弟子たちを遣わされるイエス 2016年3月13日(日曜 朝の礼拝)

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弟子たちを遣わされるイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 28章16節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書 28章16節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 2012年の11月からマタイによる福音書を御一緒に学んできましたが、今朝はその最後の学びとなります。

 前回、私たちはイエス様の墓が空っぽであったこと、それはイエス様がかねて言われていたとおり復活されたからであることを学びました。天使は墓を訪れた婦人たちにこう言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かにあなたがたに伝えました」。また、復活されたイエス様も婦人たちにこう仰いました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。前回の説教でも申しましたが、ここでイエス様は、御自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちを、御自分との関係を三度否定したペトロをも含めて、「わたしの兄弟たち」と呼ばれます。イエス様は、御自分を見捨てた弟子たちを、父なる神の御心を行う兄弟たちと呼び、ガリラヤへ行くようにと命じられるのです。そのイエス様のご命令に従って、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエス様が指示しておかれた山に登ったのです。「十一人の弟子たち」とは、イエス様が選ばれた十二使徒からイスカリオテのユダを除いた弟子たちのことであります。イエス様を裏切ったユダは、首をつって死んでしまいましたから、ユダを除いた十一人の弟子たちがガリラヤに行ったのです。また、「イエスが指示しておかれた山に登った」とありますが、この山が何という山であるかは分かりません。しかし、一つの推測は、イエス様が山上の説教を語られた山であるということです。マタイによる福音書は5章から7章に渡って、イエス様が山の上で弟子たちに教えられた、いわゆる山上の説教を記しております。その昔、シナイ山で神様がイスラエルに律法(教え)を与えられたように、イエス様も山で弟子たちに教えを与えられたのです。その山上の説教が語られた山、小高い丘のことではないかと考えられるのです。

 イエス様が指示しておかれた山の頂には、すでにイエス様がおられたのでしょう。十一人はイエス様に会い、ひれ伏しました。イエス様を礼拝したわけです。しかし、疑う者もおりました。復活のイエス様にお会いして、ひれ伏しておりながら、疑う者もいたのです。私たちは、復活されたイエス様を肉の目で見たことはありません。私たちは復活されたイエス様を肉の目で見ることなく、イエス様が復活されたこと、そして、今も活きておられ、世の終わりの日に再び来られることを信じているのです。そのような私たちからすれば、復活されたイエス様にお会いすれば、疑いなど吹き飛んでしまって、信じることができるはずだと思うのですが、しかし、実際は、復活されたイエス様にお会いして、礼拝をささげながらも、疑う者もいたのです。それほどに、死者の復活という出来事は受け入れがたい出来事であったということであります。ですから、復活されたイエス様を肉の目で見ていない私たちが、「イエス様は本当に復活されたのかしら?」と疑問に思っても致し方のないことであると言えるのです。私たちは信じつつも、疑いを抱くことがあるのです。しかし、その疑いを吹き払うかのように、イエス様の方から弟子たちに近寄って来てくださったのです。そして、御言葉を与えてくださるのであります。私たちは、復活されたイエス様の姿を肉の目で見たことはありません。しかし、その私たちが復活されたイエス様を信じることができるのは、御言葉を与えられているからなのです。復活されたイエス様が聖書を通して、また聖書の説き明かしである説教を通して、語りかけておられる。そのことを聖霊のお働きによって信じさせていただき、私たちは肉の目で見たことはなくても、復活されたイエス様を、今も活きておられ、やがて来られるイエス様を信じているのです。

 イエス様は弟子たちに近寄って来てこう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。この御言葉の前提には、「神様こそが天と地の一切の権能をお持ちのお方だ」という考え方があります。神様によって復活させられたイエス様は、神様によって天と地の一切の権能を授けられたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。このイエス様の御言葉の背景には、旧約聖書のダニエル書7章の預言があります。ダニエル書7章13節と14節にこう記されています。旧約の1393ページです。

 夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

 ここには、人の子のような者が、「日の老いたる者」(神様)から、権威、威光、王権を受けたと記されております。この幻は、復活されたイエス様において実現したのです。かつて、イエス様は、最高法院での裁判において、こう言われたことがありました。「あなたがたはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ26:64)。このイエス様の御言葉も、ダニエル書7章の預言を背景としていたわけですが、イエス様が天と地の一切の権能を授けられたことは、言い換えれば、全能の神の右に座られたということであります。王の右の座は、王と共に支配する皇太子がすわる座でありますから、神様から天と地の一切の権能を授けられたということは、神様の右の座に着かれたことを意味しているのです。つまり、復活されたイエス様の御言葉、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」という御言葉は、かつてイエス様が最高法院の議員たちに言われたとおり、イエス様が全能の神の右にお座りになったということを意味しているのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の60ページです。

 復活されたイエス様は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」との御言葉に続けて、こう言われました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。復活される前、イエス様は弟子たちを遣わすに当たってこう言われたことがありました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10:5,6)。しかし、復活され、天と地の一切の権能を授けられたイエス様は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われるのです。宣教の対象がユダヤ人だけではなくて、全世界のすべての民へと広がっています。この違いは、イエス様が神様から授けられた権能の違いによるものであります。復活される前イエス様は、ユダヤ人の王として、もっぱらユダヤ人に福音を宣べ伝えたのでありますが、復活されてからは、全世界の王として、すべての人に福音を宣べ伝え、御自分の弟子とすることを命じられるのです。私たちの宣教の対象は、もっぱら日本人でありますが、その際、私たちは、イエス様が日本人に対しても権能を持っておられることをしっかりと弁えておく必要があります。権能とは、「ある事柄について権利を主張し行使できる能力」と言えますが(『広辞苑』)、イエス様はすべての日本人を従わせることのできる権利を主張し行使できる能力をお持ちであるのです。イエス様は日本人に対しても、神様から権能を授かっているのであります。それゆえ、私たちは行って、すべての日本人をイエス様の弟子にするようにと命じられているのです。私たちが日本人に福音を宣べ伝えることのできる根拠、また、日本人に福音を宣べ伝えるべき根拠は、イエス様が日本人である私たちに対する権能をも神様から授かっておられるということであるのです。

 イエス様は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられましたが、それは具体的には、洗礼を授け、イエス様の教えを教えることによって実現いたします。イエス様は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われた後で、こう言われました。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じていたことをすべて守るように教えなさい」。新約の礼典は、洗礼と主の晩餐でありますが、ここでイエス様は、洗礼を授けることを命じておられます。それも、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」ることを命じておられます。父と子と聖霊、これはただ一人の神様の三つの位格であります。イエス・キリストにおいて御自身を示された唯一の神様は、父と子と聖霊という三つの位格を持っておられる三位一体の神であられるのです。そのことは、ここでの「名」が単数形で記されていることにも示されています。父と子と聖霊という三者を受けながら、「名」は単数形で記されているのです。また、「名によって」と訳されている言葉は、「名の中に」とも訳すことができます。父と子と聖霊の名に中へと洗礼を授ける。それは、父と子と聖霊の交わりの中に生きる者となるということであります。私たちは、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられることによって、父と子と聖霊の交わりの中へと生きる者とされたのです。そのような者たちとして、私たちは、イエス様の教えを学んできたのであります。イエス様は、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われましたけれども、私たちはマタイによる福音書を学ぶことによって、かつてイエス様が弟子たちに命じられたことを守るように教えられてきたのです。そして、今度は私たちがイエス様を知らない他の人たちに、イエス様が命じられたことをすべて守るように教えるようにと命じられているのです。自分が学んでおしまいではなくて、自分が学んだことを人にも教えるようにとイエス様は私たちにお命じになるのであります。

 ここで、イエス様が命じられていることは、無謀とも思えることであります。誇大妄想とでも言えることです。しかし、このイエス様の御言葉のとおり、全世界の国々の多くの人々がイエス様の弟子となりました。イエス様の教えは、全世界の国々へと伝えられ、ある統計によれば、世界人口のおよそ30パーセントにあたる22億人もの人がキリスト教を信じております(百科事典「ブリタニカ」年鑑2009年版)。それは、イエス様が弟子たちに約束されておられるように、「いつも共にいてくださったから」であります。イエス様は、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられただけではなくて、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。復活されたイエス様は、肉の目には見えませんけれども、聖霊において、私たちと世の終わりまで、いつも共にいてくださるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。このイエス様の御言葉は、イエス様に与えられていたもう一つの御名前、インマヌエルという御名前を思い起こさせます。福音書記者マタイは、1章23節で、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と記しました。復活されたイエス様が共におられるということによって、神は我々と共におられるという天の祝福が実現したのです。復活されたイエス様がいつも共にいてくださる。それは、イエス様において父なる神様が私たちといつも共にいてくださるということであるのです(ヨハネ14:23参照)。ですから、私たちは恐れることなく、大胆に、すべての人に福音を宣べ伝えていくことができるのです。あなたもイエス・キリストの弟子になってください。そうすれば安らぎを得ることができますと語ることができるのです。なぜなら、私たちといつも共におられるイエス様は、私たちを通して、今もすべての人を招いておられるからです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28~30)。

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