ペトロの信仰告白 2014年11月30日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

ペトロの信仰告白

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章13節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。マタイによる福音書 16章13節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書16章13節から17節より、ご一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 イエス様は、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、こう尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。「フィリポ・カイサリア地方」とはガリラヤから北に約40キロメートルに位置する、ヘルモン山の南の麓にある水の豊かな緑の美しい地方であります。また、そこにはローマ皇帝を神として祭る神殿やギリシャの神々を祭る神殿がありました。そのような場所にイエス様は弟子たちと退かれて、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねられたのです。「人の子」とは、イエス様が御自分のことを言い表すときの決まった言い回しであります。ここでイエス様は、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねたのです。それに対して弟子たちはこう言いました。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤ』だとか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。「洗礼者ヨハネ」は、イエス様に先立って神の国を宣べ伝え、領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、首をはねられた人物であります。人々は、イエス様のことをこの洗礼者ヨハネだと言っていたのです。また、「エリヤ」は紀元前9世紀に北王国イスラエルで活躍した預言者で、生きたまま炎の馬車で天へと上げられた人物でありました。聖書は、主の日の到来に先立ってエリヤが遣わされると預言しております(マラキ3:23参照)。人々はイエス様こそ、そのエリヤであると言っていたのです。また、「エレミヤ」は紀元前6世紀に南王国ユダで活躍した預言者でありました。聖書にエレミヤの死について記されていないことから人々はエレミヤがもう一度現れることを期待しておりました。それで、ある人々はイエス様をエレミヤだと言っていたのです。また、誰とは言いませんが、「預言者の一人だ」と言う人もおりました。このような御自分に対する人々の評判を聞いた後で、イエス様は弟子たちにこう言われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。人々がわたしのことを何者だと言うのかは分かった。それでは、弟子であるあなたがたはわたしを何者だと言うのか、そのようにイエス様は言われたのです。それに対して、シモン・ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。「メシア」とは、「油注がれた者」という意味であります。その昔、イスラエルにおいて王や祭司や預言者がその務めに就くとき、頭に油を注ぐという儀式をいたしました。油を注ぐことによって、聖霊が注がれたことを表したのです。イエス様の時代、一人で王、祭司、預言者の務めを果たす、究極的な油を注がれた者、メシア、救い主が待望されておりました。人々はこのメシアによってイスラエルの国が立て直され、神の国が樹立されると信じていたのです。シモン・ペトロは、イエス様こそ、そのメシア、救い主であると告白したのです。ちなみに、ここで「メシア」とありますが、元のギリシャ語では「キリスト」と記されています。メシアもキリストも、「油を注がれた方」、王、祭司、預言者の務めを一人で果たす究極的な救い主を意味しているのです。私たちは、「イエス・キリスト」を一つの固有名詞として用いますが、元々は、「イエス・キリスト」とは、イエスはキリストである、イエスは油注がれた方、王、祭司、預言者の職務を一人で果たす究極的な救い主である、との信仰告白であるのです。また、ペトロは、「生ける神の子です」とも告白しています。ここで、「生ける」という言葉は「神の子」ではなく、「神」にかかっています。先程、わたしは、フィリポ・カイザリア地方には、ローマ皇帝を神として祭る神殿やギリシャの神々の神殿があったと申しましたが、そのような偽りの神々、死せる神々と対比して、イスラエルの神が、「生ける神」と言われているのです。ペトロは、イエス様を、その「生ける神」の子であると告白したのです。誤解のないように言っておきますが、ここでペトロは、イエス様に、「あなたはメシアです」「あなたは生ける神の子です」と別々に告白したのではありません。「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのです。当時の人々はメシア、救い主を待望しておりましたが、それは普通の人間でありました。しかし、ペトロは、イエス様が普通の人間を超えた、神様との親しい交わりに生きておられることを見抜いたのです。ペトロを初めとする弟子たちは、イエス様がガリラヤで宣教を始められた頃から、弟子として従って来ました。イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、イエス様に従う弟子となったのです。そして、イエス様と寝食を共にし、権威ある教えを聞き、権威ある御業を見てきたわけであります。イエス様の側から言えば、弟子たちを教え、弟子たちに力ある業を見せ、体験させることによって、御自分が何者であるのかを示して来られたわけです。その弟子生活、弟子訓練の総決算とも言えるのが、「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰告白なのであります。ここで初めて、人間の口から、イエス様がメシアであり、生ける神の子であることが告白されたのです。私たちも、イエス様をメシア、生ける神の子と信じ、告白する者でありますが、その私たちに先立って、ペトロはイエス様に、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのであります。すると、イエス様はこうお答えになりました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ここにはイエス様が「喜んでお答えになった」とは記されていませんが、わたしはお答えの内容から、イエス様が喜んでお答えになったと思います。イエス様は、「シモン・バルヨナ」と呼びかけられました。これはシモンに対する正式な呼びかけであります。「バルヨナ」とは「ヨナの子」という意味であり、これはおそらく「ヨハネの子」の短縮形であろうと言われています(ヨハネ1:42、21:15参照)。当時のユダヤには名字というものはなく、誰々の子誰々という言い方をしたのです。イエス様は、シモンを「ペトロ」というあだ名で呼ばずに、「シモン・バルヨナ」とフルネームで呼ばれたのです。そして、「あなたは幸いである」と言われたのであります。元の言葉を見ますと、「幸いなるかなあなたは、シモン・バルヨナよ」と記されています。イエス様は山上の説教において、「幸いなるかな、心の貧しい人々」と言われましたが、それと同じ「幸い」がここで語られているのです。イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白することは、イエス様から「あなたは幸いだ」と言っていただけるほどの祝福であるのです。イエス様から「あなたは幸いだ」と言っていただける、これほど幸いなことはないのであります。私たちは、いろいろな尺度で幸いということを考えます。健康であること、お金があること、家庭が円満であること、さまざまな尺度によって幸いについて考えるのです。しかし、私たちが忘れてはならないことは、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白できる幸いが与えられているということです。イエス様は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言われましたが、ここに、私たちは自分の名前を入れて、読むことができるのです。

 続けて、イエス様はこう言われました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ここで「人間」と訳されている元の言葉は「肉と血」という言葉であります。「肉と血」は弱さを含み持った人間を現す言葉であります。イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白は、肉と血からなる人間からは出てこないのです。それは、イエス様の天の父が現してくださることであるのです。ここで「現す」と訳される言葉は、「啓示する」とも訳される言葉であります。ペトロは、イエス様の天の父からの啓示を受けて、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白することができたのであります。そして、このことは、イエス様が11章25節から27節で言われていたことでありました。そこで、イエス様はこう言われておりました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。ここで、イエス様は、「父の他に子を知る者はなく」と言われております。イエス様が何者であるのかを正しく知っているのは、父なる神お一人であるのです。すなわち、イエス様がメシアであり、神の御子であることは、父なる神だけが知っている秘密であったのです。しかし、その秘密を、イエス様はシモン・バルヨナの口から聞いたのであります。それゆえ、イエス様は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言われ、その告白の源が、人間にあるのではなく、御自分の天の父による啓示であると言われたのです。私たちが、イエス様に「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰を告白することができるのは、私たちが他の人よりも優れていたからではありません。それはただ、イエス・キリストの父なる神が、そのことを現してくださったからであるのです。それゆえ、私たちもイエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表すことができたのです。

 今朝の説教題を「ペトロの信仰告白」としましたが、今朝のお話を準備しながら、わたしが考えていたことは、まだ信仰告白をしていない契約の子供たちのことであります。契約の子供たちは幼児洗礼を受けておりますから、すでに恵みの契約に入れられ、聖霊を与えられております。その契約の子供たちが責任をもって物事を判断できる年齢に達したとき、自分の口で信仰を言い表すことが、いわゆる信仰告白であります。契約の子供たちは、幼児洗礼を受けておりますが、その際に、神と教会の前に誓約したのは、その親であります。親が、神様と教会の前に、この子をイエス様を信じる子供に育ってていきますと誓約し、そのようにさせてくださいと祈り願ったのです。しかし、信仰告白は、そうではありません。自分の口で、イエス様が何者であるのかを公に告白するのです。公に告白するとは、公的礼拝において、神と教会の前で告白するということです。親の信仰ではなくて、自分の信仰として、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と公に告白するのです。契約の子供たち、特に責任をもって物事を判断できるであろう中学生以上の子供たちには、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエス様からの問いかけを自分自身に対する問いかけとして受け止めていただきたいと思います。そして、イエス様をメシア、生ける神の子であると信じているならば、それを公に告白する決心をしていただきたいと願うのです。なぜなら、それは本当に幸いなことだからです。イエス様から「あなたは幸いだ」と言っていただけるほどの大きな祝福であるのです。契約の子供が、自分の口で、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白することは、教会にとって大きな喜びであります。とりわけ、そのことを誓約し、祈ってきた親にとっては大きな喜びであります。しかし、忘れてはならないことは、誰よりもイエス様が喜んでくださるということです。なぜなら、イエス様は、あなたを救うために、十字架の死を死なれ、復活されたお方であるからです。イエス様は、生ける「神の子」として、私たちのメシア、王、祭司、預言者として今も働いておられるからです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。このペトロの信仰告白を、契約の子供たちが自分の口で公に言い表すことができますように、私たちは心を合わせて祈っていきたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す