗礼や主の晩餐といった礼典を定めてくださったのです。

 30節は、弟子たちに対する、また私たちに対する警告の言葉であります。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。これと同じような言葉が、20章16節にも記されています。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。この格言のような言葉を枠組みとして、「ぶどう園の労働者のたとえ」が記されているのです。ですから、「ぶどう園の労働者のたとえ」は、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くのものが先になる」という言葉の解説として読むことができます。そのことを踏まえて、20章1節から16節までをお読みします。

 天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から初めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていなさい。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 このたとえ話で、イエス様が私たちに教えていることは、「イエス様から受けるものを、自分の働きに対する報いとして当然のように考えるな」ということであります。わたしは先程、「29節に『百倍もの報いを受け』とあるが、元の言葉には、『報い』という言葉はなく、『百倍を受け』とだけ記されている」と申しましたが、それは、ぶどう園の主人であるイエス様から受けるものが、私たちに対する報いではなく、恵みであることをはっきりさせたかったからです。確かに、ぶどう園の主人は、夜明けごろに雇った人と、一日につき一デナリオンの約束をいたしました。ですから、夜明けごろに雇われた人が一デナリオンを受けるのは、当然の報いであると言えます。しかし、その報いが、ぶどう園の主人によって雇われるという一方的な恵みに基づいていることを見落としてはならないのです。主人のぶどう園で働くことができる。そのこと自体が恵みであるのです。そして、この恵みを身に染みて体験したのが、五時ごろに雇われた人たちであったのです。

 このたとえ話は、最初に雇われた人たちに自分を重ねてみてもよく分かりません。最後に雇われた人たちに自分を重ねるとき、初めてこのたとえ話でイエス様が何を言おうしているかが分かるのです。五時ごろに雇われた人たちも、夜明けから広場に立っていたのです。誰かに雇ってもらおうと声をかけられるのを待っていたのであります。しかし、誰も彼らに声をかけてくれない。そのうち昼となり、日も暮れ始める。収入がないままで家に帰るわけにはいかない。もしそうなれば、子供に何も食べさせられない。彼らはまさに途方に暮れる思いで立っていたのです。このぶどう園の主人は五時ごろにも広場に行くのでありますが、なぜでしょうか?なぜ、あと一時間しか働くことができないと分かっていながら、五時ごろ広場へ行ったのでしょうか?それは、この主人が誰にも雇ってもらえない人たちのことを心に留めていたからです。ですから、主人は彼らに、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ったのです。主人は、監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から初めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言いました。なぜ、そのようなことをしたのでしょうか?それは最初に雇われた人たちが、最後に雇われた人たちと一緒に喜んでくれることを期待していたからです。夜明けごろに雇われた人たちが、雇われていない人がいることを心にかけていたならば、彼らは最後に雇われた人たちが一デナリオンを手にしたとき、一緒に喜べたはずであります。この主人は気前の良い方であると喜べたはずです。しかし、そのことを喜べないなら、あなたの目つきが悪くなっている。もし喜べないなら、先の者であるあなたがたは後の者になるとイエス様は言われるのです。16節の、「このように、後にいる者が先になり、先のいる者が後になる」という御言葉は、単に賃金を受け取る順番のことを言っているのではありません。それはイエス様の恵みを見いだすことにおいて、後になるということです。先にイエス様の恵みにあずかっていながら、それを見いだすことにおいて後になる。そのようなことがないように、私たちはぶどう園で働くことができること、イエス様を信じて、神と教会に仕えることができること自体が恵みであることをもう一度胸に刻みたいと思います。そして、このことは、「では、何をいただけるのでしょうか」と問うたペトロも同じであったのです。ペトロがイエス様の弟子とされた次第については、4章に記されています。そこで、ペトロはイエス様から声をかけられてついて行っただけです。「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と、イエス様から声をかけられて、網を捨てて、喜んで従って行ったのです。ペトロは、「あなたに従って行ったら、何をいただけるのですか」などと言って、約束を取り付けてから、イエス様に従ったのではありません。イエス様から声をかけられて、すべてを捨てて従ったのです。すべてを捨てざるを得ないほどの恵みをいただいたからであります。私たちもそうであります。イエス様を信じることができる、イエス様を信じて教会というぶどう園で兄弟姉妹と共に働くことができる。それが、私たちに注がれている主イエスの恵みであるのです。その恵みをいただいているからこそ、私たちはそれぞれの召しと賜物に応じて、喜んで働くことができるのです。そして、そのような私たちに、イエス様は永遠の命を受け継がせてくださるのです。イエス様は、信仰生活がどれだけ長いか、どれだけ奉仕したかにかかわらず、教会というぶどう園で仕える全ての者たちに、永遠の命を受け継がせてくださるのです。

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