これに聞け 2015年1月18日(日曜 朝の礼拝)

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これに聞け

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 17章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
17:10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
17:11 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。
17:12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」
17:13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。マタイによる福音書 17章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はマタイによる福音書17章1節から13節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 イエス様が御自分の死と復活について予告されてから六日の後、イエス様は、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られました。それは彼らにこれから起こることを見せるためでありました。旧約聖書には、真実は二人または三人の証言によって確定されると記されています(申命19:15参照)。イエス様は、ペトロとヤコブとヨハネの三人を、これから山の上で起こることの証人として連れて行かれたのです。高い山に登られると、イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。イエス様は六日前に、弟子たちに、「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」と言われましたが、そのような栄光に輝くお姿へと変えられたのです。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っておりました。このことは、イエス様が弟子たちに予告された歩みが、旧約聖書の成就であることを示しています。ユダヤ人は旧約聖書を「律法と預言者」と呼びましたが、モーセは律法を表し、エリヤは預言者を表しているのです。イエス様は弟子たちに、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と言われましたが、そのようなイエス様の歩みは、モーセとエリヤに代表される旧約聖書に記されていたことであるのです(ルカ24:44参照)。栄光に輝くイエス様とモーセとエリヤが語り合っている。これは、まさしく天上の会合とも呼べる光景であります。それゆえ、ペトロは口をはさんでイエス様にこう言ったのです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。ペトロは、仮小屋を建てることによって、イエス様とモーセとエリヤに敬意を表そうといたします。あるいは、仮小屋を建てることによって、このすばらしい体験を少しでも長引かせたいと願ったのかも知れません。ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲がイエス様とモーセとエリヤを覆いました。この光り輝く雲は、神様の御臨在を目に見える仕方で表すものであります。その昔、雲が臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちたように、イエス様とモーセとエリヤを輝く雲が覆ったのです(出エジプト40:34参照)。すると、雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえたのであります。「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」とありますように、これは神様の御声であります。神様の御声を聞いて恐れ、ひれ伏している弟子たちに、イエス様は近づき、彼らに手を触れてこう言われました。「起きなさい。恐れることはない」。そして、彼らが顔を上げてみると、そこにはイエス様のほかにだれもいなかったのです。このことは、イエス様こそが、神様の愛する子であり、神様の心に適う者であることを教えております。ペトロは、「わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言って、イエス様をモーセとエリヤと同列に置こうとしたのですが、神様は、弟子たちに、イエス様こそが御自分の愛する子であり、御自分の心に適う者であり、私たちが聞くべきお方であることを示されるのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この雲の中からの声は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後に、天から聞こえてきた声でもありました。3章16節、17節にこう記されています。新約の4ページです。

 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 この天からの声は、おそらく、イエス様だけが聞いたのではないかと思います。と言いますのも、マルコ福音書とルカ福音書では、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と二人称で記されているからです。しかし、今朝の御言葉ではそのことが弟子たちにも示されるのであります。

 では今朝の御言葉に戻ります。新約の33ページです。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この御言葉は、ペトロの信仰告白に対する神様からの承認の言葉であります。ペトロは、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。そのペトロの信仰告白を受けて、イエス様は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたわけですが、そのイエス様の天の父が、雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と直接言われたのです。また、神様は続けて、「これに聞け」とも言われました。神様は、わたしの愛する子であり、わたしの心に適う者である彼に聞きなさいと言われたのです。この御言葉は、旧約聖書の申命記18章15節を背景にしていると考えられます。申命記の18章15節にはこう記されておりました。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」。神様の愛する独り子であり、神様の御心を実現するイエス様こそ、神の民イスラエルが聞き従わねばならないモーセのような預言者、いやモーセに勝る預言者であられるのです(使徒3:22,23参照)。

 一同が山を下りるとき、イエス様は弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と命じられました。イエス様は16章20節で、弟子たちに、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と命じられましたが、ここでも、「今見たことをだれにも話してはならない」とペトロとヤコブとヨハネに命じられるのです。しかし、それは期限付きでありまして、「人の子が死者の中から復活するまで」のことでありました。ですから、イエス様が死者の中から復活された後は、ペトロとヨハネとヤコブは自分たちが見たことを話したはずであります。実際、ペトロは、その第二の手紙で、山上の変貌の出来事について記しています。新約の437ページ。ペトロの手紙二の1章16節から19節までをお読みします。

 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください。

 ここで「来臨」と訳されている言葉は、「再臨」とも訳される言葉であります。ペトロの手紙二の宛先である小アジアの教会は、イエス・キリストの再臨を否定する偽教師たちに惑わされておりました。偽教師たちは、主イエス・キリストが力に満ちて再び来られるという使徒たちの教えを巧みな作り話であると言っていたのです。しかし、ペトロは、「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨(再臨)を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません」と断言した後で、その証拠として、山上の変貌の出来事について記すのであります。このペトロの言葉は、山上の変貌の出来事が何を意味しているのかを私たちに教えてくれます。神様は弟子たちの目の前で、イエス様の姿を栄光に輝く姿に変えられることによって、イエス様が栄光の体で復活すること、世の終わりに来られる栄光の人の子であることを前もって示されたのです。そのようにして、ペトロとヨハネとヤコブの三人は、イエス様が十字架の死から復活する前に、イエス様がどのようなお方であるかを示されたのです。すなわち、イエス様こそ、神様の愛する独り子であり、神様の御心に適う者であり、自分たちが聞き従うべき唯一のお方であることを彼らは神様から直接教えられたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の33ページです。

 山上の変貌の出来事を通して、イエス様が何者であるのかを示された弟子たちは、イエス様にこう尋ねました。「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」。ここで弟子たちは、「栄光の主であるあなたがもう既に来ているのであれば、律法学者たちが来るはずだと言っているエリヤはどうなるのでしょうか」と問うているのです。ここでエリヤについて言われていることは、旧約聖書のマラキ書の最後に記されていることであります。そこにはこう記されています。「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように」(マラキ3:23,24)。律法学者たちは、このマラキの預言から、まずエリヤが来るはずだと言っていたのです。彼らは、エリヤがまだ来ていない以上、イエスはメシアではないと言っていたのかも知れません。この弟子たちの問いに対して、イエス様はこうお答えになります。「確かにエリヤが来て、すべてを元通りにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」。律法学者たちの言っていることは、マラキ書に預言されていることでありますから、そのことをイエス様はお認めになります。ただし問題は、エリヤが既に来たということであるのです。エリヤとは、13節にありますように、「洗礼者ヨハネのこと」であります。エリヤであるヨハネが来たにもかかわらず、すべてが元通りになっていないのはなぜか?「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」ようになっていないのはなぜか?それは、人々がエリヤである洗礼者ヨハネを認めず、好きなようにあしらったからであります。神様は、メシアに先立って、エリヤを遣わし、その道を準備させようとされたのでありますが、人々はエリヤである洗礼者ヨハネを認めず、好きなようにあしらったのです。エリヤである洗礼者ヨハネは、領主ヘロデによって捕らえられ、舞を踊った娘への褒美として首をはねられたのです。そのように御自分も人々から苦しめられることになるとイエス様は言われるのです。イエス様の先駆者でありますヨハネは、苦しみにおいても先駆者であったのです。イエス様は、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺される」と言われましたけれども、それは既に来たエリヤを認めず、好きなようにあしらった人々の罪のゆえであるのです。そして、イエス様はその人々の罪のために、苦しみを受けられるのです。

 今朝の御言葉は、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子に、十字架の死からの復活を前にして、イエス様が栄光の主であることを教える物語であります。わたしは、これによって誰よりも慰められ、励ましを受けたのは、イエス様御自身ではなかったかと思います。イエス様は高い山の上で、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなるという栄光の姿に変えられることによって、御自分が必ず復活し、栄光の人の子として全世界を裁くことの確証を与えられたのです。だからこそ、イエス様は、エリヤである洗礼者ヨハネが歩まれた道を、人々から苦しめられ、殺されるという道を歩むことができたのです。そして、このことは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従う私たちが心に刻むべきことでもあるのです。人々はエリヤである洗礼者ヨハネにしたように、またメシアであるイエス様にしたように、私たちを認めず、好きなようにあしらうかも知れません。それこそ、イエス様の名のゆえに苦しみを受けるかも知れません。しかし、そのとき、私たちは、苦難の道を歩まれるイエス様のお姿が光り輝く栄光の姿へ変えられたことを思い起こしたいと願います。そのようにして、主イエス・キリストが再び来られることを待ち望みたいと願います。

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