パン種に注意しなさい 2014年11月23日(日曜 朝の礼拝)

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パン種に注意しなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
16:2 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、
16:3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
16:4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
16:7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。マタイによる福音書 16章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様がガリラヤ湖の東岸で、異邦人を癒し、養われたお話を学びました。イエス様によってもたらされる神の祝福は、イスラエルの民を超えて、異邦人におよぶほど豊かな祝福であることを私たちは学んだのであります。

 イエス様は群衆を満腹にさせて解散させられた後、舟に乗ってマガダン地方へ行かれました。マガダン地方の正確な場所は分かりませんが、イエス様はイスラエルの民の住む、ガリラヤ湖の西岸に行かれたのです。そのイエス様のもとにファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が来ました。ファリサイ派とサドカイ派は、当時の民衆に大きな影響を与えていた二大勢力であります。ファリサイ派は、律法を守ることに熱心な信徒グループであり、サドカイ派は、貴族階級である祭司グループでありました。そのファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が来て、イエス様を試そうと、天からのしるしを見せてほしいと願ったのです。ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々は、イエス様がメシア、救い主であることを神様からのしるしによって証明せよと誘惑したのです。それに対して、イエス様はこうお答えになりました。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には、『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。ファリサイ派の人々もサドカイ派の人々も空模様を見分けることは知っておりました。しかし、彼らは時代のしるしを見ることができないのです。時代のしるしとは、洗礼者ヨハネの出現とそれに続いて現れたイエス様の力ある教えと力ある業のことであります。以前学びましたように、ファリサイ派の人々は、イエス様の力ある業を悪霊の頭ベルゼブルの力によるものであると言っていたのです。彼らは、イエス様が悪霊の頭ベルゼブルの力によって、人々から悪霊を追い出していると言い、イエス様の力ある業に時代のしるしを見ることを拒んだのです。イエス様の力ある業は、イザヤ書35章の預言を成就するメシアの到来のしるしであるわけですが、ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々はその時代のしるしを見ることができず、自分たちを説得するような神様からのしるしを求めたのです。そのような彼らをイエス様は「よこしまで神に背いた時代の者たち」と呼ばれます。天からのしるしを求めるということは神様に証拠を求めることであります。彼らは神様に証拠を求めることによって、自分たちがよこしまで神に背いた世代であることを暴露しているのです。しかし、イエス様は何のしるしも与えられないとは言われませんでした。「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われたのです。ヨナのしるしについては、12章40節にこう記されておりました。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」。このようにヨナのしるしとは、イエス様が死んで葬られて、三日目に復活されることを意味しているのです。そして、このヨナのしるしは、他でもないファリサイ派の人々とサドカイ派の人々の手を通してもたらされるのです。なぜなら、彼らこそ、後にイエス様を十字架の死へと引き渡す最高法院のメンバーであるからです。

 イエス様は天からのしるしを願う彼らを後に残して立ち去り、弟子たちと再びガリラヤ湖の東岸に行かれました。このとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れておりました。その彼らにイエス様はこう言われたのです。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」。これを聞いて弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合いました。弟子たちの心は自分たちがパンを忘れたこと、食べ物がないことで一杯であったのです。ですから、彼らは、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」というイエス様の御言葉を聞いて、自分たちがパンを忘れたことと結びつけて、イエス様が文字通りのパン種のことを言っていると論じ合ったのです。イエス様はそれに気づいてこう言われました。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」。イエス様は、パンを持って来なかったことに心を奪われている弟子たちを「信仰の薄い者たちよ」と言われます。ここで思い起こすべきは、イエス様が山上の説教において、何を食べようかと言って思い悩む弟子たちを「信仰の薄い者たちよ」と諭されたことであります。パンを持って来るのを忘れていた弟子たちは、「何を食べようか」という思い悩みにとらわれていたのです。それゆえ、イエス様は彼らを「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか」と言われたのです。そして、弟子たちが体験した五つのパンで五千人以上の人を満腹にさせた奇跡と、七つのパンで四千人以上の人を満腹させた奇跡とを思い起こさせるのです。イエス様は、五つのパンで五千人以上の人を満腹させ、七つのパンで四千人以上の人を満腹させることのできるお方であります。そのイエス様が共におられるにもかかわらず、パンを持っていないことで思い悩む弟子たちの信仰はまことに薄いと言えるのです。けれども、私たちはこの弟子たちのことを笑うことができるでしょうか?私たちは五千人養いや四千人養いの奇跡を直接体験したことはありません。しかし、それが指し示すところの主の晩餐にあずかる者たちであります。主の晩餐において、私たちは、イエス様が私たちの罪のために肉を裂き、血を流されたことを覚えて、パンを食べ、ぶどう酒を飲みます。パンを食べ、ぶどう酒を飲むことによって、神様がその独り子を与えられたほどに、私たちを愛してくださっていることを味わい知るのです。そのような主の晩餐にあずかりながら、私たちも、「何を食べようか」と思い悩んでいるのではないでしょうか?そうであれば、私たちは、主の晩餐にあずかっている者たちとして、イエス様が私たちを養ってくださるお方であることを今一度思い起こさねばならないのです。

 イエス様は、「パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか」と言われ、再び「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言われました。そのときようやく、弟子たちは、イエス様が注意を促されたのは、パン種そのもののことではなくて、ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々の教えであることを悟ったのです。パン種とは、パンを膨らませるイースト菌のことでありますが、パン種はわずかであっても、パン全体に浸透し、やがてパン全体を膨らませます。それと同じように、ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々の教えは、ユダヤの国民全体に浸透し、影響を与えるのです。では、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えとはどのような教えなのでしょうか?そもそも、ファリサイ派とサドカイ派は教えにおいて大きく異なっていました。ファリサイ派は、記された旧約聖書の他に、先祖の教えを口伝律法と呼んで、同じように重んじておりました。しかし、サドカイ派は、記された旧約聖書の中でも、最初の五つの書物、いわゆるモーセ五書だけを正典としていたのです。ファリサイ派とサドカイ派では、正典の範囲が大きく違っていたのです。それゆえ、ファリサイ派の人々は、復活も天使も霊も認めておりましたが、サドカイ派の人々は復活も天使も霊も認めていなかったのです。このように、ファリサイ派の教えとサドカイ派の教えは大きく違っていたのです。では、イエス様が注意するようにと言われたファリサイ派とサドカイ派の共通の教えとは何でしょうか?そのことを知る手がかりが、1節の「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った」という御言葉にあります。「神から遣わされたメシア、救い主であるならば、神からのしるしによってそれを証明すべきである」。これこそ、イエス様が弟子たちに注意を促されたファリサイ派とサドカイ派の人々の教えであったのです。そして、この彼らの教えは、イエス様がパン種に譬えられたように、ユダヤの国民全体に広まり、ついにはイエス様を十字架につけることを群衆が要求するようになるまでに浸透するのです。

 ファリサイ派とサドカイ派の人々は、イエス様を試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願いましたが、彼らはどのようなしるしを思い描いていたのでしょうか?それはおそらく、民族主義的な、政治的なしるしであったと思われます。つまり、彼らは、神の民イスラエルを異邦人であるローマ帝国の支配から解放するような天からのしるしを求めたのです。なぜなら、彼らが待ち望んでいたのは、イスラエルの民をローマの支配から解放して神の王国を樹立する民族主義的な、政治的なメシアであったからです。彼らは自分たちが待ち望む民族主義的な、政治的なメシアとして、イエス様に天からのしるしを見せるよう誘惑したのです。そのしるしを見たならば、私たちはあなたを信じようと誘惑したのであります。しかし、イエス様はそのような民族主義的、政治的なメシアではありません。そのことは、イエス様が弟子たちに思い起こさせた、五千人の養い、四千人の養いの奇跡からも明かであります。イエス様は、「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パンを七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか」と言われましたが、それぞれ幾籠に集めたのかは記されておりません。その答えは、パン五つを五千人に分けたときは十二籠、パン七つを四千人に分けたときは七籠であります。パン五つを分けた五千人は神の契約の民イスラエルでありました。そして、残ったパン屑を集めると、十二の籠いっぱいになったのです。この「十二」という数字は、イスラエルの十二部族を表します。すなわち、イエス様はすべてのイスラエルを養われるお方であるのです。他方、パン七つを分けた四千人は神の契約と関係のない異邦人でありました。そして、残ったパン屑をあつめると、七つの籠いっぱいになったのです。この「七」という数字は、全世界の民を表します。といいますのも、当時のユダヤ人は、全世界は七十の民族からなると信じられていたからです(創世10章「ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図」参照)。七つのパンで四千人もの異邦人を養い、残りのパン屑が七つの籠いっぱいになったことは、イエス様が全世界の民を養われるお方であることを示しているのです。ですから、イエス様が、五つのパンで五千人以上のイスラエルの民を、七つのパンで四千人以上の異邦の民を養われた奇跡は、イエス様が、民族主義的な、政治的なメシアではないことを示しているのです。イエス様は、ただ弟子たちに、パンの心配をする必要がないことを悟らせるだけではなく、その奇跡によって、御自分がイスラエルの民だけではなく、異邦人をも救うメシアであることを示されたのであります。私たちがあずかる主の晩餐は、民族の違いによって排除されることは決してありません。イエス・キリストを神の御子、救い主と信じるならば、国籍や民族にかかわりなく、あずかることができるのです。それは、イエス・キリストが、すべての民族の救い主であることを示しているのです。

 今朝の説教題を「パン種に注意しなさい」としましたが、イエス様は、今朝、私たちにも「ファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意しなさい」と言われております。私たちは、イエス様がもたらす救いを民族主義的に、また政治的に求めるということはないかも知れません。しかし、私たちもイエス様に、自分の都合のよい条件を突きつけて、これを叶えてくだされば、あなたを信じますと言うようなことをしているのではないでしょうか?困難の中にあるとき、この困難を取り除いてくだされば、あなたを信じますと、天からのしるしを要求することはないでしょうか?しかし、そのような天からのしるしを求めることはよこしまなことであるのです。なぜなら、私たちには、イエス様が十字架の死から三日目に復活されたヨナのしるしが与えられているからです。イエス様は罪のないお方、罪を犯したことのないお方でありながら、私たちの罪のために、十字架の死を死んでくださいました。そして、死から三日目に復活されることによって、罪私たちを罪の支配から解放してくださったのです。イエス様が与えてくださる救い、それはローマ帝国の支配からの救いではなく、罪の支配からの救いであるのです(マタイ1:21参照)。

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