何でもはっきり見える 2021年4月11日(日曜 朝の礼拝)

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何でもはっきり見える

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 8章22節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。マルコによる福音書 8章22節~26節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今朝は、『マルコによる福音書』の第8章22節から26節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.盲人を癒すイエス

 イエス様一行は、ダルマヌタ地方から舟に乗り、ベトサイダに着きました。そこで、人々が一人の盲人をイエス様のところに連れて来て、触れていただきたいと願いました。イエス様に触れていただくことによって、イエス様の力が盲人に伝わり、盲人が見えるようになると人々は考えたのです。イエス様は、盲人の手を取って、村の外に連れ出されました。イエス様は、人々の前ではなく、ひとけのない村の外で、盲人を癒されるのです。イエス様は、盲人の両目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになりました。イエス様が唾をつけて癒されたのは、これで二回目であります。第7章31節以下に、「耳が聞こえず舌の回らない人をいやす」お話しが記されていました。そこには、イエス様が耳が聞こえず舌の回らない人の両耳に指を差し入れ、唾をつけてその舌に触れられたことが記されていました。当時、唾には治癒能力があると考えられていました。日本でも「唾でもつけとけ」と言われるように、唾には治癒能力があると考えられています。イエス様は、唾をつけて耳が聞こえず舌のまわらない人を癒されたように、目の見えない人を唾をつけて癒されたのです。このことは、「耳が聞こえず舌の回らない人の癒し」と「目の見えない人の癒し」が密接に結びついていることを教えています。といいますのも、この二つは、どちらも、旧約聖書の『イザヤ書』の第35章に預言されていた「栄光の回復」の実現であるからです。『イザヤ書』の第35章1節から6節に、こう記されています。旧約の1116ページです。

 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。

 神様が来られて、イスラエルを救われるとき、何が起こるのか。イザヤは、目の見えない人が見えるようになる。耳の聞こえない人が聞こえるようになる。口の利けなかった人が喜び歌うようになると預言しました。この預言を、イエス様は、実現されるわけです。イエス様が耳の聞こえず舌の回らない人を、聞こえるようにし、話せるようにされたこと。そして、今朝の御言葉で、イエス様が目の見えない人を見えるようにされることは、イエス様において神様が来ていること。神イエス様において神様の救いが行われていることを示しているのです。今朝の御言葉に戻ります。新約の77ページです。

 イエス様は、盲人の目に唾をつけ、両手をその人の上において、「何か見えるか」とお尋ねになりました。すると、盲人は見えるようになって、こう言いました。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」。盲人は見えるようになりましたが、まだぼんやりとしていたようです。そこで、イエス様がもう一度両手をその目に当てられました。すると、よく見えて来て癒され、何でもはっきり見えるようになったのです。このように、イエス様の癒しの業が二段階で記されているのは、今朝の御言葉だけです。このことは、イエス様にとっても、目の見えない人を見えるようにすることが、難しいことであったことを示しているようです。実は、旧約聖書に、目の見えない人を見えるようにするという奇跡は記されていません。目の見えない人が見えるようになることは、神様が遣わされるメシア、油を注がれた者によって行われると期待されていたのです。ですから、今朝の御言葉の後で、ペトロがイエス様のことを「あなたは、メシアです」と言い表すことになるわけです。また、イエス様は見えない人の目を見えるようにすることが、神様からの遣わされるメシア、油を注がれた者に期待されていた業であるゆえに、見えるようになった人に、「この村に入ってはいけない」と言われ、家に帰らせたのです。

2.弟子たちの心の目を開くイエス

 今朝の御言葉は、実に象徴的な意味を持っています。イエス様が目の見えない人を見えるようにするというお話しは、イエス様が弟子たちの見えない心の目をも開いてくださる御方だということを示しているのです。弟子たちの見えない心の目とは、一言で言うと、イエス様に対する無理解のことであります。前回(3月14日)学びました、第8章17節で、イエス様は弟子たちにこう言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。イエス様が弟子たちに「目があっても見えないのか」と言われるとき、御自分に対する弟子たちの無理解、理解の無さのことを言われているのです。まだ悟らない弟子たちが、イエス様が目の見えない人を見えるようにされたというお話しの後で、イエス様に対して、「あなたは、メシアです」と告白します。そのことは、弟子たちの目が開かれて見えるようになったことを示しています。イエス様が目の見えない人を見えるようにされたことを目撃した弟子たちは心の目が開かれて、イエス様が約束のメシアであることを悟ることができるようになるのです。しかし、そこには二つの段階があるのです。イエス様が目の見えない人を二つの段階によってはっきりと見えるようにされたように、弟子たちがイエス様をはっきりと知るためには、二つの段階を経なくてはならないのです。最初の段階は、イエス様に対して「あなたは、メシアです」と告白する段階です。そして、次の段階は、イエス様が、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっているメシアであると告白することであります(使徒2章のペトロの説教参照)。弟子たちが、イエス様のことをはっきりと知るには、十字架の死から復活されたイエス様に出会う必要があるのです(ルカ24:45参照)。

3.マタイとルカと比較して

 前にもお話ししたことがありますが、新約聖書の最初の三つの福音書、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書を「共観福音書」と呼びます。この三つの福音書には、同じような記事が記されていて、とても似ています。どうして、似ているのか。それは、マタイとルカが、マルコ福音書を資料として用いたからであると考えられています。マルコ福音書が70年頃記されて、マタイとルカがマルコ福音書を一つの資料として、80年頃にそれぞれ福音書を記したと考えられているのです。マルコ福音書の一つの特徴は、弟子たちの無理解にあります。そのことは、ペトロの信仰告白の前に、何が記されているかに着目するとよく分かります。マタイ福音書の第16章に、ペトロの信仰告白が記されています。その前に何が書いてあるかを見てみましょう。新約の31ページです。「ペトロ、信仰を言い表す」というお話しの前に、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」のお話しが記されています。並行箇所として、括弧書きで、マルコ8章14節から21節とありますが、マルコ福音書の記述と比べるといろいろ違います。マルコ福音書では、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」と記されていましたが、マタイ福音書では「ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々のパン種」と記されています。また、マタイ福音書には、イエス様の弟子たちの無理解を非難する言葉が記されていません。一番違うのは12節です。「そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った」。マタイ福音書では、弟子たちは「悟る」のです。マルコ福音書では、弟子たちは「まだ悟らないのか」と言われていました。しかし、マタイ福音書は、「弟子たちは悟った」と記すのですね。マタイは、弟子たちの無理解を和らげているわけです。では、ルカ福音書は、どうでしょうか。ルカ福音書は第9章に、ペトロの信仰告白を記しています。新約の122ページです。「ペトロ、信仰を言い表す」というお話しの前に、何が書いてあるかと言いますと、「五千人に食べ物を与える」というお話しが記されています。ルカ福音書は、イエス様の弟子たちの無理解を嘆く言葉を記さないどころか、弟子たちがパンのことで議論した話そのものを記さないのです。ルカにとって、五千人養いの奇跡は、弟子たちがイエス様を「神からのメシアです」と告白するのに十分なしるしであるのです。ルカ福音書において、弟子たちは大変物分かりがよいのです。このような違いがなぜ生じるのか。大きく二つの理由を挙げることができます。一つは資料の違いです。マタイは、マルコ福音書、イエス語録(Q資料)、マタイ独自の資料を用いて、福音書を書いたと考えられています。ルカは、マルコ福音書、イエス語録(Q資料)、ルカ独自の資料を用いて書いたと考えられています。マタイとルカは、それぞれに独自の資料を用いているのです(そのことは降誕の記事によく表れている)。さらに違うのは、編集方針です。マタイは、ユダヤ人に向けて福音書を記したと考えられています。他方、ルカは異邦人に向けて福音書を記したと考えられています。そうすると、書き方が変わってくるわけです。どの資料を用いて、どのような構成にしようか、ということがマタイとルカでは異なるわけです。そしてその背後には、それぞれの神学、マタイの神学、ルカの神学があるのです。今朝の御言葉に戻ります。新約の77ページです。

結.何でもはっきり見える

 今朝の説教題を「何でもはっきり見える」とつけました。これは、イエス・キリストを信じて、天地万物を造られたまことの神様を知ったキリスト者の実感ではないかと思います。自分のことを話して恐縮ですが、私がイエス・キリストを信じて洗礼を受けたのは、22歳の時です。イエス様を信じる前の私は、なぜ、自分が生まれて、生きているのか、分かりませんでした。どうせ死ぬのに、人はなぜ生まれて来て、生きるのだろうか。そのような人生に何の意味があるのだろうか、と空しく思っていたのです。しかし、イエス・キリストを信じて、まことの神様を知ったときに、あらゆることが理解できるようになりました。目に映る世界が変わって見えたのです。イエス様を信じた今は、この世界は神様によって造られた世界であり、神様によって保たれ、治められている世界であると信じています。しかし、イエス様を信じる前はどうであったかと言えば、よく分からないのです。人間についても同じです。イエス様を信じた今は、人は神様のかたちに似せて造られた尊い存在であると信じています。しかし、イエス様を信じる前は、よく分からなかったのです。そのようなことが沢山あるのです。私たちは、イエス・キリストの父なる神様、天地の造り主である父なる神様を知ることによって、何でもはっきり見えるようにしていただいたのです。この世界は神様によって造られた世界であり、自分も神様によって造られた存在であること。さらには、自分が神様の御前に罪人であり、その罪人である自分を救うために、イエス・キリストが十字架の死を死んでくださり、復活してくださったこと。自分の内に、神の霊がおられ、イエス様と神様を信じさせてくださっていること。イエス・キリストを信じている私たちは、イエス様と神様がおられる天の国へ行くことができること。この世界の終わりは、イエス・キリストが再び来られることによってもたらされ、神の義が宿る新しい天と新しい地が到来すること。そのことを私たちは、はっきりと見えるように信じているのです(ヘブライ11:1~3参照)。私たちは、自分がどこから来て、どこへ行くのかという大きい見通しが立っているのです。

 新型コロナウイルス感染症の拡大がいつ収束するのか。いつになったら、マスクを外して、文字通り顔と顔を合わせて礼拝をささげることができるのか。その時は分かりません。しかし、私たちにはっきりと分かっていることは、この感染症の問題も神様の御手の内にあるということです。そして、神様は、独り子をお与えになったほどに、世を愛してくださっているということです(ヨハネ3:16参照)。そのことだけは、はっきりと分かっているのです。そして、そのことがはっきりと分かるならば、私たちは、「何でもはっきり見える」と言えるのです。

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