天の国は子供のような者たちの国 2015年4月12日(日曜 朝の礼拝)

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天の国は子供のような者たちの国

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 19章13節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。マタイによる福音書 19章13節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書19章13節から15節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 イエス様が結婚について教えられているとき、イエス様に手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来ました。この「人々」とは、子供たちの親たちと考えられます。また、ここでの「子供たち」は、「幼な子ら」(口語訳)とも訳される、幼い子供たちのことであります。また、少し細かいことを言いますが、ここでの「手」は元の言葉ですと複数形で記されています。親たちは、イエス様に両手を置いて祈っていただくために、自分の幼い子供たちをイエス様のもとに連れて来たのです。当時のユダヤの社会には、長老や律法の教師に、子供たちの頭に両手を置いて、祝福を祈ってもらう習慣があったようです。それで、親たちは、預言者と噂されるイエス様のもとに子供たちを連れて来たのです。この親たちの気持ちは、私たちにもよく分かるのではないかと思います。私たちも自分の幼い子供を礼拝へと連れて来ますが、それは礼拝において、幼い子供たちをイエス様に祝福していただくためであるのです。幼い子供を礼拝へと連れて来るのは、消極的には、幼い子供だけを家に置いて、礼拝に来ることはできないからでありますが、積極的には、幼い子供をイエス様に祝福していただくためであるのです。イエス様は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。ですから、イエス・キリストの名によって集まっている、この礼拝の場で、私たちはイエス様の祝福を受けることができるのです。

 けれども、弟子たちは、この親たちを叱りました。古代の社会において、子供たちは、取るに足らない者の代表的な存在でありました。親にとっては子供は大切な存在でありましても、他人である弟子たちからすれば、子供たちは取るに足らない者であったのです。それで、弟子たちは、イエス様のもとに子供たちを連れて来た人々を叱ったのです。

 しかし、イエス様はこう言われます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」。このイエス様の御言葉から分かることは、親によって連れて来られた幼い子供たちが、自分からイエス様のもとに行こうとしているということです。ちょうど、親たちによって礼拝に連れて来られた幼い子供たちが、イエス様を信じているように、親によって連れて来られた子供たちは、イエス様のもとへ行こうとしているのです。これは、幼い子供たちが、自分をイエス様のもとへ連れてきた親たちを信頼しているからです。おそらく、この幼い子供たちは、親たちから、イエス様のことを聞かされていたと思います。私たちが、幼い子供たちにイエス様について話すように、親たちも幼い子供たちに、これから会いに行くイエス様について話したはずです。そして、その親たちの言葉を信頼して、子供たちはイエス様のもとへ行こうとしたのです。その子供たちが来るのを妨げてはいけないと、イエス様は弟子たちに言われたのです。このイエス様の御言葉は、今朝、私たちにも向けられています。もし、私たちが礼拝から子供たちを排除しようとするならば、私たちは弟子たちと同じ過ちを犯しているのです。

 なぜ、イエス様は、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」と言われたのでしょうか?それは、「天の国はこのような者たちのものである」からです。弟子たちは、子供たちを天の国と関わりがないかのように考えました。しかし、イエス様は、「天の国は子供のような者たちの国である」と言われるのです。では、「子供たちのような者」とはどのような者を意味しているのでしょうか?私たちは子供たちのどのような点を見倣うべきなのでしょうか?結論から言えば、それは、親を心から信頼する点においてであります。子供たちが、イエス様のもとへ行こうとしたのは、自分をイエス様のもとに連れて来てくれた親への信頼からでした。そのように親を信頼する幼子のような者が天の国の祝福に入ることができるのです。ここでの「天の国」は、死んでから入る、いわゆる天国というよりも、イエス様においてこの地上に到来した天の国であります。イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められました。天の国はイエス様において、この地上に到来しているのです。私たちは、この地上で天の国の祝福にあずかることができるのです。その天の国の祝福にあずかることができるのは、どのようなものか?それは、幼ない子供たちのような者たちであるのです。

 イエス様が、「天の国は幼ない子供たちのような者の国である」と言われるとき、それは天の神様を父とする幼い子供たちを指しています。天の国の「国」と訳される言葉は「支配」とも訳すことができます。私たちは神様を父とする幼い子供のように信頼して、その支配に従うことが求められているのです。そして、このことは、神の独り子であるイエス様において見られたことでした。イエス様は、神様を「アッバ、父よ」と呼んで祈られました。「アッバ」とは幼い子供が使う言葉で、「パパ」とか「お父ちゃん」という意味であります。当時、このような言葉を神様に対して用いた人は誰もいなかったと言われています。しかし、イエス様は、神の独り子として、全幅の信頼をもって、神様を「アッバ、父よ」と呼ばれたのです。イエス様は、十字架を前にした、ゲツセマネの園においても、「アッバ、父よ」と祈られたのです(マルコ14:36参照)。このイエス様の父なる神への信頼を最もよく映し出しているのが、親に対する幼い子供の信頼なのです。卑近な例ではありますが、わたしが自分の幼い子供と砂場でお団子を作って遊んでいたとき、わたしが食べるまねをして、「おいしいよ」と言うと、幼い子供がその砂団子を本当に口に入れてしまったことがありました。そのように、幼い子供は親であるわたしを信頼しているわけです。その親に対する幼い子供の信頼をイエス様は、私たちに求めておられるのです。

 「天の国は子供のような者たちの国である」。このことは、神様を天の父として信頼する者たちが、天の国の祝福にあずかれることを教えています。天の国の祝福、それは天の父を信頼する神の子供たちがあずかれる祝福であるのです。ですから、もし、私たちが天の父なる神様を信頼せず、父なる神様に依り頼んで歩まないならば、私たちは天の国の祝福を失ってしまうことになるのです。天の父なる神様への信頼、それは具体的には、天の父なる神様の御言葉への信頼であります。父なる神様を信頼すること、それは父なる神様の御言葉を信頼することであるのです。私たちは人間の言葉ではなく、父なる神様の御言葉を信頼して歩むことが求められているのです。はじめの人アダムが神様から試されたことは、まさにそのことであったのです。はじめの人アダムは、エデンの園において、神様から「すべての木から取って食べなさい。しかし、善悪の木からは決して食べてはならない」と言われていました。しかし、アダムは女の口から、蛇の言葉、「決して死ぬことはない。それを食べたら神のようになることができる」という言葉を聞いたとき、アダムはどうしたか?アダムは禁じられていた木の実を食べてしまったわけです。そのようにして、アダムは神様の言葉ではなくて、女の言葉に、さらには、蛇の背後にいる悪魔の言葉に従ってしまったのです。悪魔は今も私たちの心にささやきかけてきます。聖書は、神様がおられること、神様が天地万物を造られたことを教えておりますが、悪魔はさまざまな仕方で、「神などいない。それはお前の思い込み」だと誘惑してきます。また、聖書は、イエス・キリストの名によってささげる礼拝において人間は祝福を受けることができると教えていますが、悪魔はさまざまな仕方で、イエス様を信じていないくても祝福を受けることができるかのように惑わします。肉の欲や目の欲や生活のおごりと言った世の誘惑で私たちを惑わそうとするのです(一ヨハネ2:16参照)。その悪魔の誘惑や惑わしを打ち破るものは何でしょうか?それは、「アッバ、父よ」という御子イエスの叫びです。アダムの子孫である私たちが、神様を「アッバ、父よ」と呼び、信頼することは本来できないことです。しかし、神様は恵みによって、私たちに、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を与えてくださいました。ですから、私たちは、人間の言葉ではなく、神様の御言葉に信頼して歩むことができるのです。ガラテヤの信徒への手紙4章4節から7節までにこう記されています。新約の347ページです。

 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

 神様は、私たちにも、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を与えてくださいました。それゆえ、私たちも神の子とされているのです。父なる神様を信頼して、神様にすべてを委ねて歩む幼子とされているのです。そのようにして、天の国の祝福に生きる者たちとされているのです。人間の親子の場合は、子供はやがて親から自立すること、独り立ちすることが求められます。しかし、父なる神様に対しては、それはあてはまりません。もし、父なる神様に対して独り立ちしようとするならば、その人は天の国の祝福を失ってしまうのです。そして、そのようなことがないように、神様は、私たちに、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を与えてくださっているのです。私たちはいくつになっても、父なる神様を、「アッバ、父よ」と呼び、その御言葉に信頼して生きることが求められているのです。たとえ自分が思い描く祝福と、かけ離れているような状態にあっても、その苦しみを父なる神様からの訓練として受けとめ、「アッバ、父よ」と祈り、神の子として生きることが求められているのです。いや、求められているというよりも、神様は、イエス・キリストにあって、私たちをそのような者としてくださったのです。「天の国は子供のような者たちの国である」というイエス様の御言葉は、神様を「アッバ、父よ」と呼び、歩む私たちに対する祝福の言葉であるのです。

 

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